14 優しい嘘
キンッという刃物の擦れる音が、静かな湖畔に響く。その音は何度も繰り返され、やがてひとりの男が血飛沫を上げて倒れ伏した。
遠く離れた視線の先で、まるで物語の中で描かれるような死闘が繰り広げられている。だが現実は、あのように生温いものじゃない。
実家にいた6年間で様々な本を読んだが、そのどれからも想像できなかった光景が、目の前で起きているのだ。
4人に減った男たちは、ひとりでは敵わないと悟ったのか、次に一斉に襲いかかる。
ユリウス様は己に向かってくる剣の数々を上体を捻って交わし、少し出遅れた男の足元へと飛び込んだ。その勢いのままに、大きく薙ぎ払う。
またひとり、地面に沈んだ。
「強い……」
そんなありきたりな感想が口からこぼれてしまうほどに、彼の剣技は見事だった。あれは他人に見せるための剣ではない。人を殺すための剣だ。
わたしと出会うまで彼が何をしていたのか詳しくは知らないが、情勢が安定しているとはいえ、リーエンベーグでの生活が穏やかな日々だけだったとは考えにくい。
目にしただけでそれが想像できてしまうほど、ユリウス様の剣は洗練されている。
残りは3人だが、これでは決着が着くのも時間の問題だろう。
「なんなんだこいつは!?」
「ただの貴族のボンボンだって聞いてやってきたのに、話が違うじゃねぇか!」
焦りを滲ませた男たちの声が聞こえてくる。わたしだってこんなの予想してなかった。
今となってはこうやって湖に逃げたことで、足手纏いにならずに済んで良かったとさえ思う。
「くそっ、ヴィッツ! 弓を拾って女を狙え!」
ひとりがそう叫ぶと、死体のそばにいた男がすかさず弓矢を拾い、構える。しかし、矢が放たれる寸前で間に割り込んだユリウス様が、剣で弓を弾き飛ばした。
ほっと息をついたのも束の間、一瞬にして全身から血の気が引く。ユリウス様の背後から、別の男が剣を振りかざし――
「っ――ユリウス様、後ろ!!」
とっさに叫んだ。今まで生きてきた中で、一番大きな声で。
わたしの声が届いたからかは分からないが、彼はすんでのところで身体を捻り、後ろからの一撃を躱す。しかし、完全には避けきれず、剣の切先が左の上腕を抉った。
「いやっ――!」
取り乱しそうになるわたしとは対照的に、ユリウス様は冷静に間合いを取る。そして一気に斬り込み、立て続けにふたりを沈めた。
先ほど確実に一撃を受けたはずなのに、彼の様子は全くそれを感じさせない。わたしの位置からでは切り裂かれた服の状態しか見えず、さらに黒い服を着ているせいで出血の状態も分からなかった。
平然と剣を振った様子から、さほど大事には至っていないと思うのだが……
不安をよそに、ユリウス様は剣についた血を振り払いながら、残ったひとりへと近づいていく。
「ひっ……い、命だけはっ……!」
既に戦意を喪失した最後のひとりは、ぺたりと地面に尻もちをつき、命乞いを始める。そんな男の喉元に剣先を突き付けて、低い声で問いかけた。
「誰の指示だ」
「しっ知らねぇ! 俺たちはただ金で雇われて……!」
「雇い主を言え」
「わからねぇんだ! 女を殺すか攫ってきたら、高額の報酬をくれてやるってローブで顔を隠した男が――」
「そうか」
最後まで言い終わらぬうちに、声が途切れる。ユリウス様が喉元を大きく切り裂いたからだ。ここからでも分かるくらい血しぶきが舞い上がり、男は動かなくなった。
わたしは目を背けることすら忘れて、彼の姿を見ていた。とても直視できないような残酷な光景だが、彼が命懸けで守ってくれたことを考えると、目を背けてはいけない気がしたのだ。
やがてユリウス様の黒い瞳がわたしへと向けられて、まっすぐに桟橋へと歩いてくる。
「さっきは助かった」
「わたしは何も……」
「後ろって教えてくれただろ」
あの時の声は届いていたようだ。しかし、結局怪我を負わせてしまった。傷の状態も確認したいし、ひとまず岸に戻らないといけないのだが……どうしたものか。
船の中にあるオールを使って岸まで漕げばいいのだが、右手の腕力だけで辿り着けるかあやしい。
とりあえず試してみようとオールに手をかけたところで、静止の声が届く。
「オルテア、何もするな。そこでじっとしてろ」
そうは言っても、このままでは岸に戻れない。どうしたらいいのかと次の言葉を待っていると、彼は急に着ていた服を脱ぎだす。黒い上着を地面に落とすと、中に着ていた白いシャツの左腕部分が真っ赤に染まっていた。
「っ――!」
二の腕全体に滲んだ血は、見ただけで傷の深さを思い知らせる。
「ユリウス様、怪我がっ!」
「大したことない」
「でも……!」
「いいから絶対に動くなよ」
わたしの声など無視して、今度は履いていたブーツを脱ぎ捨てる。シャツとズボン一枚になったユリウス様は、勢いよく湖へと飛び込んだ。
そこまでして、やっと彼のやろうとしていることを理解する。
まさか、泳いで此処までくる気なの?
どう考えてもそれしかないのだが、あんな怪我を負って水に入るなんて……
左腕から滲む血が、透明な水に溶けていくのが分かった。恐らく、まだ完全に血が止まっていないのだろう。
早く止血しないと! そう焦る気持ちはあるが、今のわたしにはここで待っていることしかできない。
悔しい。悔しい。
彼の力になれないことが。
せめてこの腕がもう少しまともに動けば、何かひとつくらいは役に立てるかもしれないのに。
もどかしさに唇を噛みしめる。気づかないうちに強く握りしめていた右の手のひらには、爪の痕がくっきりと刻まれていた。
焦るわたしとは対照的に、ユリウス様は表情ひとつ変えず船まで辿り着く。そして後ろに回り込むと船を押し始めた。
「……ごめんなさい」
無意識に謝罪が口を衝く。
「何がだ?」
「わたしが湖に行きたいなんて言ったから……」
それだけじゃない。
彼の手を借りないと何もできないことも、足手纏いになったことも、こうやって助けを待つしかできないことも。
ぜんぶ、ぜんぶ……ごめんなさい。
何もできなくて、ごめんなさい。
じわりと目頭が熱を持つ。必死に涙を堪えていると、彼がひと言。
「俺は楽しかったけどな」
柔らかいその声音に、後ろを振り返る。船の死角にいるせいで赤い髪と目元しか確認できないが、その表情は笑っているように見えた。
「何を気にしているのか知らんが、俺はおまえとここに来られて楽しかったんだから、それでいいだろ。おまえは違うのか?」
「わたしも……楽しかったです」
「ならそれでいいだろ。ほら、着いたぞ」
桟橋に船を寄せて、揺れないように固定してくれる。
「ありがとうございます」
礼を言って立ち上がり、船から降りる。彼は岸の方から回り込んで、浅瀬になっているところから這い上がった。
水を吸って重くなった服を絞っている彼の元へと、急いで駆け寄る。
「脱いでください!」
「は?」
「いいから早く!」
何が何だか分からないと言った顔で見返す彼を制して、濡れたシャツを引っ張る。珍しく動揺を浮かべながら、仕方なさそうに胸のボタンを外してくれた。
ぽすりと地面に落ちたシャツはそのままに左腕を覗き込むと、想像していたよりも大きな傷口が目に入る。いまだに鮮血が滲み出ており、血が止まっていないことが分かってしまう。
「止血を……!」
「大丈夫だ、じきに止まる」
「いけません!」
急いでハンカチを取り出し、腕に巻きつけようと右手を上げ――
「ぁ……」
何もすることなく、そのまま腕を下ろした。
こんな時でも、わたしには何もできない。ただ傷口に布を巻いてあげたいだけなのに、この左手はそれさえもままならない。
――悔しい。
やるせなさから、俯いたまま黙り込んでしまう。
すると涙でぼやけた視界の端で、水に濡れた大きな手が、ハンカチごとわたしの右手を掬い上げた。
「貸してくれ」
そのままハンカチを抜き取って、器用に片手で傷口に巻きつける。結び目を作ってあとは縛るだけというところで、黒い瞳がこちらを向いた。
「そっちの端、引っ張ってくれ」
「あっ、はい!」
慌てて右手を伸ばし、彼が掴んでいるのとは反対側の布を引っ張る。きゅっ、と中央にあった結び目がきれいに締まった。
「ありがとな。ひとりじゃ結べないから助かった」
そう言って、本日3回目の笑顔を見せた。
嘘つき。
きっと、ひとりでもできたはずだ。
それなのにわたしの気持ちを汲んで、わざと手伝わせた。
でも、そんな優しい嘘に、簡単に救われてしまうのだ。だってわたしは――
「お礼を言うのはわたしの方です」
――好き。
この人が、好き。
目つきが悪くて、顔が怖くて、ぶっきらぼうで。
それでいて……底なしに優しい。
そんなユリウス様が、大好き。
「あなたに出会えて……本当に、よかった……」
なんとかこぼれ落ちずに済んだ涙を目尻に溜めたままほほ笑むと、彼は驚いたように目を見張る。それからまたいつものように、ふいっと顔を背けた。きっとこれも照れ隠しだろう。
「……もう、帰るぞ」
強引に会話を切り上げて、脱ぎ捨てた服の元へ歩いていく。黒い上着とブーツを再び身に着けて、剣を腰に差し直す。さらに男の額に突き刺さったままのナイフを抜き取った。
「あの、……この人たちはどうするのですか?」
「あとで騎士団に通報する。向こうで処理するだろ」
荷物を抱えたユリウス様のあとについて歩く。最悪の事態として、馬を放たれている可能性を心配していたが、それは杞憂に終わった。
来たときと同じように横向きに馬に乗せてもらい、また彼の腕の中にすっぽりと収まると、言い表しようのない安堵感が胸を満たしていく。
ふと上を向くと、晴天の空の下で揺れる赤い髪が目に入る。青と赤の対比がとても美しい。濡れたままの髪が端正な顔立ちを引き立てていて、無駄に艶めかしく見えてしまう。
どうしたらいいんだろう。
この人のために、わたしに何ができるだろう。
いつか堂々とあなたが好きと言えるように、なにかひとつでも役に立てることがあれば――
答えを探したいのに、どうしてか頭がうまく回らなくて、だんだんと視界が暗くなる。全身に力が入らなくなって、ずるりとユリウス様の身体に凭れた。
「オルテア?」
ああ、この感覚は知ってる。
……ごめんなさい、こんなときに。
「おい、具合でもわる――……まさか熱が――」
額に触れた手のひらの冷たさを感じながら、わたしの意識は暗闇へと落ちていった。