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21 深紅の刃



 つんとした、薬品のような臭いが鼻を刺激する。


 窓のない室内に置かれているのは、ベッドと机がひとつずつ。壁際の大きな戸棚には中身の入った複数の瓶と、何かしらの器具のようなものが並んでいた。

 初めて見るものばかりだが、形状からして恐らく拷問に使われる道具ではないかと推測できてしまう。


 ここはアストール邸の地下室。侯爵家ともなれば、地下牢や拷問部屋を所持していてもおかしくはない。だがこの部屋は罪人を閉じ込めておくには異質すぎる。

 清潔感のある壁紙に、真っ白なシーツの敷かれたベッド。あの薬品や器具さえなければ、質の良い宿の一室のような雰囲気だ。


 何故このような部屋が屋敷内にあるのか、知っているのは、きっと目の前に立つ男だけ。


 机の上に置かれていた銘柄のないワインボトルを手に取り、透き通った赤い液体をグラスに注いでいく。とくとくと小気味よい音が続いたあと、その液体と似た色をした深紅の髪の男が、ベッドに座るわたしにグラスを差し出した。


「飲んでくれるね? オルテア嬢」


 ピエロのお面を貼り付けたような、感情の読めない笑みが向けられる。震える右手でグラスを受け取りながら、濁った灰色の瞳を見つめ返した。


「……クライド様、何故このようなことを」


 事の発端は数十分前に遡る。

 ユリウス様の部屋で寛いでいたわたしとエルマさんの元に訪れたのが、この男。


 最初は、何か急用でもできたのかと思った。使用人ではなく、わざわざ本人が訪ねてきたから。

 しかし、クライド様は予想外の行動をする。警戒して扉をすぐに閉めようとしたエルマさんにナイフを突きつけ、この部屋にくるように脅したのだ。


 異常な事態を敏感に察知したのか、膝の上にいたシリウスはクライド様に飛びかかり、そのまま蹴り飛ばされて部屋の床に倒れた。


『オルテア嬢、このメイドもその犬も生かしてほしいなら、私に従ってくれないかな?』


 ぐったりと床に倒れるシリウスの元に駆け寄ったわたしに、クライド様は冷酷に告げる。いったい何が起きているのか、そんなものは考えなくても十分に分かる。

 ユリウス様が今までわたしのそばを離れなかった理由、それを一瞬にして理解した。


 この男が、全ての元凶だ。


 ふたりも人質に取られたわたしに選択肢はない。大人しくクライド様のあとについて、この部屋まで歩いてきた。


 こんな状況に置かれても、今は己の身より、部屋に残してきたシリウスが気がかりで仕方がない。わたしが連れ込んだせいで、厄介なことに巻き込んでしまった。

 ユリウス様が戻ってくれば、すぐに手当をしてくれるはず。そう、今わたしができることは、彼が戻ってくるまで時間を稼ぐしかない。


 こちらの問いかけに、真っ赤な血と同じ色の髪を揺らして、くくっと笑う。


「何故? それは君自身が誰よりもよく知っているはずだけれど。6年前の君がね」


 6年前、その言葉が意味するもの。それは、わたしが記憶を失くすきっかけになった出来事。


「あなたはあの事件に関わりが?」

「そうだとしたら、どうする? 何も覚えていない君に何かできるのかな?」


 できることなんて、ない。それは分かっている。いま重要なのは、少しでも長く会話を続けること。

 そう思っての発言だったのだが、次にクライド様の口から出た言葉に背筋が凍りつく。


「オルテア嬢、私は今からあの日のことを再現してあげようと思っているんだ。だから早くそれを飲んでくれないかな。これ以上時間を稼ごうとするなら、あのメイドにも同じことをするよ?」


 手足を縛られ、口に布を巻かれ、声を出せないように拘束されたエルマさんが、部屋の隅に横たわっている。そのすぐそばには、長い白髪を後ろでひとつに束ねた老齢の執事が、彼女にナイフを突きつけていた。


「……分かりました」


 これ以上会話を続けたら、エルマさんにも危険が及ぶ。わたしが言う通りにしたところで彼女が確実に助かるとは言えないが、可能性が少しでもあるならそちらを選ぶしかないだろう。


 飲んではだめ、そう訴えるように必死で首を振るエルマさんから視線を外し、手の中にある赤い液体を見る。


 これは毒だろうか。飲んだら、死ぬ――?

 ……いや、クライド様はあの日を再現すると言った。今わたしが生きているのだから、致死毒ではないはず。


 だったら、賭けるしかない。手遅れになる前に、ユリウス様が来てくれることに。


 こくり、とルビーに似た綺麗な赤色を一口飲み込む。途端に喉が熱を帯びた。この感覚には覚えがある。


「……お酒?」


 口内を満たしたのは、甘いフルーツの香り。そして、焼けるような熱さ。恐らく、かなり強いお酒。

 不味くはないが、こんなものをたくさん飲んだら間違いなく具合が悪くなりそうだ。


 顔を顰めたわたしの頭上から、冷たい言葉が降ってくる。


「全部飲むんだ」


 今はこの男の言う通りにするしかない。ぎゅっとグラスを握り直し、味を楽しむこともなく一気に喉の奥へと流し込んだ。


「はぁっ……」


 胸の辺りが熱くて、熱っぽい吐息がこぼれ落ちる。くらくらとした眩暈に似た感覚を覚えながら、空になったグラスを突き付けた。


「っ、飲みました、よ」


 クライド様は無言でグラスを受け取って、そばにある机に置いた。

 どんどん鼓動が早くなる。これは強すぎるアルコールのせいだろうか。お酒なんてほとんど飲んだことがないから分からない。


 それにしても、クライド様はわたしを見下ろしたまま何も言わない。もしかして、これで終わり……?

 不思議に思って顔を上げると、急に前方から伸びてきた手に肩を押された。


「え――」


 ぽすり、と重力のままにベッドの上に仰向けに転がる。慌てて起き上がろうとしたところで、違和感が。


「あ、れ……」


 身体が、思うように動かない。全身が鉛のように重いのだ。まるで、使い物にならなくなった左手と同じ――

 驚きに目を見張ったわたしの視線の先で、深紅の髪が視界に現れる。研ぎたての刃物のような冷笑を浮かべて、男は言った。


「やはり、君は随分と効きやすいようだな。この薬が」

「く、すり……?」


 辛うじて発せられた声は、ひどく掠れていた。声すらまとも紡げない。


「この液体は、摂取した者の意識を残したまま身体の自由を奪う薬物なんだ。通称ザクロと呼ばれている。ブルトニアでは禁止薬物に指定されているが、ガーシュウィンではいまだに拷問の際に使用されているんだよ」


 ――拷問。

 棚に置いてあった器具を思い出す。嫌な予感が、頭の中を埋め尽くした。


「効果には個人差があるが、君は特に症状が顕著だな。6年前と同じで、摂取した瞬間からまるで人形だ」


 言いながらベッドに乗り上げわたしに跨ると、首筋を指でなぞった。

 恐怖と嫌悪感で吐き気がする。これから何をされるのか、想像できないほど馬鹿ではない。


「あの時は邪魔が入ったが、ユリウスは今ここにいない。たっぷり甚振ってから、殺してあげるよ」

「なんっで……」

「なんで? 君が生きていたら、いろいろと厄介なんだ。記憶が戻って告発でもされたら、私の立場が危ういからね。ああ、君を虐めるのはただの趣味だよ」


 口角を吊り上げて楽しそうに笑う。愉快で堪らないといったその表情に、あることが頭を過った。

 それは、過剰な加虐嗜好によってお付き合いをした女性を何人も廃人に変えてきた、というユリウス様の噂。あの噂の出所は、この男なのではと。


「さあ、オルテア嬢は何がお好みかな? 最近手に入れた肌を溶かす薬も楽しそうだけれど、やはりユリウスがやったのと同じように刃物で斬り刻もうか。この白い首にナイフで傷を付けたら、あの時よりも派手に血が飛び散りそうだ」


 机に並べられていたナイフを手にとり、首筋にあてがう。ひやりとした冷たい刃の感触に、声も出せないほどの恐怖感で押し潰されそうだった。恐ろしくて恐ろしくて仕方がないのに、自由の利かないこの身体は震えることさえも許さない。


「本当はゆっくり可愛がってあげたいけれど、あまり時間をかけると弟が戻ってきてしまうからね。なるべく短い時間で、最高の悪夢を見せてあげよう。だから、美しく啼いておくれ」

「い、やっ……」


 深紅の髪が迫ってくる。目の前が赤一色に染まって、まるで、あの日と同じ――


 ……あの、日?


 それは、わたし達の人生を変えた日の、最後の記憶。



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