16 駆け引き(ユリウス視点)
「っ、急げ!」
焦る心を落ち着かせることなく、手綱を握りしめる。俺の気持ちに応えるように、馬は速度を上げた。
「オルテア、しっかりしろ! もうすぐ屋敷につくぞ」
触れただけですぐに分かるほどに、彼女の身体は熱を帯びている。体調を崩しやすいことなど昔から知っていたのに……それも、あの様なことがあった後では無理もない。
湖での襲撃。
男たちの話しからして、依頼したのはひとりしか考えられない。あいつの耳には入らないようにしていたのに、甘かった。本当に、どこまでも汚い男だ。
ギリッと奥歯を噛みしめながら、彼女を抱える腕に力を込める。やっとのことで見えてきた門をそのまま突き破るように駆け抜け、庭にいた人物に声を投げた。
「ジェン! 手伝ってくれ!」
「坊ちゃん!? どうされました?」
駆けつけてきたジェンは、俺の腕の中にいるオルテアを見て目を丸くする。そのまま何かを察したように、黙って手を貸してくれた。
「悪い、馬を頼む」
なんとかジェンの手を借りて馬から降りると、彼女を抱えて屋敷に入る。途中でエルマを拾い、急いで自室に駆け込んだ。
「何があったの!?」
「話はあとだ。熱が酷い」
「分かってるわよ。どいて、私がやるから」
荒く呼吸を繰り返すオルテアをベッドに寝かせ、言われた通り場所を譲る。
エルマは手早く上着を脱がし、中に着ていた服の胸元を寛げた。はだけた服の隙間から、緩やかに膨らんだ白い肌が見えて、慌てて目を逸らす。
「……医者を手配してくる」
この場にいても自分にできることは何もない。不安な気持ちをぐっと抑え込んで、ひとり部屋から立ち去った。
◆◇◆
いつの間にか日も暮れ、夕食の時間もとっくに過ぎたころ、ようやくオルテアの容体が落ち着いた。
医者に処方してもらった薬が効いたのか熱もある程度下がり、今はすやすやと穏やかな寝息を立てている。
「悪いな。助かったよ、エルマ」
「いいのよ。湖に行くのを提案したのは私だし、私にも責任があるわ」
ベッドの周りに散らばる服を片付けながら、エルマが申し訳なさそうに言った。自分が部屋から出ているうちに着替えさせたようだ。
「それより、犯人に心当たりはあるの?」
「聞くまでもないだろ」
「……やっぱり、そうなのね」
俺の返答に、エルマは大きく溜め息をついた。
「もうすぐにでもこの屋敷を出て、リーベに行った方がいいわ」
「……分かってる」
そんなことは分かっている。だが、このまま何も知らない彼女を連れて行くわけには行かない。
もしオルテアが記憶を取り戻したら、きっと俺を軽蔑するだろう。俺との結婚なんてありえないと言い出す可能性だって十分にあり得る。そんな彼女を、無理やりリーベに連れて行くことはできない。だから――
「オルテアの体調が回復したら、すべて話そうと思う」
彼女と再会してから、この短期間で築き上げた信頼が崩れ落ちるかもしれない。欲を言えば、もう少しだけこの時間を噛みしめたかった。だが、もうこれ以上先延ばしにはできない。
アドルフ様との約束を果たすためにも、俺自身に決着をつけるためにも。そして、俺の罪を知ってもらうためにも、あの日起きたことを伝えなければ。
「そう、決心がついたのね」
エルマは深く頷きながら、優しくほほ笑んだ。彼女は6年前の真実を知っている。当時16歳だった俺がどうしてもひとりで抱えきれず、ひとりにだけ打ち明けたからだ。
「ねえ、もし無事にリーベに行けることになったら、私も連れて行って」
「いいのか? リーベだぞ?」
「いいわ。ここまできたらあなた達の結婚式まで見届けたいし。それに、どちらにしろアストール家のメイドはもう辞めようと思ってたの」
暗い表情で俯き気味に言うエルマを見て、俺は首を傾げる。
「何かあったのか?」
「その質問は愚問だと思わない? あなたがリーベに行って、旦那様と奥様が出て行ってから、ここは酷いものよ。誰かさんのおかしな性癖のせいで、女性はみんな危機感を感じてる」
両腕で自身の身体を抱きしめながら、身震いするように言った。言葉の意味が分かるだけに、申し訳なさが募る。
「あなたがこの仕事を紹介してくれたのは本当に感謝してるわ。だからまた次も、なんて言うのは烏滸がましいのは分かってる。けれど、オルテア様が許してくれるのなら、この方のメイドを続けさせてほしいの。こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれないけれど、なんだか妹ができたみたいで楽しくて」
そう言ってエルマは表情を一変させ、明るく笑った。
リーベに行ってまた新しいメイドを付けるよりは、慣れているエルマの方がオルテアも楽だろう。断る理由はない。
「俺の方からも、頼むよ」
「交渉成立ね。あとはあなた次第よ」
「分かってる。……そのためにも、用事を済ませてくる。おまえもここから出るときは戸締りを忘れるなよ」
エルマがしっかりと頷いたのを確認して、目的の場所へと向かった。
迷うことなくひとつの部屋を目指す。見えてきた目的の扉を、ノックもなしに押し開いた。
バンッと扉が叩きつけられる音が響いて、中にいた人物が一瞬こちらを向く。
「ノックもなしに入ってくるとは、随分と失礼じゃないか」
手にした書類に視線を落としたまま、わざとらしく言う。その表情から読み取れるのは、嘲笑だけ。
ここは父の執務室。病気の父に代わり、部屋の奥にある椅子に座っているのは――
「クライド、説明しろ」
激しく糾弾したい気持ちを抑えて紡いだ声は、自分でも驚くほど低いものだった。しかし、普通の者ならば怖気付いただろうその声を聞いても、目の前の男に動じる気配はない。
それどころか気怠そうに顔を上げ、首を傾げた。
「何を怒っているんだ、ユリウス」
「俺との取引を忘れたのか?」
「忘れるわけがないだろう。私はおまえの罪を公表しない、おまえは私の行為に目を瞑る。6年前に成立した取引だ」
何故そんなことを今さら聞くのか、とでも言うような表情でこちらを見る。本当に腹の底の見えない男だ。
沸々と湧いてくる怒りを抑え込んで、できるだけ冷静に問い返す。
「なら何故オルテアを襲わせた」
「勘違いをしているようだが、私たちの取引にあの女の扱いは含まれていない。オルテア嬢をどうしようと、それは私の勝手だ」
諭すように言い、今度は盛大に溜め息をこぼす。重たい空気が降り積もる中で、兄は呆れを滲ませた表情で続けた。
「ユリウス、おまえこそ自分の立場を弁えたらどうだ。彼女が記憶を取り戻すことがあれば、一番困るのはおまえだろう。事実を世間に公表されたら、アドルフ大公の名にも傷が付く。あの女を殺し、おまえが賊を処分する。私たちの未来のために完璧な機会を用意してやったのに、何故無駄にした?」
悪びれることなく言うその様子に、恐怖を覚える。もし自分が間に合っていなかったら、オルテアはすでにこの世にいなかったかもしれない。
そう思えるほどに、兄は己の欲望に忠実に生きている。
「いい加減、あの女に執着するのはやめろ」
確かに兄の言う通り、過去の行いが世間に知られたら、俺を後継にと選んで下さったアドルフ様も責任を問われる可能性がある。だが俺にとってオルテアは、簡単に切り捨てられるような存在ではない。
アドルフ様も当然リスクがあることは承知しているだろう。それでも俺を送り出してくれた。あの方の恩に報いるためにも、兄との決着もつけなくてはいけない。
「忠告は受け取っておく。この件は俺が方を付けるから、もう手を出すな。おまえのやったことについては秘密にしておくと約束する」
オルテアには真実を話す。だがそこで兄の名を出す気はない。俺のやったことだけを伝えればいい。
「あまり過ぎた真似をすると、俺も容赦はしない」
これが牽制になるかは分からないが、何もしないよりはましだろう。
ふむ、と頷いて兄は視線を逸らした。
「ところで、湖での状況について聞き取りをしたいと、先ほど騎士団の者が訪ねてきた。時間も遅いから今日のところは帰ってもらったんだが、2〜3日中に本部に来てほしいとのことだ」
「分かった、上手く言っておく」
死体をあのままにしておくわけにもいかないため、日が暮れる前に騎士団への通報は済ませた。全員殺したのは、男たちから余計な情報が漏れないようにするためだ。
今はできるだけ兄を刺激しないように動くしかない。
「ああ、期待しているよユリウス」
そのまま目を合わせることなく、執務室から立ち去った。