12 初めての笑顔
「わあ」
目の前にいるのは、黒に近い茶色の毛色をした大きな馬。馬車に乗るときにいつも見ているはずなのに、意識してこれほど近くで見るのは初めてで、つい感嘆の声を漏らしてしまう。
「ほら、持ち上げるぞ」
「はっはい!」
わたしひとりでは乗れそうもなかったので、ユリウス様に抱き上げてもらい乗馬を試みる。ある程度は自分の力で這い上がらなくていけないかと思っていたのだが、両手でわたしの胴体を抱えて、ひょいっと馬の背に乗せてしまった。
「おまえ、軽すぎ」
「旦那さまが筋肉付きすぎなだけですっ」
「ないよりはいいだろ」
確かにそうなのだが、これではなんだか子供扱いされているようで……悲しい。実際のところユリウス様にとってわたしは、親戚の子供のようなものなのかもしれないけれど。
そんなことを考えているうちに、横乗りになったわたしの後ろにユリウス様が跨る。ぐっと近くなった距離に、今さらながら変な緊張感が湧いてきた。
――ちっ、近すぎる……!
この状況になって気づいた。彼と同じ馬に乗るという意味を。
今のわたしは、そりゃあもう見事にぴったりと、ユリウス様にくっついているのだ。全身で感じる彼の体温にどんどん鼓動が早くなり、心臓の音が聞こえていやしないかと心配になってしまう。
「オルテア」
「はい!?」
緊張から上ずった声で返事をすると、大きな手がわたしの右手を包み込んだ。そのまま持ち上げられた右手は、彼の胸元へと連れて行かれる。
「しっかりつかまってろ」
言われた通りぎゅっと服を握る。わたしが強く掴んだことを確認して、ユリウス様は馬を走らせた。動き出した振動で一瞬バランスを崩しそうになったが、すかさず長い腕に支えられる。
「絶対に落とさないから、俺に寄りかかっとけ」
左腕が使い物にならないせいか、どうにもバランスが取りづらかった。しかし彼はすぐにそれを見抜いたようで、手綱は片手に任せ、開いている方の腕でわたしの腰をしっかりと抱き込む。
「窮屈かもしれないが我慢してくれ」
そのまま屋敷の敷地を離れ、裏手に続く森林へと進んでいく。
馬車では行けないと言っていたのは確かで、馬一頭が通れるくらいの細道が奥へと続いていた。あまり人が通らないのか、道の中央まで雑草がせり出している。
「昔はもう少し整備されていたんだが……だいぶ荒れてるな」
「旦那さまはよく来られていたのですか?」
「そうだな、子供の頃はこの辺りも庭みたいなもんだったから」
従者もつけずに遊びに行って、よく怒られたんだと彼は話す。その様子が容易に想像できてしまい、くすくすと笑ってしまった。
自然の匂いのする青々しい空気を吸い込みながら、ゆっくりとしたペースで進んでいく。そうして30分ほど経った頃、急に視界が開けた。
森を抜けた先にあったのは、広大な草原と、その先に広がる大きな湖。初めて目にする自然の雄大さに、つい言葉が漏れる。
「きれい……」
「ここからは歩くぞ」
乗ったときと同じように、彼の手を借りて地面に足をつける。近くの木に馬を繋いで、ユリウス様は荷物を肩に担いだ。
「半分待ちましょうか?」
お弁当に飲料水、敷き布などが入っているのである程度重量があるはずだ。それに万が一に備えて彼は腰から剣を下げている。
だから、何かひとつでも手伝わせてほしいと思ったのだが……
「右手が塞がったら動きにくいだろ。いいから、おまえは楽しむことだけ考えてろ」
そう言われてしまっては引き下がるしかない。言葉はぞんざいだが、気を遣ってくれていることは分かるので、素直にお任せした。
二人並んで湖まで歩く。今は比較的暖かい季節のため、草原には色とりどりの小さな花が顔を見せていた。
空の色を映した湖面は、風に揺られてきらきらと輝いている。ほとりには桟橋がかけられており、その先端には縄に結びつけられた小さな小舟が浮いていた。
なんと言ったらいいのか。あまりの美しい風景に言葉を失っていると、隣に並んだ人物がぽつりとこぼす。
「君の瞳と、同じだ」
「わたしの?」
どういう意味かと首を傾げると、彼はゆっくりとこちらへ視線を向けて――
「この光り輝く湖面と同じ色をしている」
そう言って、柔らかくほほ笑むものだから、わたしは静かに息を飲む。
どくり、と全身が脈動するのを感じた。初めて向けられた笑顔は、胸の内をぎゅっと締め付ける。
この広い草原で聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、鳥の声と……わたしの心臓の音。静かなこの場所で、己の鼓動が異様にうるさく響く。
屋敷を出てから何度も繰り返されるどきどきの数々に、いい加減心臓が壊れるんじゃないかと思う。
そんなわたしの心配をよそに、彼は視線を前方へと戻して再び呟いた。
「綺麗だ……」
その言葉は湖に向けてか、それとも――
問いかけることは、できなかった。
◆◇◆
しばらく周辺の探索を楽しみ、頃合いを見て昼食にすることにした。湖のほとりに布を引いて、その上に腰かける。
本日のメニューはサンドイッチとデザートの苺。エルマさんが用意してくれたサンドイッチは、片手で食べやすいように小さく切り分けられていて、彼女の気遣いには感謝しかない。
「ほら、飲むか?」
「ありがとうございます」
水を入れた水筒は持ち運び用に蓋が閉められるものになっているため、使用する際はユリウス様が開けてくれる。こんな介護のようなことをさせてしまって本当に申し訳ないと思うのだが、彼はいつも嫌な顔ひとつせず付き合ってくれる。
本当に、優しい人だ。今までも、女性には優しく接してきたのだろうか。自分以外のひとにも、こんなふうに……
楽しいはずなのに、胸の奥がもやもやとして仕方がない。こんな感情、初めてだ。
これは、この感情は……嫉妬? どうして嫉妬なんて……
答えを探しているうちに、楽しい時間は終わりを迎える。
荷物を片付け始めた彼をじっと見つめていると、急にぴたりと動きを止めた。どうしたんだろう、そう思考したのは一瞬で。
「オルテア!」
叫び声とともに腕を引っ張られ、彼の胸の中に着地する。次の瞬間にビュッという音がして、先ほどまでわたしが立っていた地面に一本の矢が突き刺さっていた。
突然のことに声を出せずにいたわたしの頭上で、小さな舌打ちが聞こえる。
「何故こんな場所に……」
ユリウス様の視線の先には、剣を片手にこちらに歩いてくる複数の男たちの姿があった。