18 記憶のカケラ
濡れた黒髪に指先で触れながら、ユリウス様はベッドを示した。一瞬何を言われたのか分からなくて呆けた顔をしていると、彼はもう一度同じ言葉を紡ぐ。
「早く座れ。髪拭くぞ」
一瞬で我に返り、ぶんぶんと首を横に振る。
「そんなことさせられません!」
「このままにして風邪でもひいたら、もっと困るだろ」
「う……」
申し訳なさから断りを入れてみたが、結局正論で返されてしまった。確かにこのままでは部屋中濡らしてしまいそうだし、仕方なくとぼとぼとベッドに向かい、ちょこんと腰かける。
隣に座ったユリウス様は肩にかけていた布を手に取り、予想に反した優しい手つきでわたしの髪を包み込んだ。
「なんだか……慣れてませんか?」
少しずつ水気を拭き取っていくその手つきが、どうにも手馴れているように見えて、思わず問いかけてしまった。
もしかして、以前にも同じようなことを女性にしたことがあるのだろうか。こんなことを聞いたら、嫉妬しているのが分かってしまうかもしれないのに、口から出た言葉は引っ込めようがない。
そんなわたしの不安をよそに、彼は平然と答える。
「昔は犬の水浴びのあとに、よくこうやって拭いてやってたんだ」
「……い、ぬ?」
空いた口が塞がらないとはこのことか。嫉妬した相手は、人間ですらなかったらしい。
彼に背を向けていたおかげで、ぽかんと口を開けたままの間抜けな顔を見られなくてよかった。
と言うか……わたしは犬と同じ扱いなの?
嫉妬でもやもやとしていた心の内が、今度は不安で埋め尽くされていく。
わたしはお父様にお金で売られた身だ。この結婚は本人同士が望んだものではないし、ユリウス様は仕方なく受け入れただけ。
彼は優しくしてくれるけれど、それはきっとわたしを不憫に思っての情からきているもので、決して恋愛感情からではない。
この人に好きになってもらうには、どうしたらいいのだろう。これは人生最大の難題かもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていたせいで気づかなかった。彼の手がいつの間にか止まっていたことに。
どうしたのかと横を向くと、僅かなランプの明かりの中でも煌めく、黒曜石のような瞳がまっすぐこちらを見ている。
「どうかされましたか?」
思わず問いかけると、彼は持っていた布をベッドに置いて、今度は視線をわたしの左腕へと移した。
「嫌だったら、断ってもらって構わないんだが……腕の傷を見せてもらえないか?」
妙に真剣な顔をして何を言い出すのかと思えば。妻の身体に傷があるのなら、確認しておきたい気持ちは分かる。
「あまりきれいなものではないですが……」
そう前置きをして、ネグリジェの袖を肩口まで捲り上げると、二の腕の内側にある大きな傷が姿を現す。今となっては、自分でもまじまじと見ることのなくなった、刃物で切り裂かれたような傷痕。
ユリウス様は何も言わず、ただじっと傷を見ていた。しばらくして沈黙に耐えきれなくなったわたしが口を開こうとすると、掠れた小さな声が届く。
「触れても、いいか?」
「ど、どうぞ?」
予想外の質問に上擦った声が出る。
恥ずかしさを感じながらも身構えていると、スラリと伸びた指先が、ゆっくりと傷痕をなぞっていく。他人の肌が敏感な皮膚の上を這っていく感覚に、ぞくりとしたものが背筋を駆け巡り、つい湿った吐息が溢れた。
「っ…………」
――どうしよう。
ただ傷痕に触れられただけなのに、全身が熱い。これ以上この時間が続いたらおかしくなってしまいそうなのに、頭の隅ではやめないでと別の意思が訴えている。
「ユリウス、さま……これ以上は……あっ」
身体を引こうとするも、あっという間に背中に腕を回され、左手首を掴まれてしまう。そして、夕焼けを思わせる鮮やかな赤色の髪が近づいてきて――
「んっ」
彼の薄くて綺麗な形をした唇が、二の腕の内側に触れた。そのまま隆起した傷痕を、唇の先で摘まれる。
「だ、めっ……っ」
何が起きているのか、まともに判断できる思考はとっくの彼方で。ただされるがままに、彼の唇を受け入れるしかない。
すでに完治した傷のはずなのに、触れられたところがじんじんと熱を持って、まるであの時のような――
『神様、――どうか、彼をたすけて』
どこからか聞こえてきた声が、頭の中で反響する。
白黒に明滅する視界の先で、真っ赤な血飛沫が舞った。今見たものは現実か、それとも幻覚か。
何故かこの先を知ってはいけない気がして、ぎゅっと目を瞑り、右手で目の前の肩を押し返した。
「はあっ、はぁ……っ」
どくどくと全身の血液が心臓に流れ込んでくるような、激しい鼓動を感じる。荒くなった呼吸を整えようと肩で息を繰り返していると、遠慮がちなか細い声が聞こえた。
「わ、悪い、……抑えきれなかった」
八の字に歪んだ眉の下にある、黒い瞳が揺れている。こんなに動揺している姿は初めて見るかもしれない。
「大丈夫か……?」
「……はい。すみません、少し驚いてしまって」
深く息を吸って呼吸を整え、心配そうに問いかける人を見上げた。
「いや、悪いのは俺だ。君が謝る必要はない。本当にすまなかった」
たしかに驚きはしたが、嫌ではなかった。少し強引だったけれど、彼がわたしを傷つけるはずはないと、頭のどこかで思っていたから。
いまだに触れられた傷痕が熱い。どうしてこうも疼くのか。考えてみても、記憶のない自分には答えを見つけることはできそうもなかった。
「ほら、病み上がりなんだから、もう寝ろ」
「起きたばかりなので、あまり眠くなくて……」
「横になってたら、眠くなるだろ」
「そうですね、ユリウス様が添い寝してくださったら――」
「却下」
ものすごく嫌そうな顔で拒否されてしまう。
「寝るまでは、ここにいてやるから」
そう言ってベッドの縁に座りなおしたので、大人しく横になる。大きな手がわたしの頭をひと撫でして、優しく囁いた。
「おやすみ」
不思議なことに、すぐに眠気は襲ってきた。
先ほど頭の中で見えた光景はなんだったのか。何か大切なことを忘れている気がするのに、思い出そうとした思考は、深い深い眠りの海に沈んでいった。