19 エルマさんの事情
赤みを帯びたふわふわの毛を、手のひら全体で撫でる。指先から伝わる心地よさに、自然と目を細めた。
「良かったですね。シリウスを部屋に入れる許可をもらえて」
膝の上に小さな犬を載せてソファで寛ぐわたしを見て、エルマさんも口元を綻ばせる。
ここは日々の生活の拠点にしているユリウス様の部屋。湖での事件のあとから丸一日経ったが、熱を出したこともあり、大事を取って部屋で静養するように言われた。
ユリウス様は襲撃事件の状況説明をするため、朝から騎士団本部へと出かけている。行きがけに、毎日部屋にいて退屈だろうからと、小型犬のシリウスを部屋に連れてくる許可をくれたのだ。
「ふふ、ここがいいの?」
尻尾の付け根の辺りをこちょこちょと指の先で掻くように撫でると、気持ちよさそうにクンクンと鼻を鳴らして身体をくねらせる。その様子が本当に可愛らしくて、先ほどから顔の筋肉が緩みっぱなしだ。
「シリウスは人懐っこい子なんでしょうか?」
「そうでもないと思いますよ。ユリウスとジェン以外にはあまり近づこうとしないので」
それは初耳だ。まだ会ったばかりなのに、こんなに懐いてくれるなんて素直に嬉しい。
「私もこの屋敷で働き始めてから3年近く経ちますが、いまだに触らせてくれません。ですので、オルテア様は特別だと思います」
「そう言えば……エルマさんはユリウス様と歳が同じですよね? どうしてここで働こうと思ったのですか?」
話の流れのついでに、以前から気になっていたことを問いかける。
ふたりは学園時代からの友達同士だ。卒業後からエルマさんはアストール邸で働き始めたようだが、見かたによってはユリウス様のそばにいたいがために、ここでの勤めを決めたとも思える。
本当に彼に気がないのかと疑ってしまっても、仕方がないだろう。
「やっぱり気にされてますよね。……分かりました。オルテア様に信用して頂くためにも、私の事情をお話しいたします」
掃除をしていた手を止めて、エルマさんが近くまで歩いてくる。そして、いつもの彼女からは想像もできないような真剣な顔で、ゆっくりと話し始めた。
「私はとある大貴族の、妾の娘なんです」
神妙な声で発せられた言葉に、思わず口元に手を当てて聞き返す。
「もしかして……隠し子ですか?」
「はい。父は私が学園を卒業するまでの経済的な工面をする代わりに、認知はしてくれませんでした。学園を卒業させてやるから、卒業後は家に関わるなと母に約束させたのです」
王都学園に入学するためには、一定額の入学金を納める必要がある。学園を卒業していれば職の幅も広がり、お給金の高い仕事にもつけるようになるため、経済的支援と引き換えに子供を切り捨てたのだろう。
「将来的には、母と二人で食べて行けるだけの稼ぎがあればいいと思っていたのですが、私が卒業を迎える2か月前に、母が病で亡くなりまして……これからひとりなのかと生きる気力を失くした私に、手を差し伸べてくれたのがユリウスだったんです」
にこりと笑ったエルマさんの表情にはどこか陰りがあって、この人も修羅場を生き抜いてきたのだという事実が伝わってくる。
「とりあえず食うためには働けと、うちでいいなら雇ってやるからって言ってくれて、アストール邸で働くことを決めました」
彼女がこの屋敷で働く理由は分かった。しかし、絶望の淵にいたときに手を差し伸べたのがユリウス様なら、余計に彼のことを好きになってしまうのではないかと、不安が心を覆っていく。
そんな私の心情を察したのか、エルマさんはすぐに言葉を続けた。
「正直あの容姿に実力ですし、魅力があるのは確かですが、ユリウスにはずっと想い人がいて、私はそれを知っていたからか不思議と恋愛感情は湧きませんでした。それは今でも同じです」
どくんっと心臓が揺れる。それは、彼には好きな人がいると言うことで。
貴族であれば、20歳を迎えるまでに結婚相手が決まっているのが普通だ。次男であるユリウス様は家督を継げないにしても、実力を考えれば相手がいてもおかしくはない。
そんな彼が結婚をしなかったのは、想い人がいたから……? 家の事情で、急にわたしとの結婚を決められてしまったのではないのかと推測できてしまう。
先ほどまで意気揚々と温かい毛を撫でていた手が止まり、俯く。どうしたのかと、小さなふたつの黒い瞳がわたしを見上げた。
じわりと目頭に涙が滲んだところで、エルマさんが慌てて言葉を付け足す。
「やだ、私ったら言い方が悪かったですね。私の口から言うのは憚られますが……オルテア様、その想い人と言うのは――」
――コンコン、という扉を叩く音が、話を遮るように室内に響いた。
エルマさんとふたり揃って扉へと視線を向け、首を傾げていると、再び同じ音がする。
ユリウス様は先ほど屋敷を出たばかりなので、彼が帰ってきたとは考えにくい。そもそも彼はノックをした後に自分で鍵を開けて入ってくるので、こちら側の返事を待っているということは別人だろう。
この部屋を訪れる者は、ユリウス様とエルマさん以外にはいないはずだが……
「私が出ますね」
不思議に思いながらもエルマさんが内側から鍵を開け、扉を押し開く。
その先に見えた人物に、ごくりと息を飲み込んだ。