22 初めて出会った日
わたしにとって、赤は特別な色だった。
大好きな人の色だから。
幼いころから身体の弱かったわたしは、ほとんどを屋敷の中で過ごしてきた。少しはしゃいだだけで熱を出してしまうため、外出を制限されていたからだ。
でも、本当は外でたくさん遊びたい。勉強や読書よりも、身体を動かす方が好き。こんな身体でなければ、公爵家の娘と言う身分でなければ、もっと自由に生きられたのに。
外の世界を恋しく思いながら数年、13歳になる年に王都学園への入学が許可された。成長とともに体調を崩す頻度が減り、父は渋りながらも許してくれた。
そして同じ年、わたしは初めての恋をする。それが、ふたりの運命を変えてしまうとも知らずに。
◆◇◆
「はあっ、はあっ……!」
全力で、学園の庭を走り抜ける。とっくに身体は悲鳴を上げていたが、構うことはできない。今は足を止めてはだめだ。
「おい! いい加減止まれ!」
「いやに決まってるでしょ!」
後ろから追いかけてくるのは、複数の男子生徒。恐らく、上級生。
彼らが、中等科に入学したばかりの1年生のわたしを追いかけ回すのは、いま腕の中に抱いている小さな存在が理由。
くぅん、とか細い声で鳴いた子犬が、心配そうにわたしを見上げた。
「大丈夫よ、あんな奴らには絶対に渡さないからっ……あっ!?」
一瞬身体が宙に浮いて、そのまま地面に叩きつけられる。
「……いったぁ」
よそ見をしたことで、派手に転んでしまった。何かに躓いたのだろう、右の足首がうるさいくらいに痛みを訴えている。
「へへ、やっと止まったか」
慌てて後ろを振り向くと、3人の男子生徒が意地の悪そうな笑みを浮かべて、わたしを見下ろしていた。
「早くそいつを渡せ。僕たちが見つけたんだ」
「いやよ、酷いことをするつもりでしょう!?」
「しないって。腹を空かせた迷い犬に、餌をやろうと思っただけだよ」
「嘘よ。聞いてたんだから、この仔にいたずらして遊ぼうって言ってたの」
今から少し前、今日は天気が良かったので昼食は外でとろうかと、ひとり裏庭までやってきた。
ほとんどの生徒は食堂や教室で済ませるため、毎回ひとりでの昼食だったが気にはならない。同じ年頃の女子生徒とは、どうも話が合わないのだ。
貴族の令嬢はドレスやお化粧の話に、次に他人の悪口、それからどこの男がいいとか、そんな話ばかり。ドレスや化粧に興味はないし、悪口を言うような人づきあいもない。ましてやどこのご令息がかっこいいとか、本当にどうでもいい話だ。
平民の女の子たちは、わたしがヴィトランツ家という大貴族の娘だからか、近寄ろうとしてこない。何か無礼を働いてしまったら、それこそどんな目に合うか分からないとでも思っているのだろう。
……別に、何もしないのに。
そんなわけで今日もひとりでの昼食を済ませたのだが、建物に戻る途中で聞こえてきた会話に、無我夢中で彼らの前に飛び出してしまった。
だって、こんなに小さな子犬を虐めて遊ぼうとしているなんて、そんなことを聞いてしまったら放っておけるわけがない。
しかし、彼らの手から子犬を奪って逃げ出したはいいが、日頃の運動不足もあり、このざまだ。
「ふぅん、ならお嬢さんが僕たちと遊んでくれる? そしたらその犬はあきらめてもやってもいいけど」
「いやよ。弱いものを虐めて楽しむような腐った豚肉みたいな人に、興味なんてないもの」
「なんっ……!」
わたしの言葉が気に障ったのか、ひとりが顔を真っ赤にして怒りをあらわにする。他のふたりよりも多少体つきが膨よかなこと、気にしてたのかしら?
「くそっ、チビでガリガリな女が調子に乗りやがって……!」
チビもガリガリも否定する気はない。事実だし、そんなことで腹は立たない。
だが、彼らは違ったようだ。さすがにわたしの言い方が悪かったのだろう。激怒したひとりが、勢いよく拳を振り上げる。
咄嗟にその場に蹲って、殴られるのを覚悟した。
「っ――……………………」
……何秒くらい経っただろうか。何故か、いつまで経っても予想していた痛みは襲ってこない。
「……あれ?」
恐る恐る顔を上げ、目に飛び込んできた光景にぱちぱちと睫毛を瞬かせる。
そこには顔を真っ赤にしていた生徒の手首を掴み、猛禽類のような鋭い眼光で相手を睨みつける、赤い髪の青年がいた。
「いっ痛い痛い! ユリウス、痛いって!」
「おまえら、下級生に絡むのはやめろって言ったよな?」
「違う! 今回は犬をっ……!」
「犬?」
ユリウスと呼ばれた赤い髪の青年は、わたしが抱いている子犬を目に留めて、盛大に顔を顰めた。その表情が、たちまち恐ろしいものへと変わっていく。
「……人じゃなければいいと思ったのか? だったら俺が腐った豚のおまえを殴っても文句ないな?」
「ひっ……ぼ、暴力はやめ――」
「おまえがそれを言うのか? ならこの前平民の下級生を小突いて遊んでた件、やっぱり父親に報告しておく」
腕を掴まれた生徒は急に顔を青くして、ぶんぶんと千切れんばかりに首を振った。
「わっわかったよ! もう絶対こんなことはしないから、それだけはやめてくれ!」
「誓うか?」
「誓うよ!」
今度は全力で首を縦に振る。それを見届けた赤い髪の青年が手を離すと、わたしを追いかけ回していた生徒達は一目散に逃げていった。
しつこさと逃げ足の速さは一級品だな、なんてどうでもいいことを考えていると、頭上から声が降ってくる。
「大丈夫か?」
「あ、はい。助けていただいてありがとうございます」
「どういたしまして。あいつの父親、騎士団の小隊長やってるから、少し脅せばああやってすぐ逃げてくんだ。ばれたら謹慎だろうな」
先ほどの怖い顔からは想像できない、まるで悪戯が成功した少年のように笑う。
「で、足は大丈夫か?」
「え?」
「さっき盛大にすっ転んでただろ」
初対面の相手に足の心配をされるとは思っていなかった。勢いよく地面に衝突した瞬間を見られていたのかと思うと、少しだけ恥ずかしい。
「大丈夫です、お構いなく」
「そんなに腫れてるのに?」
言われて気づいた。よくよく見ると、片方の足首が異様に膨れ上がっている。これは思っていたよりも酷い状態かもしれない。
どうしたものかと悩んでいると、青年はわたしの前に膝を突いて予想外の行動に出た。
「放っておくわけにも行かないから、医務室まで運んでやる」
「え、なにっ――……を!?」
赤い髪が近づいてきたと思ったら、ふわりと身体が宙に浮いた。そう、わたしは今、この人によって抱き上げられたのだ。
「降ろしてください! 自分で歩けます!」
「処置するまで下手に動かさない方がいい」
「でもっ……こんな……」
自分でも顔が真っ赤になっているのが分かった。同年代の男の人に触れられることも初めてなのに、ましてや抱っこされてしまうなんて……
「せめて横向きじゃなくて、縦にしてくれれば……」
「それだと犬が邪魔になるだろ」
確かに言う通りではあるのだが、所謂お姫様抱っこと言われているこの状態は、あまりにも恥ずかしすぎる。
しかし、どう抗議しても降ろしてくれそうもない。下手な抵抗はあきらめ、大人しくこのお節介な人に身を任せることにした。
――少し強引で、弱いものが放っておけなくて、それでいてとても優しい。これが、わたしが忘れてしまった、彼と初めて出会った日の記憶。