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猪八戒はかく語りき―転生したらブタだった

 ある日の事だ。

 私は所用で一町先の知り合いの家に出向いた。

 用事を終えると、家に帰るにはまだ早い時間。

 帰る前に一杯ひっかけていこうと、私はなじみの酒屋に立ち寄ることにした。


 そこで私は彼に会った。

 でっぷりと膨れた腹。耳は長く、鼻は潰れていて、眼はギョロギョロしていた。

 醜く恐ろしい異様な風貌。まるで黒豚と人の合いの子のよう。

 妖怪だ!

 反射的にそう思い、私は後ずさった。

 しかし、外見に反して、その豚のような妖怪は大人しかった。

 暴れたり怒鳴ったりする様子はなく、ただ一人顔を真っ赤にしてちびちびと酒を飲んでいる。

 妙なのは、時折周りに運ばれていく料理を、なんとも悲しそうに、なんとも羨ましそうに見つめることだ。

 そして皿に盛られた料理が他の机に運ばれていくと、その豚妖怪は「ふう」とため息をつき、自分は豆腐や豆をつつきながら、またちびちびと酒を煽るのだ。

 彼が大人しいのを見て、私は興味をそそられた。

 そこで思い切って話しかけてみることにした。



 え、なんだお前は?

 おう、俺か?

 俺は猪八戒って者だ。

 ふらりと寄った、ただの旅人さ。

 もっと他の料理を食わないのかって?

 ああ俺は五葷三厭を断って精進してるからな。食いたくても食えないんだ。

 ん、酒?

 馬鹿言っちゃいけねえ。これは般若湯さ。


 どこへ行くって?

 西だよ。ここよりずうっと西。

 来る日も来る日も、そこを目指して、俺たちは歩かなきゃならねえ。

 だから、ただひたすら歩くんだ。

 岩をも穿つ一念。断固たる決意を持って歩く。歩き続けるんだよ。

 西へ!西へ!ってな。

 太陽が照り付けようと、雨が降っても、風が渦巻いても、雪が降っても、俺たちは進む。

 西へ!西へ! 

 騙されても死にかけても、剣が迫ろうと槍が降ろうと、俺たちは絶対に絶対に歩くのをやめねえ。

 西へ!西へ! 天竺へ!天竺へ!

 行く手に燃え盛る山を見た。百万石の水が崖下へ落ちていく大瀑布も見たな。

 だが全て乗り越えた。虫けらのように地べたを這い、自分の足で踏破したんだ。自分の足でだぞ!


 そんな目に合いながら何のために西へ行くのかって?

 そりゃあな、ふふん西の天竺にはありがたい経典があって、俺たちはそれを取りに行くのさ。

 けど、それにしたって全く、変な話だわな。

 天竺へ行って経典をちょいと写してくるだけならば、もっと楽な方法があるものを。

 俺だって多少の術の心得はある。

 そいつをちょいと使い、雲に乗って一両日も飛べば目的は達せられるのに、お師匠さまはそれはいかんと言ってわざわざ苦労する道を選ぶんだ!



 嗚呼、どうしてこんなことになったのやら。

 五百年前、俺は天の川の水軍を率いる天蓬元帥だった。今でこそ、うだつの上がらぬ俺だが、その頃は指先一つで千艘もの軍船を動かしたものだ。

 そして、クソっイケメンだった!

 泣かした女も鳴かした女も数知れず。天界きってのプレイボーイ!


 そんな俺さまの運命が狂ったのは、ほんの小さなちょっとした誤解のせいだった。

 天界で開かれたある宴に俺は招かれて……そこに絶世の美女がいた。

 まさに雲鬢、花顏、金歩搖(雲のような黒髪に、花のような小顔、歩くたびに金のかんざしが揺れる)。

 目はパッチリ、鼻はスッキリと通り、胸は大きくて、腰が細くて……今思い出しても全くいい女だった!ブヒヒヒ!


 そこで周りの奴にあの女は誰だと聞いて回ると、あれは月の宮の嫦娥だという。

 ほほう。あれがかの嫦娥と思ったとき、その嫦娥が俺に向かって微笑んだんだ。この俺に!

 思わず俺もにっこり微笑み返し、俺の陽物ももっこり立ち上がり……あ、いや失敬。

 とにかく……乱暴な夫に愛想をつかし月の宮に逃れた嫦娥ちゃんの身の上話は有名だったので、俺は彼女の悲しみを慰めてやろうとしたんだ。

 立派で、健康で、健全な男がする方法で、な。


 ところがどうもそれが良くなかったらしい。

 気が付けば俺は衛兵に捕らえられ、さんざん杖打の罰を受けた挙句、天を追われて地に落とされた。

 それだけならまだいいものを、いったい何の手違いやら――多分モテまくっていた俺を妬んだ、陰府の役人どもの仕業とみている。そうでなくとも官府の腐敗って奴はいつだって深刻だからな。

 理由はどうあれ俺の魂はブタの胎に宿り、ブタとして転生した。かつては天の一軍を率いたこの俺が……。


 そこからの俺の人生、いや豚生は悲惨だった。

 どいつもこいつも俺を豚野郎とか化け物とか呼びやがる。

 俺は荒れた。

 荒れて暴れて、それでも満たされなかったから人生に慰めを求めた。

 結婚……婿入りさ。身を固めたんだ。

 嗚呼、卯二姐!

 あいつもいい女だった。嫦娥ちゃんとはまた違うスカッとした女でな。俺とは妙に気が合った。

 勝気でちょいとキツいところもあったが、それでも二人きりの時は……ブヒヒヒヒ。

 そんな調子で一年ばかしは俺も幸せだった。

 ところがある日、卯二姐の奴がぽっくりと逝っちまった。

 そして俺はまた独りぼっちだ。

 くそったれ。その時期はまたまた荒れたよ。

 

 荒れまくって暴れるのも虚しくなってきた頃、翠蘭ちゃんに出会ったんだ。

 思わず守ってあげたくなるような可憐な女さ。

 彼女の為なら命だって惜しくないと心に決めた俺は、それまでの生き方をひっくり返して真面目に生きることにした。

 そしてどうにかこうにか翠蘭ちゃんの家に婿入りしたんだ。


 おっ。いまお前、こんな豚野郎がなんでそんなにポンポン結婚できるんだ?って思ったな。

 ブヒッブヒッ。そこが俺さまの凄いところよ。

 そりゃ俺だって自分が世界一の美男子じゃないことくらい承知してるさ。

 だけどな、世界一の美男子じゃないからといって、世界一の美女に言い寄ったらダメだという道理はねえ。

 とにかく自分のできる限りをやるしかねえんだ。

 確かにこんなツラになって、俺の持ち札は一つ減ったさ。うん。不利な戦いになった。そいつは認める。

 けど結局のところ、イケメンだろうがブタだろうがやることは一緒だろ?

 もしもお前が女縁について悩んでるなら、自分の生まれ持った足りない部分を嘆く前に、そこのところをようく吟味するこったな。ブヒヒヒ!


 さて、どこまで話したっけ。

 そうそう翠蘭ちゃんの家に婿入りしたんだ。

 初めはまあまあ上手くいってたが、俺が本相を現すと、養父が俺をイジメだした。

 まったく厄介な話さ。婿入の身じゃお養父さんには敵わねえ。

 俺は真面目に身を粉にして働いてたが、ある日無性に悲しくなって、哭いた。

 夜通し泣き続けたよ。

 なんで俺がこんな目に合わなきゃならないんだってな。


 だってそうじゃないか。

 確かに最初は俺も悪かったかもしれないが、嫦娥ちゃんに絡んだ件は杖打と天からの追放刑を受けて贖われたはずだ。

 それがなんでブタに転生して、こうも人間たちに罵られなきゃならないんだ。

 これは完全に不当な罰で、転生を管理する閻魔の野郎の職権乱用にほかならねぇ!

 あの陰府の小役人如きが。俺が天で権勢をふるっていた頃はペコペコしてやがったくせに、落ち目となるや否やこの仕打ち。

 それがまた悔しくてみじめで、俺は泣いた。

 その時だ。

 捨てる神あれば拾う神ありってな。 

 気が付けば観音ちゃん、じゃなくて観音菩薩さまが俺の目の前に立っていた。

 お前、観音さまをその眼で見たことあるか?

 ないだろう。ブヒヒヒヒ。観音さまは柔和で慈愛に満ちていて神々しくて、それはそれは……奇麗で可愛い人だぜ。

 その時俺には翠蘭ちゃんがいたから、本気にはならなかったが、もし独り身であれほど追い詰められていなかったら口説いてたかも知れねえな。ブヒヒ。


 おっと、観音菩薩さまに欲情するとは、コイツなんとけしからん奴と思ったな。

 ふん、それはお門違いってもんだ。

 考えてみろ。誰だって野原にたんぽぽが一輪咲いていたら、ほんわかした気持ちになるってもんだ。

 それがいけないことか?

 皿一杯に好物の食べ物を盛られたら、誰だって腹が鳴って、口の中では涎が出て、頭の中じゃああ早く食べたいなと思うもんだ。

 そんな気持ちになることを咎める奴がどこにいる?

 こういうのは元来生き物がそういう風にできてるから起こることであって、やめろと言われてやめられる類の物じゃない。

 それと同じように、健康な男と女がお互いに見つめ合い、幸せな気持ちになって、ずっと一緒にいたいと思うのは自然なことだ。

 その相手が例え観音菩薩さまだったとしても別におかしい事じゃないんだ。

 どうしてもそのことに納得がいかないのなら、意見する相手は俺じゃなくて生き物を作った女媧さまだ。


 もちろん観音菩薩さまほどの聖者なら、そんな道理は百も承知よ。

 俺の心を見抜いた上で「お前は哀れな豚だねえ」と仰ってくれた。

 どうしたら自分は救われますかと縋りつくと、私を抱いて肉欲を満たしたいのかい?と観音さまは言う。

 いや違う、と俺。

 いま自分が求めているのはもっと根本的な、根っこからの、運命に対する救いであっていっときの快楽じゃない。

 そう訴えると観音菩薩さまは「よろしい」と言い俺に道を示して下さった。

 一年後、玄奘三蔵法師という者が天竺に向かう途中でここを通りかかる。お前は五葷三厭を断って彼を待ち、その後は彼に仕えて共に天竺へ目指すのだ、と観音さま。

 ははーと俺は観音さまに何度も叩頭した。

 そしたらいつの間にか観音さまの姿は消えていて、俺が拝んでいたのは朝日だった。

 夜明けだよ。

 全くあれほどさっぱりした気持ちになったのは久々だったぜ。

 そして一年後。観音菩薩さまの仰った通り、俺はお師匠さまに出会い天竺を目指すことになったのさ。



 うん?

 ああ。別に二人旅ってわけじゃねえ。他にも仲間は居るよ。

 これがまた妙な奴らばっかりでな……。

 俺たちは四…いや五人で天竺に向かっている。

 まずさっき言った玄奘三蔵法師、俺たちのお師匠さまだ。

 この人は……なんというんだろうな?

 捉えどころのない人だ。弱虫で情けなくて哀れなほど貧弱に見えるときもあれば、鉄より金剛石より強いように見えるときもある。

 普段はお人好しの全く弱いただの人間で、腕力なんかは俺たちよりずっと下だ。

 だから始終妖怪どもに襲われて死にかけている。

 いつも俺や孫の兄貴に助け出されて、ああ助かった、ああ良かったなんぞとと一息ついてる姿を見てると、なんで俺はこんな弱っちい人間に付いていってるんだろうかとたまに思うぜ。

 一方で、こうと決めたことは油で煮られようが、殺されようが、絶対に、絶対に譲歩しない部分もある。

 さっきも言ったが術を使えば一瞬で旅は終わるのに、わざわざ苦労してるのはお師匠さまが頑として聞かないからだ。

 そんなものだから、孫兄貴とは意見が合わずいつも喧嘩してるよ。

 あの孫兄貴と喧嘩できる男は、世界広しと言えどそうはいねえだろうなあ。

 そんな時はやっぱりお師匠さまは凄いお方だ、って思うぜ。

 まっ。ここだけの話、融通の効かない奴だなあとも思うがな。


 そして名前が出てきた孫兄貴、いや孫悟空。

 地にあっては水簾洞洞主、美猴王。天にあっては斉天大聖と言われた男さ。

 まあ名前だけはご立派だが、実態は乱暴で横暴で狂暴な全くとんでもねえ猿野郎で、心根が優しい俺なんかはいつも怒鳴られて殴られて脅されて、しくしく泣かされてな……。

 ブヒッ!?

 違う違う。そんなことは言ってねえよ兄貴!

 あっいなかった。

 とにかく、とんでもなく腕っぷしの強い石猿だ。

 勿論、欠点は少なくないが、どでかい長所もある男だ。

 結構面倒見がいいところもあるし、なんといってもこの過酷な旅をしていて、俺たちがまだ生きてるのは孫兄貴に負うところが大きいからな。

 この俺とて天界にその人ありと言われた天蓬元帥だが、孫兄貴にはちょっと敵わねえ。

 一度本気で兄貴と手合わせしたことがあるが、ありゃあ全く恐ろしい体験だった。


 どついてみろ!と孫兄貴。

 かっときた俺はこの釘鈀――重さは五千斤もあるんだが――を手に取って思いきり兄貴の頭を殴った。

 殴った俺の腕の方がしびれるくらい強く、何度も何度も、な。

 それでも兄貴はアッハッハと笑い、なんだ口ほどにもない、その程度の腕前で不死身の孫悟空さまに喧嘩を売ったのか。この豚野郎、てめえに本当の打撃というものを教えてやる。覚悟しろ。

 と兄貴は如意棒を握って、一転さっきとはまた違う凄まじい笑みを浮かべた。

 俺はたまらず降参したよ。

 ブヒッ。敵なら心底恐ろしいが、味方ならこれほど頼りになる男はいねえ。

 これでも俺は兄貴を尊敬してるぜ、心の底からな。


 他には沙悟浄って奴がいる。

 まあこいつは大したことねえ野郎だ。 

 いつも何か哲学的な、自我がどうこう、我と世界の関係がどうこう、他者との関係がどうこうとブツブツ言ってやがる。

 たまにお師匠さまとも何か小難しい事柄についてブツブツ議論しているようだが、俺にいわせりゃそんなことあまり意味がないね。

 だいたい哲学なんてものは現実という実体を補う影のようなものであって、哲学の為に哲学をしたら影の裏側を覗こうとするようなものじゃねえか。

 そこには何もないに決まってる。

 ブヒヒヒ。

 傑作だったのは、ある日いつものように沙悟浄の奴が自分とは一体なんであるか悩んでやがったことだ。

 水妖なのは違いないが、一体なんの妖か?と悟浄。

 イルカだろうか?ワニだろうか?それとも世人のいう深沙大将が己の本相か?

 いやそもそも妖とは何か?

 かつて天の捲簾大将だった自分と今の自分とは一体何が違い何が同じなのか?

 と、どんどん話が変な方向へ転がっていく。

 ブヒヒヒヒヒッ。

 俺は教えてやったよ。

 ぶさくさ言う前に鏡を見ろ!おめえはただの河童だってな!


 そして……馬がいる。

 馬ってなんだと思うかも知れねえが、馬だ。

 本当はこいつ、白竜って龍の端くれなんだが、普段はもう本当にお師匠さまが乗る馬になり切っていて、話しかけても何やっても、ただひたすら馬のフリをしてるんだ。

 昼の間はずっと馬だし、宿に泊まってもこいつは変化を解かず厩で夜を明かすし、俺もたまにこいつが本当は龍だと忘れそうになるよ。

 全く、何が楽しくて日がな一日、男の尻を背に載せて喜んでるのやら。

 ……。

 ふうむ。

 いままで深く考えたことはなかったが、そう考えると中々やべえ奴だな。

 まあ俺は進取の気性にあふれた先進的な男だし、快楽の達人でもあるから、人の趣味ついてはとやかく言わないがな。ブヒヒヒヒヒ!


 おっともうこんな時間だ。

 あまり帰りが遅くなって、また孫兄貴にどやされちゃ堪らねえ。

 俺はもう行くぜ。



 そう言い残すと、豚顔の怪人は五千斤あるという釘鈀を杖にして、フラフラと頼りのない千鳥足で酒場を後にした。

 私は彼の言葉が嘘か本当かは判断できなかったが、嘘だとしたらなんと見事なホラ吹きだろう。

 そして本当だとしたらなんと奇妙な人生を歩んでいることか。

 そのどちらにせよ、私は感心した。

山月記などで知られる中島敦の著作に「悟浄出世」「悟浄歎異―沙門悟浄の手記―」というものがある。

これは沙悟浄を主人公にした沙悟浄の目から見た西遊記という体の作品で大変面白い。

大変面白いから真似して自分は猪八戒を書こう、と思い立って書いたのがこの短編です。

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