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「いつき!」シリーズ①

 春の朝、ターミナル駅から、スーツ姿の男女が一斉に吐き出される。人波が、大通りからビルの谷間、小道へと分かれ、血液が毛細血管に流れこむように、街に広がっていく。

 タイルの舗道から白亜のビルを、前橋いつきは見上げた。屋上の青空に「アカツキ製薬」の文字が踊る。社名の前に、白地に水色で描かれた天びん秤のマーク。

ーーここでいいんだよね。

 いつきはバックに手を当てた。スマホを開けば、あの人のメッセージが読める。

 あなたの言葉を支えに、ここまで辿りついた。何があっても平気。辛くても頑張れる。

 いつきは、通行人の視線を感じた。そんなに目立つかな。モチベーションをあげようと、お気に入りの服を着たけども。さあ、今日も「会社の仕事」というものを始めましょう。

 いつきは、颯爽と白いビルへ入っていった。


「あんた、今日は何をやったの?」

 オフィスの廊下で、いつきは問い詰められた。同期の桐生愛だ。ベージュの制服がよく似合っている。

「何って、ボクは何もやってないよ。まだ始まったばかりじゃん」

「いつきは天然だから。自覚ないだけでしょ」

 愛の光るピンクの唇から、毒舌が続く。

「女子のくせに、一人称が『ボク』ってところから、おかしいし」

「上の人の前では使わないよ。それで何かあったの?」

「あんたの処の課長が、管理本部長に呼ばれて叱られていたよ。よく聞こえなかったけど、あんたの名前出てたから」

 桐生愛は早耳だ。新人研修の時からそうだった。そして、研修の時から、いつきに話しかけて、昼ご飯も一緒に食べるようになった。見た目が大人しそうで、上司や先輩にも好かれているらしい。愛の器用さが、いつきは羨ましかった。苦労が少なくて済みそうだ。

 でも愛は、猫かぶるとストレス溜まる、と言って、いつきのところで毒を吐いていく。

「あんた、覚悟しときさいよ」

 きつそうな言葉だが、愛は心配して来てくれたみたいだ。いつきは笑った。

「うん、ありがとう」

「それも、天然!」

 愛は、あっかんべーをして、去っていった。


 ほどなく、いつきは課長に呼ばれた。

「君は今朝、変わった格好で来たそうだな」

 課長は座ったまま、いつきをねめ上げる。

「変な恰好? してませんけど」

「じゃあ、どんな服装で来たか、言ってみろ」

「自分流のファッションです」

「それが、ピンクのかつらと、軍服みたいな黒のエナメルのジャケットとパンツか? そんな恰好で出社する女子がどこにいる?」

 ここに。といつきは言いそうになった。

「私服はロッカー室で、制服に着替えたんで、問題ないです」

「問題、大アリだ!」

 ついに課長が叫んだ。

「コスプレした君が、ウチのビルに入るのは、世間の人が見てる! 当社の評判が下がる! わがアカツキ製薬は創業から七十年、業界トップ企業として地元の高い信用を得ている。企業イメージが台無しだ。ウチの社員としてふさわしい服装で出社しなさい」

 課長はいつきに、わかったか、と念押しした。わかりました、と答えて、いつきは課長の前を離れた。舌打ちしたかった。

 入社して一か月ちょいの新入社員のボクに、アカツキ製薬の看板を背負わせるなよ。変な恰好って言われたのも、むかつく。あれは、ボクが、この世でもっともカッコいい、と思っている女性キャラのファッションだ。

「わが社は君たちの個性を尊重する。君たちも個性を活かして、わが社に貢献してほしい」

 と社長も入社式で言っていた。あの日の社長の言葉はよかった。

「『薬で人を幸せにする』が、わが社の社是だ。創業以来、七十年もの間、君たちの先輩が、そうやって、薬を通じて人々の幸せに貢献してきた。今日から、君たちもその一員だ。

 お客様を幸せにするには、まず従業員が幸せにならなくてはならない。だから、私は社長として、君たちを幸せにしたい。ガバナンスとコンプライアンスに注意し、ダイバーシティを尊重して経営を行う。君たちが当社でよかったと思えるように」

 社長の挨拶と課長の言っていることは、あまりに違いすぎないか。

「太田! こんなこともできんのか!」

 フロアの向こうの端から、秘書課長の怒鳴り声がした。秘書課長の前で、長身の美女が青ざめた顔で立っていた。あの子は、いつきの同期、名前は確か太田早苗と言ったっけ。


「太田早苗か。『困ったちゃん』らしいよ」

 昼休み、ホールで食堂行きのエレベーターを待ちながら、桐生愛が言った。

「コピーをさせたら真っすぐになっていなくて注意したら、次からは分度器でチェックして完全に直角が出るまで、やり直すもんだから、他の人がコピー機使えなくなるし。客に出したお茶が『濃すぎる』って注意したら、茶さじ何杯分ですか、って毎回聞くんだって」

 エレベータホールは、エレベーターを待つ社員で混雑していた。食堂はビルの八階にある。お昼時間はいつもエレベーター待ちをしなくてはならない。

 いつきは、空腹を堪えながら、聞き返した。

「そんなの、丁寧に教えてくれれば、いいじゃん。秘書課って冷たいんじゃないの?」

「フツーは、先輩のやっているのを見ていればわかるところじゃない? 忍耐力にも限度がある。先輩も暇じゃないから」

 ーーイジメの匂いがする。

 イジメのあるところには、自己を正当化する言葉が現れる。その匂いに、いつきは馴染みがあった。

 いつきを目を閉じた。かすかに胸が痛む。

「ボク、太田早苗と話してみたいな」

「ふうーん」

 桐生愛の、含みのある相づちに、いつきはカチンときた。

「何だよ」

「あんた、お人よしだな、と思って」

「バカにしてるよね」

 愛は微笑み、首を振った。

「見直した」

 珍しく素直な、愛の言葉に、いつきは動揺した。こんなところがあるから、普段毒舌ばかりでも、愛を憎めない。

「でも、エレベーター来ないねー。こんなに混雑するなら、エレベーターを増やすとか、お昼休みの時間を二つにして、部署でどちらかに決めたら」

 いつきは、照れ隠しで、思いついたことを、ぱっと喋った。でも、結構いいアイデアかも。提案書で出してみようか。と喋ろうとした瞬間、エレベーターが到着して、ホールの他の社員と共に、エレベーターの中に押しこまれた。愛の声が飛ぶ。

「いつき、八階のボタン押して。九階は役員専用階だから、間違えたらダメだよ」


 その頃、九階の役員専用階では、役員会が開かれていた。

「社長は今日も欠席か。どこに出張だ、室長?」

「アメリカです、専務。急な話でしたので」

「それでも我々に連絡はしてもらわないとな、管理本部長」

「以後、気をつけます」

「社長も何とか業績を上向かせようとしている。皆、社長の苦労はわかっているな。このままだと当社は創業以来の大赤字だ。何としても避けねばならぬ。そうだな、管理本部長」

「はい。発表すれば、株価が暴落します」

「とにかく利益を上げるんだ。新薬の治験は終わったのか、品質保証部長」

「終りましたが、副反応のデータが出ましたので、処方を変えて、やり直します」

「これでまた承認申請が遅れるのか。せめて新薬の発表だけでもできないか」

「鋭意努力します」

 専務がため息をついた。

「みんな知恵を出せ、工夫しろ。死力を尽くせ。綺麗ごとはいい。生き残ることが至上命題だ。厳しい競争を勝ち抜け」

「入社式の社長の挨拶はよかったです」

 開発部長が言った。

「『薬で人を幸せにする』の辺りとか」

「あれは、先代の言葉だ」

 と専務は一蹴する。

「とにかく苦境を乗り越えるため、新薬の開発を急ぐと共に、コストダウンを進める。管理本部長には、その先鋒になってもらう。しかし、社員が辞めないよう、この内容は一般社員には秘密だ。変革には人だ。人材が必要だ。管理本部長、今年の新入社員にモノになりそうな男はいるか?」

「まだ分かりません。見極めています、専務」

「そうか。トラブルは起きていないだろうな。そう言えば、君のところに問題児がいる、と聞いたが」

「個性豊かですが、問題児はいませんよ」

「個性、ダイバーシティ。社長の好きそうな言葉だな」

 専務は鼻で哂った。

「社会人の個性なんて、必要とされた時に出せばいいんだ。その時までしまって置け」

「とにかく当社の発展には、人材活用、能力開発が欠かせません。適材適所の配置か、既存社員も含めて見直します。室長、例のプロジェクトは進んでいるか」

「はい、資料はこちらです」


 静かなフロアに、コピー機が紙を吐き出す音だけが響いている。皆帰ってしまい、太田早苗一人だけ残っている。照明も彼女のまわりだけだ。窓ガラスに映る闇の中、隣のビルの赤い光が点滅を続けていた。

「合わない。また、ずれた」

 早苗はぶつぶつ言いながら、コピーの中からミスコピーをはねている。傍のゴミ箱は、ミスコピーであふれている。

「どうして、きちんと、できないの」

 明朝の部内会議の資料五十部のコピーを命じられた。秘書課の先輩たちにやり方を確認したが、教えたでしょ、と相手にされない。先輩たちには、コピーはとても簡単らしい。

 わからない。早苗にはわからなかった。どこまでタテヨコきちんとしていたら合格なのかわからない。と言って、こんなにミスコピーを出したら、紙のムダで、コストを考えていないって、また怒られる。

「あんたなんか要らない。必要ない」

 そんな言葉が、早苗の口からこぼれた。コピー機にかがみこんで、彼女は泣いた。背中が嗚咽で大きく波打つ。コピー機は、正確に同じペースで、紙を吐き出し続けていた。


「秘書課長、いつ戻ってくるかな? 書類にハンコもらってくるように言われたけど」

 いつきは、太田早苗に訊ねた。右手に持った回覧板に、至急回覧の赤文字が踊っている。

 が、早苗はすたすた歩き去ろうとする。

「ちょ、ちょっと太田さん! ねえ、聞こえないの!」

 いつきが声を大きくすると、やっと早苗が振り返った。

「え、わたしを呼んでたの?」

「そうでしょ。他に誰がいる?」

 オフィスに人はいるが、他の仕事に没頭中だ。この場には二人しかいないも同然なのに、何をとぼけているのか。

「わたしに話しかけていたんですね。失礼しました。それでは」

 と早苗は頭を下げ、その場を去ろうとする。

「ちょっと、ちょっと」

 いつきは、慌てて早苗を引き留める。なんだ、この子。全然噛み合わない。

「何か急ぎの用でもあるのかな。ちょっとぐらい話を聞いてくれても、いいだろう}

「わかりました。さあ、どうぞ」

「だから、秘書課長さん、いつ戻るか知らない? 書類に今すぐハンコが欲しいんだ」

「知りません。では」

 もうイヤだ、このやりとりの繰り返し。

「ねえ、ボクはハンコ貰ってこないと困るんだよ。助けてくれないかな? 同期だろう?」

 早苗の表情が変わった。心から悪かった、という驚きの顔だ。

「ごめんなさい、ごめんなさい! わたし、あなたが困っているって、気づかなくって、本当に、本当に、ごめんなさい」

 涙を浮かべる早苗に、いつきは困惑した。

「何でもする! 何でも言って!」

 早苗の態度が一変したことにとまどいながら、いつきは内心ホッとした。よかった、悪い子じゃなさそうだ。

「じゃあ、この回覧預かってもらって、課長にハンコ貰ってくれるかな? もらえたら、電話してよ」

「うん、わかった!」

 太田早苗は、クールな外見と裏腹に、とても感激屋だった。ちょっと鈍いけど。いつきは呟きながら、次の部署へ書類を運んでいく。早苗が、直立不動でいつきを見送っていた。


 いつきは、スマホをタッチしてSNSを開いた。寝るまでの間、ネットが見られる。

 まず表示されたのは、母からのメール。ご飯食べてる?(食べてるよ)掃除している?(しているよ)汚部屋になってない、まだ。

 アニメの情報や感想、常連の書きこみを流し読みする。いつきは、求める投稿を探すが、なかった。

ーー天びん秤さん、どこにいるの?

 いつきは書いた。書かずにはいられない。 

 ーボクは今日も生きているよ。

 中学二年以来、いつきは、SNSで天びん秤とやりとりしている。昔はいろいろ書いてくれたが、最近は、返事どころか、現れることさえ少なくなった。

ーー天びん秤さん、ボクは天びん秤のマークの会社に入社したよ。そこで、天びん秤さんに会えるって。ねえ、ボクの答えは合ってる?

 間違いでもいい。何かして、前に進むことが大切だ。動かず悩み続けることが、実は一番苦しいんだ。いつきはそう信じていた。それも天びん秤がかって語ったことだ。

 返信が来た。天びん秤からだ。

 ーー君には会えない。閉じこめられているから。

 え、どういうこと? 閉じこめられているって? 幽閉? 拉致監禁?

 ーーヤバイことですか? 警察に連絡した方がいいですか?

 ーー心配しなくていい。ただ「動けない」

 ーーどういうことですか。なぜ動けないんですか。ねえ、会社は合っているんですか?

 もう天びん秤からの返事はなかった。

 

 エレベーターが上昇する。いつき一人だった。コピー用紙の箱を抱えている。

 閉じこめられている。

 ふと昨夜の天びん秤の言葉が浮かんだ。どういう意味? 大丈夫なんだろうか。

 エレベーターが三階で停まり、扉が開くと、明るい光と共に、男が飛びこんできた。白髪のメッシュが入った整ったウェーブのかかった髪。紺のスーツがよく似合って、お洒落に見える。管理本部長だ。

「や、君は……前橋いつき君だね、どう会社には慣れた?」

 人懐っこそうな笑顔をいつきに向ける。目尻の笑い皺に流石に年齢が感じられるが、素敵なおじさま風で、悪くない。

「はい、なんとか慣れました」

 つられて、いつきも笑顔で答える。

「そう、それはよかった。わからないこと、困ったことがあったら、小さなことでもいいから、私に直接言っていいからね」

「ひえー、恐れ多いです。わたしなんかが、管理本部長に話しかけるなんて。わからないことばかりで、迷惑かけて、申し訳ないです」

「前橋くん、そんな風に考えちゃダメだよ」

 ふいに真顔になった管理本部長の次の言葉をいつきは待った。真顔になると、本来の顔の造作の良さが、余計際立った。

「新入社員は、回りに迷惑をかける権利がある。堂々と迷惑かけたらいい。ただ仕事に一生懸命であればいい」


「また、お前か。太田、どうしてお前は、ちゃんと仕事ができないんだ!」

 秘書課の方から大声がして、フロア全体に響いた。いつきが振り向くと、秘書課長の前に、太田早苗が立たされている。

「どうして、こんな小学生でもできるようなことができないんだ。大学出たんじゃないのか。どういうつもりだ。仕事やる気がないのか。言ってみろ!」

 秘書課長は机を叩いた。早苗は微笑んでいた。なぜ笑顔? いつきは不思議だった。でも手は握りしめ拳が震えている。チグハグだ。

「この回覧は『至急』ってなってる。なんで一日も放っておいたんだ!」

 秘書課長の怒号を聞いて、いつきは、自分が預けた回覧のことだと気づいた。ガマンできずに席を立つ。秘書課長の前に出た。

「この回覧は、わたしが太田さんに預けたものです。至急だということはわかっていました。課長がいらっしゃらなかったんで、太田さんに頼んだんです」

「それで?」

「回覧を課長にすぐ見せなかったのは、わたしのせいです。太田さんを叱らないで下さい」

「君の言うことはわかった。しかし、太田君はこれが初めてじゃない。先輩社員たちが何度も教えても間違えたり、TPOをわきまえない言動をしたり、その都度、私たちは注意してきた。なのに直らない。つまり、仕事に真剣じゃないんだ。今、少々荒い言葉を使ったが、そうしないと真剣にこいつは受け止めん。見てみろ、まだ笑ってるぞ」

 早苗は、まだ微笑んでいる。全然聞こえていないみたいだ。異様だ。

「太田さん、一緒に謝ろう? その顔はまずいよ」

 いつきが囁いた瞬間、早苗の笑顔が崩れた。

「ちがう。ちがう、ちがう、ちがう!」

 叫ぶなり、早苗は駆け出した。オフィスから飛び出していく。

「太田さん、待って!」

 いつきも、思わず彼女を追いかけていた。


 早苗に追いついたのは女子トイレだった。個室の中から嗚咽が聞こえる。ノブに手をかけても開かない。

 大丈夫? といつきが声をかけると、言葉にならない泣き声が返ってくる。やはり叱られて、傷ついていたんだ。

「つらかったよね。ねえ、どうして、さっき笑っていたの?」

 個室の中で泣き声が大きくなった。

「……わかってる。でも、どうにもならないの。わたし感情のコントロールができない。ASDなの」

 ASD、自閉スペクトラム症候群。発達障害の一種。いつきの脳裏に、大学の講義で聞いた内容が蘇る。そう言われれば、早苗のおかしなところと症状が一致する。

「ASDってこと、課長には言ったの?」

「言った」

「それで、何かしてくれないの?」

「欠点を克服するように頑張れって」

 中から、またぐずる声がした。

「どうして人と同じにできないの、って小さい頃からずっと言われてきたよ。ずっと、これを克服しようって頑張ってきた。克服すれば、みんなの仲間に入れるって。でも、違った。中学でも高校でも、仲間外れ。いじめられて、無視されて」

 いつきは思わず耳をそばだてた。

「わたし、工場に配属されたかったな。ベルトコンベアで流れる製品のチェックなんか大好き。そんな処で働けたら、こんな出来損ないの私でも、誰かの役に立てるって思って入社したのに、誰の役にも立てないなら、人に迷惑かけるだけの人生なら、誰からも要らないって言われたら……わたし、いない方がいい。この世にいる場所ない。死にたい」

「そんなこと、言っちゃダメだ!」

 いつきの口を思わずついて出た言葉。記憶がフラッシュバックする。

 ーー暗い教室だった。誰も話し相手がいない。何か言えば、クラスメイトに笑われた。「ねえねえ見て見て。前橋がまた変なもの描いているよ」悔しくて、つらくて、苦しくて。学校に行きたくない、と何度も泣いた。

「何これ、ポエム? やっぱ変」全員ゲラゲラ笑う。いつきは何も返せなかった。

 誰か、話を聞いてよ。マンガやアニメや音楽の話をしたいよ。辿りついたのは、SNSだった。みんな好きなだけ、好きなことを語っている。いつきは、書いた。書きまくった。死にたい、とも書いた。コメントがついた。天びん秤というアカウントからだった。

 ーー死ぬな。生きていたらいいことあるなんて無責任なこと言えないけれど、とにかく死ぬな。頼むから、もう一日だけ生きてくれ。

 ーーどうして死んではいけないの? 生きてても、大人になっても、こんなに苦しいだけなら、いっそのこと。

 ーー君が死にたくないからだ。死にたい人は、もっとよく生きたい人だ。今の自分が嫌いなだけだ。

 その文字を見た時、いつきの中で何かが回転した。わたしまでわたしを嫌って、苛めて、どうすんの。わたしは今のわたしが嫌い。アニメの主人公のような、颯爽として凛々しい人になりたい。わたしはわたしを止める。あの男装のキャラのように、「ボク」になる。

「忘れるもんか。忘れられないよ」

 何? と個室の中から問われた。

「ねえ、開けてくれないか」

 今度はすんなり戸が開いた。泣きはらした早苗の目がいつきと合った。

「自分のことを必要ないなんて二度と言うな。太田さんを必要とする人は必ずいる」

「そんな人いない」

「ボクは太田さんがいなくなったら悲しい。不幸になるよ」

「本当に? わたし、言葉の裏なんてわからないよ」

「裏なんて、ない。本当のことさ」

 早苗がいつきをまっすぐ見つめる。信じていいの? いつきはゆっくりと見つめ返した。ねえ、これでいいんだよね、天びん秤さん。


「失礼します」

 秘書課長がドアを開けた。いつきと早苗は、会議室に初めて入った。

「それで? 私に話って何だ」

 と課長が口火を切った。忙しいのに、という空気を凄く出している。

「太田早苗さんのことです。彼女はASD、自閉スペクトラム症候群という発達障害を抱えています。それに配慮して頂きたいのです」

「配慮?」

 課長の唇の片方が反り返った。

「特別扱いしろというのか。ミスをないことにしろ、とでも?」

「いえ、配慮です。彼女の障害を考慮して、それに合った指導をお願いします」

「何を言っているのか、分からん」

 秘書課長は、鼻のつけねに皺をよせ、哂った。醜い。いつきは吐気を覚えた。

「太田くんのどこに障害がある」

「彼女の、人の気持ちを察しにくい、感情のコントロールが難しい、一つのことにこだわりやすく、こだわり出すと止めることが難しい。これらはASDの症状です」

「では聞くが、発達障害は病気か? 病院で治るのか?」

 予想外の問いに、いつきは答えられない。

「分からん。そういう性格としか思えん」

「……」

「性格なら、欠点を克服すべきじゃないのか。このままでは、秘書課だけじゃなく、どの部署でも、どの会社でも通用しない。だから、直そうと色々指摘しているが、この子は」

 言葉を切って、課長は早苗を指さした。

「改めない。自分を変えようとしない。会社に適応しようとしないんだ」

 いつきは早苗を見た。早苗は精一杯頑張っている。他の人と同じようにできないからと言って、本人が悪いと責めるのは、間違っている。人それぞれ、できることとできないことがあることを認めて欲しい。そう伝えたいだけなのに。もう既に、つらく苦しい思いをしている人を責める場になるのはおかしい。

 早苗はいつきを見つめた。瞳が濡れている。もういいよ、止めようよ、と語っている。だめだ。ここで止めたら、何も変わらない。

「そもそも太田くんの問題なら、彼女自身で話すべきじゃないか。前橋くんがしゃしゃり出てくるのは、何故なんだ」

「見て、わからないんですか」

 弱点を狙う話法に、いつきは腹が立った。

「彼女は自分で説明できる状態じゃありません。助けが必要です。だからボクが代弁しているんです」

「太田くん、いい友達を持って幸せだな」

 課長は心底感嘆したような口調で続けた。

「しかし、だ。自分の状況を他人に代弁してもらわないとならない、依存的な性格は問題だ。太田くん、もっと、しっかりしろ」

 反論しようとしたいつきを制して、課長は続けた。

「前橋くん、君の態度は反抗的だな。私には、部下を指導する権限と責任がある。反抗する君には、何か処分が必要だな」

 ああ、これでもう終わりか……

 突然、会議室のドアが外から開いた。

「ああ、秘書課長。社長がお呼びだぞ」

 管理本部長だった。中に入ってくる。

「明日、緊急の記者会見を開くそうだ。室長と共に広報対策に当たってくれ」

「今、ですか?」

 課長は明らかにうろたえていた。

「そうだ、今すぐ、即時だ。社長が忙しいのは、きみが一番よく知っているだろう?」

 管理本部長の言葉は柔らかだったが、明らかに叱責のトーンが混じっていた。秘書課長は一瞬悔しさを顔ににじませたが、ポーカーフェイスを取り戻した。

「話は終わりだ。二人は持ち場に戻るように」

「ああ、新入社員と面談中だったのか」

 いま気づいたように、管理本部長が言った。

「新入社員の悩みはよく聞いてやってくれよ。力で押さえつけるようなことがないようにな。問題があれば一緒に解決するんだ。いいな」

「はい、わかりました」

 管理本部長と課長は会議室を出て行った。遺されたいつきと早苗は、顔を見合わせた。

「これって……」

 話が通ったのだろうか。曖昧だけど、ボクらが責められたり処分されたりすることはなさそうだ。早苗が言った。

「ありがとう。ひょっとして管理本部長も、前橋さんが?」

「ちがう、ちがう。そんなことできないよ。単なる偶然だよ。それに、まだ、配慮してもらえると決まったわけでもないし」

 早苗は子どものように首を振った。

「前橋さんが、課長に責められても、しっかり私のために主張してくれたのが、嬉しい。でも本当は、自分のことは自分でしなくちゃ」

 そう決心したのはえらい。でも「自分のことを自分で」は正しいけれど、何か冷たい。それは、社会人として甘いんだろうか。

「誰だって、自分一人で何もできないよ。今度は太田さんがボクを助けてよ」


 昼休み、いつきの元に早苗が寄ってきて、一緒に食堂へ行こうと、誘ってくる。あの日以来、早苗は長身を恥ずかしそうによじらせながら、いつきの元にくる。美形でスタイルよしの彼女がそうするのは、かなり目立つ。

「うん、太田さん、行こう」

「太田さん、じゃなくて早苗って呼んで」

「いいよ。ボクのことは、いつき、ね」

 嬉しそうに頷き、ついてくる早苗を、かわいい、といつきは思った。女の子同士なのに、初めて彼女ができた少年のような気分だ。

 いつきは桐生愛を探したが、見当たらない。ああ、桐生愛にせよ、太田早苗にせよ、ボクに寄ってくるのは、変わり者ばかりだ。

 その、いつきの内心の呟きを、二人が聞いたら、一番変わっているのはお前やねん、とツッコむところだろう。

 二人が食堂へ上がると、掲示板の前に人だかりができている。人が群がる中から桐生愛が出てきて、いつきに言った。

「あんたの名前、出ているよ」

「え?」

「辞令」

 処分があったの? いつきは急いで掲示板の前に向かった。秘書課長に第一工場勤務を命じる他、十人ほどの辞令が発表されている。

 ーー 前橋いつき ESプロジェクトメンバーを命じる。

 ESプロジェクト、って何? いつきは呆然と立ち尽くした。

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