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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第3部 紅狼の騎士団
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逃れられない運命 3

 居間は広々としており照明きらびやかだったが、一つ奥の部屋の中は暗く、廊下とさほど光度に違いはなかった。ランプの明かりも頼りなく、家具の位置はかろうじて分かるが、うっかりすると足元に躓いてしまいそうな暗闇だ。


 レティシアとセレナは恐る恐る、手に手を取って部屋の中に足を踏み入れ、窓辺に佇む人影に歩み寄った。








『ティエラ王女殿下が、ずっとふさぎ込まれているのだ。夫君や王子殿下がお声を掛けてもよい返事をいただけず……。同じ女性である君たちならば、ひょっとしたらお心の内を明かしてくださるかもしれない』


 エヴァンス王子の頼みとは、言ってしまえば王女の相談相手になれというもの。


(無理! って言いたいけど、殿下の手前だし……)


 ちらとセレナを横目で見ると、セレナは心底申し訳なさそうに眉を垂らして肩をすくめてきた。そもそもセレナが「何かご用があれば」と言ったのが軽率だったのかもしれないが、今更悔いても仕方がない。

 それに、「ご用があれば」は目上の者と接するときの常套句だ。舌を噛んでろくに喋れなかったレティシアがセレナを責める権利はない。


 窓辺にいた人影のうち、背の高い方がゆっくりと振り返る。ランプの明かりを受けて、白銀の髪が静かに照り輝いた。


「……夕食か」

「はい。ティエラ様のお加減はいかがですか」


 低い声に応えたのはセレナ。レティシアもセレナの隣で慎ましく膝を折っていると、ティエラの夫はゆっくりと瞬き、ふっと顔を反らせた。


 夫の側でイスに腰掛けているティエラ王女は、レティシアたちから顔を背けるようにして放心したようにカーテンの引かれた窓の外を眺めていた。その膝の上には眩しい銀髪の少年が座っており、大きな目で不安そうに母の顔を見上げている。


 王女の手はゆるゆると息子の頭を撫でているが、あくまで機械的に手を前後に動かしているのみ。それが分かっているのか、少年はぐっと唇を噛んで母の膝にしがみついていた。不安定な母を精一杯気遣う幼い王子の姿に、レティシアの目頭が熱くなる。


 レティシアはセレナと顔を見合わせた。そして、同時に頷いてレティシアは青年に頭を下げる。


「ティエラ様にはわたくしがお付きしますので、どうか先に召し上がってください。えっと……」

「……セイル。呼び捨てでいい。レアン、行こう」


 ティエラの夫――セイルはぶっきらぼうに言って立ち上がると、母の膝に縋る息子に声を掛けたが、少年はイヤイヤしてティエラ王女のローブにさらに強くしがみついた。

 セイルが銀色の眉をぎゅっと寄せた時。


「……レアン様、さあ参りましょう」


 すっと前に出て、セレナがティエラの膝から少年レアンを抱え上げると、あやすようにその背を撫でた。

 レアンはいきなり知らない女性に抱えられてぎょっとし、短い足をばたばたとさせた。


「で、でも! 母さんが、まだ……」

「母さんはもうちょっとゆっくりしたいんだ。父さんも一緒に行くから、先に飯を食べよう。その方が、母さんも安心する」


 先ほどの愛想のない言葉から一転、息子に声を掛けるセイルの様子も表情も、まさに「父親」だった。


(そうだ……王女の夫と息子といっても、普通の親子と何ら違いはないんだ……)


 父親に諭されてようやく大人しくなったレアンを抱いてセレナが部屋を出、その後をセイルが追う。セイルは部屋を出る前に一度、レティシアを振り返り見た。

 凍てつくブルーの目が一瞬だけ、レティシアを捕らえる。アーモンド型の目が何か言いたげに瞬き――すぐに顔を逸らせ、セイルは続きの部屋へ行ってしまった。


 ぱたん、とドアが閉まると、後に残されたのは棒のように部屋の中央に突っ立つレティシアと、相変わらず窓辺で放心するティエラ王女のみになった。


(……さて、どう切り出そうか)


 レティシアが考えあぐねているうちに、相手の方が事を動かしてきた。

 それまでずっと無反応だったティエラがゆっくりと、壊れかけのぜんまいおもちゃのようにぎこちなく振り返り、虚ろな漆黒の目でレティシアを見据えてきた。

 夜の闇に溶けてしまいそうな潤んだ黒曜石の瞳は、今にも泣きだしそうに黒々と濡れている。


「……あなたは?」


 掠れた声。まるで、直前まで声を枯らして泣き明かしていたかのような、ひび割れた声。

 レティシアは腹部に手を重ねる、使用人風のお辞儀をした。


「レティシア・ルフトと申します。オルドラント公国ルフト村出身です」


 精一杯、震えを抑えた声で応える。ティエラは、その言葉に反応したようだ。

 ぽっかりと空いた洞穴のような目にわずかな光が灯り、気だるげだった横顔に少しだけ生気が戻ってきたように思われる。


「ルフト村……? ……そっか、だから貴族の人たちは……」


 最後の方は掠れて消え入ってしまったが、ティエラの言いたいことは何となく分かった。

 ティエラも、あれこれ雑用を押しつけられて苦労するレティシアたちの姿を見て疑問に思っていたのだろう。

 ティエラは静かに顔を窓辺に向け、隣に座るよう手の仕草でレティシアを促した。


(これは……ひょっとして、好感触?)


 ドキドキ鳴る胸に手を当て、レティシアは一礼するとティエラの脇に置いているスツールに腰掛けた。

 ぼんやりした眼差しで窓を見つめるティエラと、その隣で彼女と全く同じ方向を見るレティシア。傍目から見たら滑稽極まりない配置だろうが、なんとなく、ティエラ王女の方を見るのが憚られ、レティシアは膝に拳を固めて俯くしかできなかった。


「……空が見えないわ」


 ほぼ独り言のようなティエラの声に、レティシアは顔を上げた。


 ティエラの警護のため、窓には分厚いカーテンが引かれている。レティシアはすぐに立ち上がってカーテンを引いたが、窓には頑丈な鉄格子が外側から填められていた。独房とは違うので鉄格子自体も華奢な作りはしているが、格子の隙間から見える夜空はわずかなもの。当然、輝く星々のほとんども隠されてしまっていた。どうやら、王女の言った「空が見えない」は、カーテンを開けてほしいということではなかったようだ。


「悲しいことがあると、小さい頃からこうやって、窓から空を眺めていたの」


 レティシアがカーテンを元のように戻していると、ティエラはレティシアに構うことなく歌うように言葉を紡いだ。


「天気の良い日はベランダに出て、空気を胸一杯吸って……そうすると、嫌なことや不安なことがすうっと、夜空に消えていくような気になったの。明日も頑張ろうって、思えたの」


 でも、とティエラは声のトーンを落として、悲哀に満ちた眼差しでレティシアを見つめてきた。


「今、私がいるのはアルストルの町じゃないのね。そして明日になれば、明後日になればどんどん、アルスタットから離れていってしまうのね……」


 弱気なティエラの告白を、レティシアは黙って聞いていた。


 きっとこれが、ティエラがふさぎ込んでいる原因の一端なのだろう。

 いきなり超大国の跡継ぎに選ばれ、住み慣れた町から連れ出される。その不安と、理不尽な世間に対する憤り。なぜ自分が、という嘆き。


(私も……去年、同じ思いをしたんだ)


 だからこそレティシアには、ティエラの悲愴が他人事とは思えなかった。

 今のしょげきったティエラを見ていると、いつぞやの鏡に映った、不安に満ちた顔の自分が重なって見えるような気がした。


「物心付いた頃には、もう側に両親はいなかった。代わりにアレクス――父さんの騎士だった人たちが側にいて、いつも見守ってくれていた。私はアルストルのギルドにお世話になっていて、お手伝いして暮らしていた。それ以前のことは全く記憶になかったの。なぜ両親がいないのか、なぜアルストルにいるのか、なぜ――アレクスたちが私を守ってくれるのか、全く……」


 ティエラは最初よりもずっと饒舌になっている。

 レティシアは唇を湿し、ゆっくりと先を促した。


「それで、今は……?」

「ええ……あの日……いきなり目の前に剣が現れてから……剣を手に取ると、ぶわっとたくさんの記憶が戻ってきたの。アルストルとは違う、アルスタット地方の田舎村で両親と一緒に暮らしていたこと。アレクスたちに手を引かれて村を出たこと。アレクスが……父さんのことを、エンドリック殿下と呼んでいたこと」


 ティエラの口からさらりと極秘事項が明かされ、レティシアの心臓が一つ、大きく脈打った。そしてきょろきょろと辺りを見回してから、ティエラ王女の横顔に見入る。


(やっぱり、その「剣」っていうのが王位継承の鍵になっているんだ)


 今はどうやら周囲にはなさそうだが、彼女の言い方からすれば、ある日急に目の前に「剣」が現れたということだ。おそらくその「剣」は魔具の一種であり、ティエラが王位を継ぐべき時になって姿を現したということなのだろう。


 ティエラは無言のレティシアから視線を反らし、椅子の背もたれにしなだれかかるように身を埋めた。


「私を王女に産んだ両親のことを恨んでいるわけじゃないわ。だって、両親は私を王位継承の問題から遠ざけようとしてくれたもの。でも、自覚も決心もないまま、こうやって知らないところへ連れていかれて、いずれはリデルの王にならないといけないなんて……。傭兵の夫を王城に縛り付けて、四つになったばかりの息子を王族として生きさせなければならないなんて……」


 レティシアはぐっと唇を噛みしめた。


 レティシアもかつて、同じ目に遭った。なぜ自分なのかと出生を恨んだこともあった。

 だが、レティシアはまだよかった。ロザリンドも生みの母もユーディンも、自分に選択肢を与えてくれた。大司教になる以外にも道はある。思うように生きろ、と言ってくれた。


 だが、ティエラは――


「どうして、私なの……? 私はずっと、あの町でセイルとレアンと一緒に暮らしたかった……! お金もたくさんはないけど、平和でもないけど、あの町が好きだった……おおらかで気さくなギルドの仲間たちが、好きだった……!」


 絞り出すような、悲愴な声。

 服の胸元が皺になるくらいきつく掴んで、胸に秘めていた慟哭を吐き出す王女。


(これだったんだ)


 ティエラがずっと心の中で叫び続けていた、声にならない悲鳴。嫌だと声高く訴えたかった。家に帰してくれと反抗したかった。

 だが、誰にも言えなかった。仕事として自分を護送しに来た貴族にも、同じ運命を背負わせてしまった家族にも。


(ティエラ様に、私ができることは……)


 レティシアはゆっくり顔を上げ、ぐったりと背もたれによかるティエラに声を掛けた。


「ティエラ様」


 返事はない。レティシアは構わず、続けた。


「ティエラ様……私の本当の名は、レティシア・バル・エリア。聖都クインエリア大司教の娘です」

「え……?」


 ティエラの青白い唇から、ため息のような言葉がこぼれ落ちる。

 レティシアは顔を上げたティエラの黒い目としっかり視線を合わせ、一言一言ゆっくりと言葉を紡いだ。


「私は去年、十五歳の秋まで故郷の村に住んでいました。ところが家の事情で、クインエリア次期大司教候補として生きなくてはならないと宣言されたのです。そのため住み慣れた故郷を離れ、知り合いが誰もいないセフィア城に連れていかれ、何の知識も自覚もないまま、魔道士としての訓練を受けたのです」

「……大司教の、娘?」

「はい。これは友人や仲間、関係者のごく一部にしか明かされていないことですが……」


 そこでレティシアは一旦口を切り、静かに頭を下げた。


「すみません、だらだら自分のことを語ってしまい……。こんなことを明かしたからといって、ティエラ様の慰めになるはずもないのですけど。私は大司教の娘ですが、跡を継がなければならないわけじゃないんです。他の生き方をしてもよいと、生みの母も言ってくれていて……」


 しばしの沈黙が、部屋を満たした。続きの部屋からは、セイルたちが夕食を取っているのだろう、ナイフとフォークの音、レアンの声がわずかに漏れ聞こえていた。


 徐に、ふうっとティエラ王女の唇からため息が漏れた。


「……私はもう二十歳を超えている。夫も、息子もいる。家庭がある」


 ティエラは一言一言噛みしめるように、ゆっくり言った。


「あなたは十五歳で重大な決心をしたというのに、いい年した私はずっと駄々をこねてばかりだったのね。こうやって一人で引きこもってふさぎ込んで、皆を心配させて……」

「ティエラ様……」

「きっと私の手には、生まれた時から見えない鎖があったのね」


 言い、ティエラは膝の上に力なく垂れていた両手をランプに翳すように目の高さまで持ち上げた。ぼんやりとした輪郭しか見えないが、その手の大きさや指の太さは、貴族の女性のそれではなく、レティシアと同じ、農業や家事で鍛えられた者の手であることを示していた。


「リデル王族という、逃れられない鎖が……。でも、あなたのように真っ直ぐ前を見て、運命を受け入れたならば……鎖を引きずるんじゃなくて持って歩こうと決心すれば、ずっと前向きになれるのね」


 そう、笑った。

 決して華やかな笑みではない。従弟のエヴァンス王子のようなキラキラ王族オーラも持たない、清楚な微笑み。


 だがレティシアには、この落ち着いた笑顔こそがティエラ王女に相応しいと、心から思えた。


「ありがとう、レティシア。私の話を聞いてくれて……私に喝を入れてくれて」

「へ、あ、いや、そういうわけじゃ……」

「気にしないで、本当に感謝しているのよ」


 ティエラが立ったため、レティシアも一拍遅れてスツールから立ち上がった。並んで立つと、思ったよりもティエラは背が高かった。ミランダほどではないが、レティシアからは少しのどを反らさなければならない位置に、黒々とした両目があった。


「すっきりしたら、お腹が空いてきちゃった……今日の夕食は何かしら」

「はい。羊肉のステーキや鴨肉の前菜などを取りそろえてます。食後には、ハーブやフルーツを練り込んだゼリーがあります」

「いいわね。私の作る料理とどっちがおいしいかしら」


 そう言い、ドアへと向かうティエラの足取りは軽く、纏うオーラは優しい。


 レティシアはほっと胸をなで下ろしつつ、ティエラについてセイルたちが待つ居間へと向かっていった。

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