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2  割れたグラスを捨てるには



『オルテア、おまえはアストール家の次男に嫁ぐことに決まった』


 黒い髪を撫でつけた父は、いつものように眉間にしわを刻んで、睨むように言った。この態度には慣れている。

 6年前に起きた事件のせいで傷モノになったわたしは、もう父にとって娘ではないのだ。きっと人間とも認識されていない、家畜以下の生き物。


『女であれば中身がどんな状態だろうと気にしないと言っていた。おまえにはこの上なく、相応わしい相手だろう』


 6年前、まだ13歳だったわたしは、当時通っていた学園主催のダンスパーティーに参加し、そこである事件に巻き込まれる。何者かによって密室に連れ込まれ、暴力を受けたらしいのだ。


 らしいというのは、わたしにはその時より以前の記憶がない。医者には大きなショックを受けたことによって、全ての記憶を封印してしまったのではないかと言われた。


 生活に必要な知識は残っていたので生きる上で不便はなかったが、両親や姉、友達や教師など、誰ひとりわたしの記憶の中にはなかった。主に人間関係や人物に対する記憶が抜け落ちており、自分が誰なのかも分からない。


 誇り高きヴィトランツ公爵家の娘がこのような状態では外に出せるはずもなく、父の判断で学園は辞めることになった。


 事件の犯人はいまだに捕まっていない。目撃者もおらず、犯人に該当するような人物を見つけられなかったことから、公爵家は泣き寝入りするしかなかったのだ。

 ヴィトランツの権力と財力を使えば、犯人を特定できたかもしれない。だが、父はそれをしなかった。


 父にとって傷の付いたわたしは、ヒビの入ってしまったグラスと同じ。まだ使えるのに捨てるしかない存在。

 まるで最初からいなかったかのように娘を自室に閉じ込め、一歩たりとも外に出ることは許さなかった。母はわたしが産まれてすぐに亡くなっているため、助けを求めることはできない。


 唯一優しく接してくれたのは、実の姉、ただひとり。


『待ってください、お父様……! アストール侯爵家といったら、あの野蛮な噂で有名な家じゃないですか! オルテアをあのようなところに嫁がせるなんて、私は反対です!』


 まっすぐに伸びた艶やかな黒髪に、可憐な花を咲かせたような菫色の瞳。わたしのエメラルドブルーの瞳よりも何倍もきれいな姉さまの瞳が、怒りで歪んでいる。


『アマーリエ、黙りなさい。これはもう決まったことなんだ。おまえが一生世話をするわけにもいかないだろう』


 アマーリエお姉さまは、毎日わたしの部屋に来ていろいろな話を聞かせてくれる。その日あったことや過去のこと、嬉しかったことや悲しかったこと、わたしが退屈しないように本当にたくさんの話をしてくれた。


 わたしは幼いころから身体が弱いらしく、少し無理をしただけで体調を崩しやすかった。それは事件のあとも同じで、すぐに熱を出すわたしを心配して、姉さまが朝まで部屋にいてくれたこともある。

 もう19歳になったのだからひとりで大丈夫と断っても、『何歳になっても、たとえ記憶がなくても、あなたは私の妹だから心配なの』と言って諦めてくれないのだ。


 そんな3歳年上の姉さまが、わたしも大好きだった。ひとりぼっちの世界で唯一わたしに優しくしてくれた人。6年間という長くも短い時間で、姉妹の仲を再構築できるほどそばにいてくれた。


 ……だからわたしは、父の言う通りアストール家に嫁ごうと思う。


『世話だなんて、そんな言い方をしないでください! これは私が好きでやっていることです! 負担に感じたことは一度も――』

『姉さま』


 遮るように声を掛けると、菫色の瞳がこちらを向く。


『姉さま、お父様の言う通りよ。姉さまはお婿さんを迎えたばかりだし、わたしにばかり構っていないで、これからヴィトランツ家を支えて行かなくちゃ』

『オルテア、あなた……』


 アマーリエ姉さまはかねてから婚約していた男性と、半年前に結婚したばかりだ。ヴィトランツ家に男児はおらず、長女である姉さまが婿を取る形で家を継がせるらしい。

 お相手の男性は何度か顔を合わせたことはあるがとても良い方で、もともとは政略結婚だったが、今では仲睦まじく公爵邸で暮らしている。


 だからこそ、そんなふたりの未来にわたしが傷をつけたくなかった。


『大丈夫よ、姉さま。アストール侯爵家の噂は確かに恐ろしいものだけれど、本当かどうかは分からないでしょ?』

『でも……っ!』


 姉さまは最後まで反対していた。けれど痺れを切らした父の一喝で、渋々納得することになる。これに関してだけは父に感謝しようと思った。



 それから一週間後、驚きの速さでアストール家に輿入れすることになった。持参金や嫁入り道具は全て父が用意したようで、わたしは事前に渡された婚姻契約書にサインをしただけ。


 ヒビの入ってしまった娘の捨て場所に、アストール家はちょうどいい。父は大変満足そうな顔をして、契約書を手に部屋から出て行った。それから家を出る日まで、一度も顔を合わせることはなかった。


 大丈夫、まだ希望はある。


 酷いことをされないように、まずはユリウス様に好かれるところから始めよう。好きになってもらえれば、噂のようなことはできないはず。


 部屋にこもっていた6年間で、最低限の世間の事情とマナーは身に着けた。公爵令嬢と名乗るにはまだまだ拙いけれど、せめて見放されないように頑張ろう。


 そう密かに決心して、今日という日を迎えたのに……

 

 ……いったいどうして、こんなことになったんだろう。



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