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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第3部 紅狼の騎士団
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襲撃 5

 床に入ってから何分経っただろうか。

 レティシアにはその時間がわずか数分にも、数時間にも思えた。


 雪の音に混じって聞こえる、何かの物音。最初は窓の外で木の葉が擦れている音かと思っていたが、それにしてはやけに近くで聞こえる。


 眠れないまままどろんでいたレティシアは何気なく、枕から頭を持ち上げて――悲鳴を上げそうになった。


 雪明かりに照らされて、窓の外は思ったよりも明るい。うっすらと白く染まる窓ガラスに映る、長細い影。窓ガラスの上から下まで貫通させ、ゆらゆらと揺れる、何か。

 とたんにわずかな眠気も吹っ飛び、レティシアは震える息を吐き出してそっと、ベッドから降り、窓ガラスを押し開けた。


(これは……ロープ?)


 細長いものと思っていたのは、麻を編んで作られたとおぼしき、太めのロープだった。

 上階から垂れ下がったそれは、レティシアの部屋のベランダからも掴めそうな位置で揺れている。


(なんで、こんな物が……)


 レティシアがベランダに出た瞬間。

 頭上ではっと息を呑む音がし、とたんにしゅっとロープは上部に引き上げられてしまった。


 一瞬の出来事でレティシアは何が何だか分からなかった。だが、状況が飲み込めるにつれ、寒気に当たって冷えてきた体が氷点下まで凍り付いたような感覚を覚えた。

 上階には、ティエラの部屋がある。


(ひょっとして、これが侵入者の本当の目的……!)


 レティシアは唇を噛むと、急ぎベランダから中に戻り、自室を出て廊下に出ようとドアノブに手を掛けた――が。


「うおっ!」


 いきなりドアが自ら外向きに開き、勢い余ってレティシアの体が前方へつんのめった。

 そのまま無様な形で廊下に投げ出される――と身構えたが、代わりに逞しい腕がレティシアの腹に回った。


「っと……危ない」


 低い声。腕にぶら下がる洗濯物のようになっていたレティシアは、聞き覚えのある声にはっとして体を起こした。

 薄暗がりの中でもよく映える、白銀の髪。いまいち感情が読み取りにくい、凍てつくブルーの双眸。


「セイル……殿?」

「失礼するぞ」


 言うなりセイルはレティシアを掴んだままするりと部屋に入り込み、後ろ手にドアの鍵を掛けてしまった。とたんにレティシアは今し方起きたことを思い出し、セイルから逃れようと身を捩った。


「離してください!」

「待て。おまえはクラート公子にも、ここにいるよう命じられたのではなかったのか」

「そうだけど……!」


 言いかけ、レティシアははたと口をつぐんだ。

 なぜ、セイルがそのことを知っているのだ?


 セイルの銀髪は、雪明かりのみの部屋でも眩しく輝いている。その神々しさとは真逆に、冷めきった青い目は無情にレティシアを見下ろしていた。


「上官の命令に従うことが侍従としての役目だと、俺は聞いていたのだが」

「そうだけど、でもティエラ様が危ないのに……」

「知っている。だがおまえの役目は違うだろう」

「違わなくない!」


 叫び、レティシアは急いで振り返ってセレナの部屋に向かって声を張り上げた。


「セレナ、早く起きて! 上階に侵入者が……!」


 レティシアの声を受けたかのように、ドアが、ゆっくり開く。


 だが姿を現した女性を見、レティシアは言いかけた言葉を反射的に飲み込み、目の前にいる人物を凝視するしかできなかった。


(どうして……ここに……)


「ティエラ様……?」

「ごめんなさい、レティシア」


 寝間着姿のティエラは後ろ手にドアを閉め、申し訳なさそうに顔を逸らした。


「セイルの言う通りなの。あなたには、ここにいてもらいたいのよ」

「え……えっと、どうしてここにティエラ様が……」

「おまえの友人とティエラが入れ替わった。今、上にいるのは友人の方だ」


 セイルは何ともなさげに答え、縮こまる妻の所へ歩み寄ってそっと、その肩を抱いた。


「クラート公子の発案だ。今夜の騒動が屋敷荒らしのみでないだろうとは、公子も感付いていた。そこでエヴァンス殿下方と相談なさった結果、夜が明けるまで二人を入れ替えることになった」

「じゃあ、さっきセレナが呼ばれたのは……」


 ため息のようなレティシアの言葉に、ティエラが微かに頷いた。


「さっきの強盗の件で上に上がってきた女性は、あなたとセレナさんだけ。あなたよりもセレナさんの方が私の背格好に近かったから、急遽身代わりをお願いしたの。言うなれば囮になるってことだけれど……セレナさんは承諾してくれたの。彼女なら大丈夫よ。しっかり防護膜を張っているし騎士も控えさせているから、無事よ」


 諭すように言われるが、それでもレティシアは釈然としなかった。


 確かに、上の方ではバタバタと足音がしており騒がしい。その分、今レティシアたちがいる三階は至って静かで落ち着いていた。

 その静寂さが、妙に引っかかっていた。


「そういえば……レアンは連れてきたの?」


 ふいにティエラに尋ねられ、セイルは一瞬不可解そうな顔をし、すぐにはっと表情を険しくした。


「ここにいないのか?」

「え、ええ……私はエヴァンス殿下に、後であなたと一緒に降りてくるって聞いていたから」

「それはこっちの台詞だ。俺はおまえが既にレアンを連れて行ったとばかり……」


 部屋に緊張と不安が沸き上がる。

 レティシアは青ざめる夫婦を振り返り見、ドアに向かった。


「レティシア?」

「行ってきます」

「おい、おまえ……」

「セイル殿、ティエラ様をお願いします。必ず、レアン様を連れて帰ります!」


 言うなり、レティシアはセイルたちの返事を聞くことなく部屋を飛び出した。


 廊下に出ると、レティシアはドアを背に一呼吸し、静かに気を集中させた。

 ここから先、何が起こるか分からない。急襲に耐えられるよう、自分自身に防護膜を掛けておきたかった。


「……また何か騒動ですの? 騒がしい夜ですわ」


 向かいの部屋のドアが開き、ナイトキャップを被ったお嬢魔道士が顔を覗かせた。


「あら……平民、あなたなぜこんな時間に魔法を……」

「ちょうどいいわ。あんた、すぐに他の魔道士を叩き起こして!」


 まんべんなく体に防護壁を掛けるレティシア。

 そんなレティシアにぞんざいな言葉遣いをされた魔道士の頬に、さっと朱が散る。


「おまえ、わたくしに対して何ですの、その言葉遣いいぃぃぃぃぃぃ!」


 お嬢魔道士の言葉は途中から、悲鳴にすり替わった。


 足音荒く廊下を駆けてくる、黒ずくめの集団。ランプの明かりを受けて、きらりと刃物が不気味に輝く。


「すぐに防護壁を張って! 今すぐ!」


 半ば叫ぶようにレティシアは言い、くるりと踵を返して階段へと駆けた。


 お嬢には悪いが、今彼女らに逐一説明したり構ってやったりする時間はない。ティエラはセイルが守ってくれるしセレナには騎士たちが付いているだろうが、問題は行方不明になっているレアンだ。


 廊下の角を曲がると階段がある。

 だがレティシアが階段の踊り場に出ると、二階から階段を駆け上がってくる男たちと鉢合わせになってしまった。


 侵入者は寝間着姿のレティシアを見て一瞬、驚いたように立ち止まったがすぐ体勢を立て直し、腰に下げたダガーを抜いてきた。


 男の一人がレティシアに向かって突進してくる。だがレティシアはそれよりも早く、気合いの声と共に右手の平から渾身の衝撃波を放った。


 炎や氷と違い、衝撃波は目には見えない。だから発動するのも難しいのだが、成功すれば相手が衝撃波をかわすことは不可能に近い。いつぞやの授業で教師から聞いたことが耳に蘇る。


 レティシアが正確に放った目に見えない圧力は過たず侵入者の胸に命中し、男の体が吹っ飛んだ。

 そのまま鈍い音を立てて階段を転げ落ちていくのを尻目に、レティシアはワンピースの裾を翻して階段へと向かう。


「この小娘め……!」


 背後から唸り声と共に、風を切って何かが飛んでくる。


 だがレティシアが振り返るより早く、レティシアの背中を狙った投擲ダガーは防護壁に弾かれ、刃こぼれして階段に落下した。

 男が呆然とする隙を逃さず、レティシアは振り返り様に先ほどと同じ衝撃波を放った。


 波動を顎に受けた男の体がぐらつき、よろよろ後ずさると廊下の隅に据えられていた四角いテーブルに後頭部を打ち付けた。


 ごん、と響くいい音。


 レティシアはふん、と一つ鼻息を立てると上階へと駆け上がった。ここで足止めを食らっている暇はなかった。


 五階から六階へ続く階段を駆け上がっていると、突如目の前に現れた人影にぶつかりそうになり、レティシアは小さく悲鳴を上げて蹈鞴を踏んだ。


「むっ……!」

「レティシア嬢?」


 たくましい腕がすっと伸び、階段から転げ落ちそうになったレティシアの腰を支えてくれた。先ほどのセイルの時と同じように、物干し竿にぶら下がる布団のようになってしまったが、後頭部を強打せずには済んだ。

 顔を上げれば、何度か挨拶を交わしたこともある中年の男性騎士が。


「あなたは確か、ティエラさんの護衛騎士……」

「レティシア嬢、なぜここに? あなたの役目は自室での待機のはずでは」


 咎めるような低い声に、思わずレティシアの威勢が削げる。だがなけなしの勇気を奮い立て、レティシアは手すりに掴まりながら体勢を直して真正面から騎士に向き直った。


「分かってます、でもレアン様が……」


 ――レティシアの頭上に濃い影が落ちる。

 だがレティシアが反応するよりも、影が行動に移るよりも、騎士の方が速かった。


 レティシアに対峙していた騎士は表情を一切変えることなく、光速のごとく腰に下げた剣を鞘から抜き、銀の流線を引きながらそれを、まっすぐ振るった。


 レティシアを背後から仕留めようとしていた侵入者は、騎士の一撃の前に倒れた。悲鳴を上げることもなく背後で不審者が倒れたのを察し、レティシアはその場に凍り付いたように動けなくなってしまった。


(今、この人――)


 背後を見ることすら、恐ろしい。流れるような動作で血濡れの剣を鞘に収める騎士からは、一切の動揺が感じられない。レティシアとの会話中、ごく自然な動作で彼は、人を斬ったのだ。

 騎士はレティシアの動揺を見抜いたのか、静かにレティシアの背後に回って背中を軽く押した。


「……先に行かれよ。ここは私が、あなたの道を守ろう」


 ややぶっきらぼうとも言える、短い言葉。


 だが彼はレティシアのために剣を振るってくれた。

 レティシアのために、血路を開いてくれた。

 レティシアが背後を見なくて済むよう、盾になってくれた。


 レティシアはしばし、体の震えを静めるために手すりに寄り掛かり、大きく息を吸って、吐き、ぐっと唇を噛みしめた。


(振り向いちゃいけない……すべきことを、しないと……!)


「……ありがとう、ございます」


 微かな血の臭いが鼻孔に届いてきた。レティシアはそのゾッとするような、馴染みの薄い匂いから逃れるように、頭を振るって一歩、足を踏み出した。


(ティエラ様に誓ったんだ……必ず、レアン様を見つけるんだ……!)


 背後で、大勢の人間の無遠慮な足音が近付いてくる。背後の騎士が再び、剣を抜く音がする。


 行かなくては。


 レティシアはまっすぐ、人気のない廊下を駆けていった。

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