小説家になった理由
「なぜ小説家になりたいと思ったんですか?」
上目遣いに問いかけた。話を繋げたいという何気なしの質問だった。
男はぎこちない表情を浮かべながら呟いた。
「女さんは死について考えたことはありますか?」
「え? えっと、まぁ、はい。物心ついた頃は死ぬのが怖くて眠れないことがよくありました。それに両親がいつかいなくなってしまうって考えて泣き出したこともありますよ」
笑いを添えながら訝しむ。なぜ、いきなり哲学のような話題を持ち込んだのだろう。
私の返答に満足いったのか、男はゆっくり頷いた。
「私も同じような経験をしました。死とは程遠い距離にいるのに、未知なる終わりに怯えてしまう」
「でも、さすがに今はそんなことありませんよ? もちろん死ぬことは怖いですけど、なんだか漠然としていて考えること自体無意味に思えてしまうんです」
無意味。
その言葉に男はわずかに反応を見せた。そのままどこか遠くを見つめ、しばらく喋らなかった。私の発言を頭の中で咀嚼しているようだった。
私はじっとその様子を伺っていた。ふと彼の目元が気に留まる。精悍な顔立ちにふさわしい涼しげな目つきだった。眺めていると不思議と気分が安らいだ。こんな時に小説家は話を思いつくのだろうか?
南風が吹いた。それに押されるように男が口を開いた。
「私は100年後も生きていたいんです」
「は?」
「私は臆病で弱い人間です。いつまでも死にたくありません。ずっと幼いままなんです」
またしても要領を得ない発言を受けた。もしかして、質問が聞き取れなかったのか? だから明後日の方向の回答が飛んでくるのかもしれない。
「えっと、私は男さんのこと弱い人間だと思いませんよ?それで話は変わるんですけど、なぜ小説家を目指したんですか?」
その時男が静かに笑った。品のある笑い方だった。
「申し訳ありません、急に耳障りな話をしてしまって。悪いクセです」
なおも楽しそうに笑う男はまるで子供のようだった。
「私が小説家になったきっかけは物語の恒久性に気づいたからです」
「恒久性?」
「砕いて言えば寿命の長さのようなものです。例えばケーキやフルーツには消費期限がありますね。電化製品には使用期限があります。建物もいつかはガタがきます。人の手を入れなければなりません。デジタルの世界でも同じです。どんなに画期的で良く出来たものでもいつかは改良が加えられます。これもまた一つの期限と呼べるでしょう」
男は柔らかい表情を携えながら続ける。
「でも物語の世界は違います。どれほどの時が経っても色褪せることはありません。時間ですら介入できない、不可侵領域なんです。このことは古代文学が今もなお愛され、研究されているように歴史が証明しています」
「た、確かに清少納言とか習いますもんね」
思わず口をついた言葉は稚拙というほかなかった。男になんとか話を合わせるつもりが、清少納言とは。自分の浅学を呪いたい。
しかし男は特に気にする様子もなく、ゆっくり私の顔を見つめた。
「そして小説家にとって自身の作品は魂そのものなんです」
「魂そのもの……」
「着想はいつだって真っ白なキャンバスから始まります。そこにはどんな登場人物を描けば良いのか。命を吹き込むためにはこれまでの人生経験がカギになります。魅力的なキャラクターが出来上がったら今度は彼らが歩む道を塗らなければなりません。それには重厚な知識と慎重さが求められます。自由でありながらも責任を求められるこの作業はまさに魂を吐き出しているようなものです。そうして出来上がった作品は作家の命のカケラだと考えられませんか?」
男の問いに頷くことしかできなかった。
「私は死ぬことがとても怖いです。だからといって生物の限界を超え不死の力を手に言えるのはいささか現実的ではありません。それなら作品に魂のバトンを渡して後世まで生き残ってやろうと考えたんです」
「私は文字で命を紡ぎたいんです。だから小説家になりました」
長話を終えた男は照れを隠すように目を背けた。
私はその姿をぼんやり眺めながら、小説家を理解した。