満月の夜
彼はそっとベッドから這い出た。
広いベッドには彼の妻である女が安らかな寝息をたてている。
彼はそれを見て、困ったように口角を上げる。
このまま…
ベッドのすぐ側に用意してある剣に視線が行きそうになるのを首を振って押し止めた。
カーテンの隙間から差し込む光に導かれ、バルコニーで満ちた月を見上げた。
淡い月の光に思い浮かべるのは、もう二度と見ることが出来ない女性の顔。はにかむように笑う笑顔。
戻りたい、戻れない
「こんな所にいたんだ」
彼の妻が当たり前のように腕を絡ませてくる。湧き上がる失望を我慢し、彼は妻がしたいようにさせる。
「満月なんだ、キレイだね」
二人で見れたのが嬉しいと笑う妻に彼も作った笑顔を浮かべて出来るだけ優しく答えた。
「そうだね」
あと何回、この月を見上げねばならぬのだろう…
「これはどういうことだ」
国王は唸った。
ほとんどの地区で天候に恵まれたのにも関わらず、作物の収穫量が昨年の半分にも満たなかった。唯一、豊作だったのは五年前にホーラン伯爵として臣籍降下させた第一王子の領のみ。
「何も不思議なことではありません」
国王の息子であり、第二王子から王太子となった彼は、淡々と答える。
「兄上の領は、パトレシアの種と薬を使って栽培していますから」
国王たちの前に資料を並べる。
「五年前からの収穫量の推移です」
ホーラン伯爵領だけは収穫量が年々増えているが、他の地区は明らかに右下がり、五年前から年々収穫量が減っていた。三年前まではそれでも例年以上の収穫だった。昨年は収穫前に嵐もあり収穫量が激減している。今年はそれの半分以下なのだ。
「予想通りパトレシアの種と薬を使った物の収穫量は安定しています」
にっこり笑って言う彼に国王は唾を飛ばす。
「分かっていたなら、何故使わさなかった!」
「五年前にあなた方が決めましたよね? パトレシアが研究開発したモノは使わないと」
彼はそこにいる者たちを一人一人見ながらハッキリと言った。
「実りの聖女がいるから必要ない。はっきりと」
どの者も国王さえも罰が悪そうに視線を游がせている。
「ですので、聖女に頼ったらどうですか? 私の方からも聖女に言っておきますので」
彼の笑みはどんどん深くなる。まるで楽しんでいるかのように。
「聖女さまは純潔を失われているから…」
一人が勇気を出して言った。婚姻により聖女の力が消えたのでは? と。
「可笑しいですね。私の婚約者は、妻になる者はパトレシアと言ったのに、王族と聖女の婚姻は必須だと私に無理矢理聖女を娶らせたのはどなたたちでした? 純潔を気にされるなら、聖女との婚姻を諦めるべきでした」
彼が笑みを深める度にその場にいる者たちの背筋に冷たいものが流れていく。
「民には関係ないだろう」
国王の言葉にクックックと彼は楽しそうに笑う。
「関係ない? ご冗談を。罪人として王都を引摺り回されたパトレシアは至る所で罵倒され石を投げられた。傷の手当てもされず、瀕死の状態で斬首された。晒された遺体さえも民は虐げた」
それを命じた国王は何も言えない。ボロボロでいつ消えるか分からない命だったため、見せしめのために急いで斬首を命じたのは国王だ。怯えも泣きわめきもしない、もう意識さえない罪人の公開処刑はなんの面白味はなかったが、聖女のため、諦めさせるために必要だった。
「パトレシア嬢の名誉を回復したのなら」
そう言った者を国王は睨み付けた。
「罪状は、実りの聖女を殺そうとした…でしたね。国王陛下自らが指揮をとり、調べた結果が間違いであったと? 私を聖女と婚姻させるのにパトレシアが邪魔であったからと公表してくれるのですか?」
そんな発表、出来るわけない。国王が、国が無能だと他国に叫ぶようなものだ。
「ああ、これも見ていただきましょう」
彼は新しい資料を取り出した。
「兄上の領で、何も使わず、種だけ、薬だけの畑を作っていただいているのです」
種だけ、薬だけの畑は、種も薬も使った畑より収穫量は落ちるがどちらも使わなかった畑より格段収穫量が高かった。
「ら、来年は…」
国王の言葉に彼は大袈裟にため息を吐く。
「お忘れですか?」
彼は国王の前にまた二枚の紙を置く。
一枚はパトレシアの研究開発品の権利書だ。今は貴族から平民に落とされたパトレシアの家族の物となっている。その者たちは今ホーラン伯爵の保護下にある。
もう一枚は国王の承認のサインもある王太子の勅命書だ。ホーラン伯爵領のみでパトレシアの研究を続け、その成果はホーラン領内のみに使う。つまり、ホーラン領がどれだけ豊作でもパトレシアの研究開発品を使っているのなら、他の領地には出荷出来ない。
サインしたときはいい案だと思った。国王に逆らいパトレシアの無実を訴えていた第一王子の罰として、与える領地を無意味なパトレシアの研究を続ける実験場にするのは。パトレシアの罪状に納得せず聖女との婚姻も嫌がっていた彼もパトレシアの研究の続行を認めると国王たちの要求に大人しく従うようになった。
「各地に撒いたパトレシアの薬の効果が完全に切れたようなので、来年も多くて今年と同じくらいしか収穫できないでしょうね」
それぽっちの量では国内消費分も賄えない。今はまだ備蓄かあるが、価格の高騰、貧困層の拡大は免れない。
「人と金の使い方しか覚えない妻に頼んでおきますね。来年は豊作であるように。渡り人が必ず特別な力を持っているとは限らないのに…」
渡り人とは希に異世界から来る者のことを言う。
渡り人は国に恵みをもたらすことが多く、どの国でも大切な客人として扱われることが多い。
彼の妻は七年前に異世界から来た渡り人であった。
不作続きであった彼の国は渡り人が来た年、天候が悪かったにも関わらす豊作で翌年はそれ以上の豊作であった。渡り人は実りの聖女として来訪を喜ばれた。
「王太子殿下、聖女さまがお呼びです」
従者にそう告げられ、失礼と笑顔で彼は部屋を出ていく。
後には頭を抱えた国王たちが残された。
今さらホーラン伯爵、第一王子には頼れない。聖女かどうか見極めるべきだと再三進言していたのを無視し、力を削ぐために伯爵として臣籍降下させた。苦労するようにと国内で一番痩せている領地を与えて…。
翌年もその次の年も収穫量はまったく増えなかったどころか、減る一方だった。
翌々年、彼と彼の妻は鉄格子の入った馬車に乗り、王都を巡った。彼は実りを独占した罪人として、彼の妻は聖女を騙った罪人として。
王都で処刑台に立った彼と彼の妻に民は罵倒の声を上げ、石を投げつけた。彼も彼の妻も何も語らず処刑された。
その遺体に怒りが収まらない民は石を投げ続けていた。
その場に駆け付けたホーラン伯爵、いや、第一王子は民に語った。
ホーラン領は王太子が国に乞うて、八年前に処刑された女性の研究を続けるための農場だったことを。
国が(ホーラン領以外で)処刑された女性が作り出したモノを使うことも食することも禁じていたことを。
渡り人が自ら実りの聖女だと名乗ったことがないことを。
渡り人が購入した品を売って、国民が食べる食料を隣国から輸入していたことを。
彼と彼の妻の遺体は第一王子の手で処刑場から運び出された。
二人の遺体に石を投げる者はいなかった。民は道を開け、二人の遺体が運ばれていくのをただ見ていた。見ているだけしか出来なかった。
国王は退位し、復籍した第一王子が新国王となった。
新国王はホーラン領に研究所を作った。
『パトレシア・マルカケド 植物研究所』
その名の由来を知る者は数少ない。