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10 わたしには見せないもの



 目を覚ますと、そこは知らないものばかりの世界だった。

 周りを囲む人たちは、口々にわたしに向かって声を投げる。しかし言葉は理解できるのに、言っていることはよく分からなくて、ぼんやりとただ天井を眺めていた。


 次第に何度も繰り返されるオルテアという言葉に、それが自分の名前なのだと理解した。


 まっすぐに伸びた黒髪の女性が、わたしの名前と思われる言葉を泣きながら何度も口にする。


『オルテア、よかったっ……目を覚ましてくれて、本当によかった……』


 そうしてベッドに横になったわたしの手を握り、嬉しそうに言う女性に向かってある質問をすると、その場が一気に静まり返る。


『あなたは……誰?』


 それが今のわたしの、一番古い記憶。



 どうしてこうなってしまったのか、何があったのか全く思い出せない。

 父だという人は一方的にわたしを罵り、部屋に閉じ込めた。自分が何者なのか、ここがどういう場所なのか、すべては一番最初にわたしの名前を呼んだ、アマーリエという人が教えてくれた。


 彼女はわたしの実の姉で、唯一優しくしてくれたひと。


『お父様、どうしてそれほどオルテアを突き放すのですか!? 妹はあの事件の被害者ですよ!?』

『それが傷のついた穢れた娘であることに変わりはない。記憶がないのならちょうどいい。今後は余計な知識をつけさせるな』

『なにを……言って』


 姉さまは絶望に満ちた顔で、去っていくお父様の背中を見上げる。


『お母様の忘れ形見だと言って、あんなにもオルテアを可愛がっていたのに……』


 そうして家族が徐々に壊れていくのを、わたしは見ていることしかできなかった。


 あの日の記憶を取り戻したら、何か変わるのかと思うこともある。けれどもどうしてか、わたしはこのままでいいと思った。


 それは今でも変わらない。

 記憶なんてなくてもいい。そう思うのは自己防衛のためか、それとも――


 こうなることを、望んだから――?


 答えてくれる人はなく。



 遠くの方から聞こえてきた声に、ゆっくりとまぶたを押し上げた。


「――オルテア、着いたぞ」

「ん……」


 耳元で響いた低い声にゆっくりと顔を上げる。目を擦りながら隣を見ると、思ったよりずっと近くに赤い髪があって、飛び起きるようにして身体を離した。


「起きたか? 寝足りないなら運んでやるぞ」

「だっ大丈夫ですっ」


 慌てて首を横に振ると、「そうか」と言いながらユリウス様は馬車から降りる。


 懐かしい夢を見た。

 わたしの二度目の記憶が始まってから、もう6年も経つのか。楽しいとは言えない日々だったけれど、生きるだけなら不便のない日常だった。いや、この場合、不変な日常と言ったほうが正しいか。


 あのような状況でも卑屈にならずに自分を見失わないでいられたのは、姉さまの存在と、もともとの自分の性格のおかげかもしれない。記憶を失う前の己のことは何も覚えていない。けれど、部屋にいた大きい虫を指でつまんで窓から放り投げたときに、姉さまから言われた。


『そういう肝の据わっているところは、以前と変わらないのね』


 言われて気づいた。たしかに普通の令嬢は、自ら虫を捕まえて追い出したりしないだろう。


『子供のころは、私の苦手な虫をあなたがいつも追い払ってくれるから、助かっていたの』


 苦笑を浮かべながらそんなことを言うので、いったい以前の自分はどれだけ逞しかったのかと、首を捻ったことを覚えている。

 夢のせいか、そんなどうでもいい記憶を思い出した。



 ユリウス様に手を引かれて馬車から降りる。そのままアストールの屋敷に入ろうとしたとき、急に後ろから何かに押されたような衝撃を感じた。

 びっくりして振り返ると、大きな茶色い犬がわたしに向かって飛びかかろうとしていて――


「きゃぁ――っ」


 思わず悲鳴とともに倒れそうになるが、間一髪のところでユリウス様が支えてくれる。

 前方にはぶんぶんと尻尾を降ってわたしに前脚をかけた犬、そして後ろにはユリウス様。板挟みになっているわたしの背後から、大きな声が響いた。


「ベガ! 離れろ!」


 その怒鳴り声にびくっと身体を震わせたのはわたしだけではなく。脚に飛びついたままクンクンと鼻を鳴らしていた犬も、尻尾をしゅんと垂れ下げながら後退りした。


「大丈夫か?」

「わたしは大丈夫ですが……あのこは?」

「うちの犬。昔は猟犬として飼ってたんだが、今は番犬みたいなもんだ」


 よく見ると、わたしに飛びついてきた犬の他にも、もう数匹同じ毛色をした大きな犬がいた。そう言えば部屋にいたとき、何度か犬の鳴き声を聞いたことがある。どうやらあの声の正体は彼らだったようだ。


「ベガ、カストル、ミラ、カペラ、アルビレオ、おまえたち散歩中か?」


 一匹ずつ名前を呼びながら、ユリウス様が近づいていく。はっきり言ってどれも同じ見た目の犬なのに、見分けられるのがすごい。

 名前を呼ばれた犬たちは大きく尻尾を振って、彼の周りに集まり出した。地面に膝を突いてわしゃわしゃと撫でる旦那さまを見て、わたしはぽつりと呟く。


「笑ってる……」


 彼の笑う姿を、初めて見た。あんなに優しそうな顔をするんだ……

 わたしの前では決して見せない姿に、どくりと心臓が脈打つ。いつかわたしにも、あんなふうに笑顔を向けてくれるだろうか。


 淡い期待を抱いていると、広い庭の奥の方からひとりの男性が駆けてくるのが見えた。


「坊ちゃん! すみません、少し目を離した隙に走っていってしまって……」

「大丈夫だ、ジェン。またそいつが逃げ出したのか?」


 ジェンと呼ばれた男性の腕の中には、他の5匹とはあきらかに犬種の違う、1匹の小さな犬がいた。私でも抱きかかえられそうなくらいの小型犬だ。


「ええ。シリウスを探している間に、ベガたちが勝手に走りだして……慌ててこいつを捕まえて追いかけてきたんですが、坊ちゃんがいたのなら納得です」

「悪いな手間かけさせて。おまえが世話してくれて、本当に助かってるよ」


 ふたりの話しぶりや服装からして、ジェンという男性はこの屋敷で働く使用人のようだ。恐らく犬たちの世話を担当しているのだろう。

 それにしても……シリウスと言うのは、あの小さい犬の名前なのかしら?


「ふふ。あんなに可愛らしい見た目なのに、名前はユリウス様と似ているのね」


 どちらかというと、いつも鋭い目つきで怖い顔をしている旦那さまとは正反対だな、と思いくすりと吐息を漏らす。すると声に反応したのか、ジェンの腕の中から無理やり抜け出した犬が、少し離れた位置にいたわたしのところまでやってきた。


 短い手足で一生懸命に走る姿が可愛らしくて、しゃがんで手を伸ばす。シリウスはこれまた短い尻尾を千切れんばかり振って、わたしに飛びついてきた。


「だめよ、くすぐったいわ」


 ぺろぺろと小さい舌を出して、顔を舐めてくる。何とも言えないこそばゆさを感じながら頭を撫でると、わたしの手に身体を擦り付けるように縋ってきて、その可愛らしさに自然と顔が緩んでしまう。


「ふふふ。あらあら、お腹も見せてくれるの?」


 ごろんと寝転がり仰向けになったので、そのぽってりとした桃色のお腹を遠慮なく触らせてもらった。


 しばらくそうしていると、視界の端に靴先が映り込む。顔を上げた先には、先ほど犬と戯れていた時の笑顔はすっかり消え、いつもの怖い顔をしたユリウス様が立っていた。

 目の前の旦那さまを見て、わたしはつい思ったことを口にする。


「この仔、赤い毛色に黒い瞳で旦那さまと似ていますね。名前のシリウスと言うのも、もしかして旦那さまからとったのですか?」


 名前だけではなく、見た目の色合いもユリウス様に似ていることに気づく。気になって軽い気持ちで問いかけたのだが、ユリウス様はじっとわたしを見つめたまま答えない。

 しばらく沈黙が続き、気まずくなって再び口を開こうとすると、やっと答えが返ってきた。


「…………そうだ」


 短く答えて、隣に座る。それからわたしの頭に手を添えて、一言。


「おまえ、顔の筋肉緩みすぎだろ」

「……きんにく?」

「こいつの前で、笑いすぎ」


 こいつと言うのは、シリウスのことだろうか。確かにさっきは、この仔の可愛さについ顔が緩んでしまったが……でもそれは、ユリウス様だって同じ。彼だって、さっきはわたしに見せてくれない顔をしていたのに。


 抗議しようとしたが、先を越されてしまう。


「それに、触りすぎだから」


 ぼそりと呟くように言って、彼は急に立ち上がると、近くに落ちていた木の枝を力いっぱい放り投げた。さすが毎日鍛錬を欠かさない人が投げただけはある。やたらと遠くに飛んでいった木の枝を追いかけて、足元にいたシリウスは走っていってしまった。


「ほら、戻るぞ」


 どこか不機嫌な様子で、わたしの手を引いて屋敷の入口へと歩き出す。先ほどまでにこにこと笑っていたのに、どうして急に機嫌を損ねてしまったのか。

 頭の中に疑問符を並べながら、大人しく彼の後についていくことしかできなかった。



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