~真夜中眠れない少年は月に魅了される~
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深夜、満月の下のこと。とある民家のエーテルという少年はなかなか寝付けずにいた。布団に潜り込んでは身を返しの繰り返しで憂鬱になって、もうこれでは明日は徹夜で学校でぼんやりしてしまうと、寝不足が苦手な自分なのに寝付きが悪いことを恨めしく思った。ふとベッドの側にある窓のカーテンの隙間から満月が見えた。
それがあまりに綺麗に感じ、彼は身を起こして窓を開け月夜を見た。何故だかいつもとは違う光の色をしているように思えて仕方なかった。まるでその光は誰かを必死に呼んでいるようにも受け取れた。
エーテルは、ふと湖を取り囲んでこの月を眺めたいという衝動に駆られた。元々絵を描くのが好きなエーテルは次の作品にそんな風景を制作したいとインスピレーションを受けたのだ。
しばらくその構想を練っていると、いよいよ湖に赴くのを実行に移したくなって、彼はそっと床に足を下ろした。クローゼットから服を適当に取りだし厚手のジャンパーを着ると秋旬の冷やかな空気が纏う外へ、誰にも気づかれないように扉を開けた。
誰もいない軒並みを通り過ぎていくと途中、野良猫がゴミ箱から顔を覗かせニァアと鳴いた。エーテルはその黒猫に微笑むと、猫はフンと鼻を鳴らし勢いよくゴミ箱から出て路地を駆けていった。真夜中の道は人が居ないのでエーテルはポツンと残され不安になり、足早に駅に向かった。その五分後、付近の駅に着き切符を買うと駅員に渡して切ってもらいプラット・ホームに入った。
ベンチに腰を掛け、息を吐くと改めて季節が冷え込んできたことを皮膚を通して再確認した。今年の冬も寒くなるだろうなと思い彼は空を見上げると、星の少ない空でやはり煌々と月が明るく、エーテルは町の灯りが消えて無くなってしまえばこの光がもっとよく見えるような気がして、プラット・ホームの人口ランプの灯が鬱陶しく思えた。
右腕にはめた腕時計を見ると終電の時間まであと50分あった。湖に着いたらすぐに風景を写真に収めて帰宅すればギリギリで間に合うだろう。そんな楽観的な気分で計画を立て、持ってきたカメラを確認するように鞄の上から触った。
そのうちにスピーカーから機械音声が流れ、単調な音楽が2,3回繰り返されると電車が暗闇のレールからやってきた。機械的にドアが開き、中には泥酔した若者や熟睡する仕事帰りの男などが座席にちらほらと座っていた。
すぐにベンチから立ちあがって、電車の中に一歩足を踏み入れたその時。
「エーテル、どこいくの。」
自分の名前を突然呼ばれ、エーテルは驚いて身体を震わし振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
「フレア。」
エーテルは心底驚いてフレアという少女を見つめた。彼の学校の友人である少女、フレアは今にも消えそうな声で言葉を放った。
「私も連れてって。」
そう言ってフレアはエーテルの元へ走り出した。その時、機械音声とメロディが鳴り、扉が閉まった。改札口に立っていて距離のあったフレアはあと一歩の所で、電車の扉の前で乗車することを憚られ。
「フレア、君こんな時間に何してるんだ。」
扉が閉められた後、エーテルのその声はくぐもってフレアに届いたが、フレアは今にも泣きそうな顔でエーテルを見つめたままだった。
電車が走り出すと、彼女は両手を顔に当てて泣き出してしまった。エーテルは自分が電車から出て行かなかったことを心底後悔をして、そのまま視界はフレアの姿を置いて、走る電車の窓に小さく遠のいていく彼女を追い続けた。
何故彼女はこんな時間に出歩いていたのだろうか、エーテルは自分はともかくとしてフレアの身に何か起こったのかと思って気が気でなかった。もう一度引き返そう。月のモチーフはまたの機会があるじゃないか。エーテルは学校でもよく会話をするフレアが家で何か起こったのではないかと危惧し、一駅目で降りようと心に決めると、アナウンスが流れ始め停車駅の付近にいることを示した。
『次は「景」。「景」です。』
「え。」
しかし、驚いたことにその停車駅は、自分の知らない駅名であった。
駅員が言い間違えたのか困惑していると、そのうちに電車は駅に到着した。
そこは、どんよりと暗い雰囲気のホームだった。
切符を切る駅員が改札に見えるが、暗がりで顔が見えない。一体何が起こっているのだろう。こんな見ず知らずの駅に何故来てしまったのだろう。エーテルは酷く戸惑った。
それからこの先どのような未知の場所に連れて行かれるのかという不安と、フレアの事が気掛かりだったエーテルは反対ホームに行くためにその駅で下車しようと、「景」という駅に足を踏み入れた。
「エーテル。」
聞き覚えのある少女の声が背後から響いた。エーテルは驚いて振り返ると、電車内には悲しみに暮れた表情のフレアがあった。
「フレア……どうして。」
驚いて絶句しているエーテルに対して、フレアは先ほどのことがなかったように今にも泣きそうな顔で叫んだ。
「エーテル、行かないで。」
そこで電車のドアが閉まった。単調なメロディの後に電車は発車した。視界でエーテルの姿を追いかけるフレアの姿も、また同じようにエーテルは茫然と見つめ続けた。
一人ホームに残されて、彼は再び酷く驚いた。下りの電車が無いのだ。駅のレールは一方通行になっていて、エーテルの乗っていた方向しか設置されていなかった。
そんな馬鹿なことがあるもんか、と四方八方探してみるがどこにも見当たらなかった。
フレアにしてもこの電車にしても、現実味のない出来事に驚愕していると、エーテルは、駅員に聞いてみよう、助けを求めよう、と改札口に向かった。
途中、フレアの姿は眠気から来た自分の幻で、もしかするとこれ自体も自分の夢なんじゃないかと思った。
だがそれにしてはあまりにもリアルな感覚があって仮にこれが夢であっても醒める気がしないように思えた。
「すみません。」
掛けた言葉に駅員は答えない。ただ切符切りを持ってカチカチ音を立てているだけだ。不思議に思って顔を窺うと、エーテルは驚いてヒッと奇声を上げた。その駅員には目が無かった。そして皮膚は鉄で出来ていて、コンセントの線のようなものが指の間からのぞかせていた。どう見てもそれは機械人形であった。
奇妙な感覚に陥ったエーテルは二、三歩たじろいで、急いで改札を通り抜けて駅を飛び出した。
(一体なんだっていうんだ、この場所は…!)
エーテルの顔から青白い汗が吹き出し、そのまま走りながら辺りを見渡すと、暗がりの中、商店街の看板が見えてきた。どんよりと重めかしい雰囲気の目の前を、息を切らしながらエーテルは見やると、ひとけはなく、ネオンの光がちらほらと灯っているだけだった。
ふと空を見ると、月が無い事に気がついた。先ほどまでは満月が、それは綺麗に輝いていたというのに。
エーテルは大きく息を吐いてその場に座り込んだ。非現実的過ぎる。此処は夢か幻か。だが、その醒め方は分からないままだった。
商店街の店はごく普通の建築だが、看板に書かれている文字は見たことのない言葉で、此処がエーテルの知っている世界ではないことが分かった。
「おおい。おおい。」
喉の低い、男の声がした。エーテルが身体を震わして声のする方へ身を向けると、先ほどの駅員が走って来たではないか。
「切符を切らしておくれよ、切符を切らしておくれよ。」
駅員は腹のでかい図体でのっしのっしとやってくる。エーテルはその機械人形が恐ろしくて再び立ちあがって商店街の奥へと走り出した。
「おおい、おおい。止まっておくれよ。その先は行っちゃいけないよ。行っちゃいけないよ。」
幾分距離がついている駅員が遠くの方からまた話しかける。
エーテルはそんなもの知るもんかとその場を走り去ると、そのうち声は聞こえなくなった。
良かった、と胸を撫で下ろせば、もうそこは既に商店街を通り抜けて木々の多い、ランプも無い場所に着いていた。いよいよ自分が危ない場所に足を踏み入れているのではないかと身を震わす中で、引き返そうにもあの駅員がいると思えばエーテルはその森林の先へ足を向けた。
星々がエーテルの世界からでは考えられないくらい輝いていた。お陰で地上を照らし、足元がかろうじで見え、草道を進むことが出来た。
そのうちに、どこからか水音がするようになった。葉から滴が水面に滴るようにチャプンという音が繰り返される。湖でもあるのだろうか。エーテルは喉が渇いていたので水を飲みたいと思い、その音を頼りに歩行を進めた。すると道の先の木々の隙間から明るい光が差し込んできた。誰かいるのだろうか。
人がいるかもしれない、と足早にその光の方へ赴くと、湖と同時に一人の女が姿を現した。
「こん、にちは。」
女は妖艶に微笑むと首を傾けてエーテルの方へ向いた。ごく普通の人間のように見えたが、着ている服は真っ黒な着物であった。まるで葬式に赴いたばかりの未亡人のように、女は不思議な雰囲気を纏っていた。木々の枝の上にランプが乗っていて湖の周囲を照らしていた。
「あなたは誰ぁれ?」
女は艶めかしく呟いた。そのあまりの美しさにエーテルは息を飲んだ。女の唇は光る水面のようにつややかであった。
「僕は。」
「おいでなさいな。」
と、女は手招きをする。エーテルは言われるままにその女に近づいた。草原の葉がざわざわと風も無いのに揺れ動いた。そのままエーテルが女の前にまで行くと、湖が目の前になって、その湖の中には満月が浮かんでいた。
「どうして。」
エーテルが湖に顔を覗かせると、自分の姿が映らなかった。女はエーテルを抱き寄せる。
突然の事で驚いているエーテルに、女はさらに強くエーテルを抱き締めた。
「可哀想に。迷い込んだのね。」
「あのっ、僕は。」
顔を真っ赤にさせたのを面白そうに女は身を引いてエーテルを見た。その瞳は酷く深い黒色であった。凛としたその目はエーテルの中の全てを掻き乱して強く混乱させた。
「僕は、帰り道を探していて。」
「そう、分かっている。大丈夫。」
優しい、母親のような眼差しでエーテルの頬をそっと撫でると、彼女の持っていた黒い鞄の中から花が取り出された。林道の花であった。
「これは?」
「この花を持ってもう一度元の道を御戻り、そしてけして振り返らずに家まで帰りなさい。」
女はふっと柔らかく笑いかけるとエーテルから離れた。一歩、エーテルは女に近づいた。
「あなたは。」
「でもお願いが一つあるの。この花を、あなたの知っている湖に投げて頂戴。あなたを助ける、おあいこよ。」
女はそうすると白い泡に包まれて消えてしまった。まるで人魚のように。エーテルは今見た女が幻ではないと、手に持った林道を確認し、再び道を戻り始めた。
女の言う事を信じるまでに、エーテルは非現実のこの世界に麻痺していた。エーテルは女の言う通り振り返らずに駅にまで向かった。
「ねぇ、君。」
途中で若い少年に声を掛けられたが、振り返らずに元来た商店街を歩いた。
「ちぇ、つまらねぇの。」
と、面白くなさそうに少年の声はそれで消えた。
その声は、エーテルによく似ているものだった。
駅の改札まで着くと、駅員が最初と同じ場所で同じような動作を繰り返していた。そして、既に停まっていた電車を見て、切符も買わずに走って改札を通り抜けると、また駅員が追いかけてきたのが分かった。
エーテルは一生懸命走って電車に乗るとなんとか間に合って入った、と同時に扉が閉まった。
駅員は閉め出されて何やら言っていたが構いはしなかった。
そして長い間電車は走り続けたままだった。乗客は不思議な事に皆眠っていた。7分間走り続けていると、ようやくアナウンスが鳴った。
そのアナウンスは、普段通りの口調で、次の停車駅を告げた。
それは、エーテルのよく知っている自分の家から2駅離れた「色葉」だった。心臓の心拍数が上がっていたことに、そこでエーテルはようやく気付き、胸を撫で下ろした。
時計を見ると、終電の時間までまだ35分もあった。では今見てきたものが夢であるか、というと、右手に握りしめた林道の花が現実だという事を示していた。
エーテルはその駅で降りると、向かいのホームでは家へ繋がる電車が停まっていたので、彼は心底息を吐いた。
そして、ふと女の言っていた内容を思い出した。この花を湖に投げて欲しいという。
エーテルは彼女のお願いを叶えてあげないといけないと思い、「色葉」の駅を出た。
歩いて数分で着く湖は何処か「景」という街の造りと似ているようでもあった。湖に着くと酔っ払いの若者達が叫び声をあげたりして物騒であったが、誰にも気づかれないようひっそりとエーテルは湖の水面に近づいた。
そして思いっきり右手を振り上げて、林道の花を二輪、湖の中へ投げ込んだ。
すると二輪の花はしばらくして湖の中へと飲みこまれていった。それからエーテルは急いで駅に戻り、自分が帰る方角の電車に乗った。もう乗客は1人か2人しかいなかった。
ようやく駅に着いて自分の家まで歩いているエーテルは途中で、何故だかフレアが酷く悲しんでいるように思えて仕方なかった。
翌日、一睡も出来なかったエーテルが学校に行くと、何でもないような顔でフレアが教室のクラスメイトと話していた。
「フレア、君、昨日夜に街へ出ていた?」
すると心底驚いた様子でフレアは首を振った。ピンクのボブヘアが愛らしく揺れた。
「そんなの知らないわ。誰かと勘違いしたんじゃない?」
と、笑うと隣にいたクラスメイトが茶化すように「仲良いもんなぁ。」とフレアの肩をつついた。
「それにしてもエーテルは夜に何処かへ出掛けたの?」
「いや、なんでもない、なんでもないよ。」
「そう、変なの。」
「変なエーテル。ねぇ、今日の数学の小テストってさぁ。」
クラスメイトのサティが早々に話題を変えてくれた事をありがたく思い、エーテルは自分の席に座った。
はて、昨日のフレアの姿は、では一体何だったのか。実際、説明がつかない事ばかりで、いくら考えても、その正体は分からないのだが、少なくとも彼女のあの様子から、あれは本人では無かったのかもしれない。フレアによく似た誰か、だがその少女はエーテルの名を知っていた。声も姿もそっくりだ。狐に抓まれたような出来事に、エーテルは不可思議に溜息を吐いて窓際の机に肘を付き外の景色を見やった。
しばらくして教師が入ってくると室内のざわめきは消え、生徒はそそくさと着席をした。教師の掛け声に合わせて室内の生徒全員が起立を始めた。エーテルはその時、外の日の光が翳ったので、雲でもさしたかとおもむろに窓に顔を向けると、太陽がもの凄い速さで沈んでいくのが映ったのであった。あんぐりと口を開けると、周囲の皆は何事も無い風にして着席をした。
「先生。」
エーテルはおそるおそる挙手をする。淵眼鏡の男性教師は教科書を片手に「なんだ。」と問い返した。
「太陽が……、なくなりました。」
しばらく教師の動作は停止した。そして、「そうか。」と自らの眼鏡を掛け直すような動作をすると、「授業を始める。」教科書の頁を捲り始めた。
「先生、……えっ?」
周りを見渡すと生徒はエーテルの言葉が聞こえていないように授業に入り込んでいた。
まるでその事柄には対応出来ないプログラムのように。誰か、自分の言っている異常事態が分かる人間がいないのか、左右を見回して探してみると、青白い顔をしてこちらを振り向いているフレアが、いた。
「フレア……。」
「……エーテル、あなた、動けるって事は、あなたが、してしまったの?」
「はっ?え?何を?僕は、何も!」
ガコン、と椅子を引かせてのけぞると、エーテルは再び空を見た。そこには、あまりにも大きな満月の姿が浮かんでいたのだった。まるで、月とこの星の距離が急激に接近してしまったようであった。
「林道の花をあの月の夜に、湖に投げたのは、あなたなの?」
「……どうして、それを知っているんだ、フレア。」
フレアは襲いかかる勢いでエーテルの元へ行くと「今すぐ。」と急きこんで、
「私と一緒に来て。」
そう、吐き捨てた。
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