アルスタットへ 8
驚きさざめく群集が、自然と道を作るように避けていく。
その間を歩いてくるのは、若い女性。ボブカットにして風に揺れる髪は黒に近い茶色。黒曜石のように輝く黒い目は憂いを帯びており、濡れたような眼差しでその場の者を見渡していた。
彼女の半歩後ろを付いてくるのは、太陽光を浴びて燦然と輝く銀髪の青年。女性と違って無表情に近いが、思わず凝視してしまいそうなほど凛として、整った顔立ちをしている。彼は腕に、五歳程度とおぼしき幼い少年を抱いている。今にも泣きそうな表情の少年もまた、滅多に見られない銀髪を持っていることから青年の子どもであることが察せられる。
女性と青年の背後に控えるのは、傭兵たちのように武装した男たち。だが彼らが纏う鎧は傭兵のように質素で粗末なものではなく、セフィア城でも見られるプレートメイルだった。傭兵より騎士、の方が合っているだろう。
「みなさん、やめてください。私はここにいます」
「お嬢ちゃん!」
とたんに悲痛な声を上げる傭兵たち。
女性は自分より一回りも二回りも巨大な男たちをなだめ、護送隊一行の先頭に立つ指導者三人の前に立った。
「……お初お目に掛かります。ティエラ・イージスです」
女性の声ははきはきとしているが、言葉には隠しようのない震えが込められていた。腹の前で組まれた手も小刻みに震えている。
真っ先にその場に膝を折ったのはエヴァンス王子。他の者も王子に倣って女性の前に膝を折ったため、一拍遅れてレティシアもその場にしゃがんだ。
エヴァンス王子が女性の手を取り、右手の甲に唇を寄せた。
「お会いできて光栄です、殿下。わたくしはエヴァンス・フォン・リディアと申します」
「オルドラント公国の公子クラート・オードと申します。若輩者ですがよろしくお願いいたします、ティエラ様」
「お目もじ適って光栄です、ティエラ・フィオネ・リディア殿下。今回お迎えに参りましたゲアリー・ベルツです」
最後に挨拶したゲアリーは、意図的に女性の姓を「王女」のものに変えていた。
それを聞いた女性の口元が微かに引きつるが、すぐに張り付けたような硬い笑顔を浮かべた。
「どうか立ってください。……先ほどは仲間が失礼しました。どうか彼らを許してください」
「殿下のご命令とあらば」
ゲアリーが教科書通りの返答をし、他の貴族たちも渋々ながら頷き、ゆっくり立ち上がった。
(本当に、この人がリデルの王女様なんだ)
レティシアはセレナに促されて立ちながら、魂が抜けたかのように「王女」を凝視した。
レティシアが聞いてきたどの「王女」とも合致しない、至って普通で庶民的な女性。化粧をせずとも美しさがにじみ出る清楚な女性だが、世界中の女性の中に入れればすぐに埋もれてしまうだろう。きっと、先ほどの傭兵が口にした「例の剣」がなかったならば彼女が王女だと、誰も気付かなかったことだろう。
エヴァンス王子はゆったりと頷き、そして女性の背後にいた三人の騎士風の男たちに視線を移した。
「君たちは……」
「ご無沙汰しておりました、エヴァンス殿下」
三人組のうち、真ん中にいた男性が言い、一礼した。見る限り、三人の中では一番年かさで発言権がありそうな風貌だ。
「殿下、我々は亡きエンドリック殿下のご遺志に添い、今日この日まで王女殿下をお守りして参りました。時が来るまで王女殿下の身分を隠匿すること……これもまた、エンドリック殿下のご命令でした。永きに渡って騎士の座を放棄していたこと、ここにお詫び申し上げます」
「君たちのことは国王陛下からも伺っている。伯父上の優秀な部下であり、ティエラ様をお守りしてくれたことも」
エヴァンス王子は詫びる男たちの肩を鞘入りの剣で叩き、静かに言った。
「長年の勲功に感謝する。願わくば、今後も殿下をお守りしてほしい」
「有難き幸せです、殿下」
エヴァンス王子たちのやりとりを目にして、レティシアは確信した。
この三人はやはり騎士であり、しかもエンドリック王子が城にいた頃から頼りにしていた、優秀な護衛だった。王子が城を出たときも彼に従属し、王子の死後は娘の王女の側に控えていた。
きっと、彼女が王女であることも全て伏せ、アバディーンに呼ばれるまでずっと、秘密を守っていたのだ。
その後。
エヴァンス王子とティエラ王女の取りなしでアルストルの町人たちは家に戻らされ、傭兵たちもギルドに帰るよう命令が下った。
「だがお嬢ちゃん、俺たちはやっぱり納得できねぇよ」
傭兵のリーダー格が大きな体を丸めて女性に訴える。つい数分前までは怒り狂う猛者だった彼らが、今は大人しい大型犬のように女性に縋っていた。
「アバディーンだぜ? いったいどんな目に遭わされるか……」
「おまえたち」
女性に代わって傭兵たちに声を掛けたのは、それまでずっと黙っていた銀髪の青年。その声は繊細な見た目に反して低く、ゆったりと流れる河川のように響いていた。
「ティエラのために怒ってくれたことには感謝するが……もうギルドに戻れ。おまえたちには、おまえたちの仕事があるだろう」
「旦那……」
ぽつりと呟く傭兵たち。だが青年のブルーの目に見つめられ、彼らはぐっと言葉を飲み込んで立ちあがり、背中を丸めて広場を去っていった。
そんな彼らのやりとりを、レティシアは少し離れたところから眺めていた。ゲアリーが言うには、帰りの道ではレティシアやセレナは馬車を追い出され、四番目の馬車はお嬢専用になるらしい。そのためレティシアたちは馬に乗ることになるので、人数分の馬や馬具の準備をさせられていたのだ。
乗馬用の馬の準備は、ディレン隊に入って間もなく全てレイドから叩き込まれていた。それでもレティシアの背では届かないこともあるので、レイドやオリオンにも手伝ってもらいながら馬具を付けつつ、横目で王女たちの方を観察していた。
「……ねえ、レティシア。あの男性って、やっぱりティエラ様の旦那さんなのよね」
ふいに隣にいたセレナに声を掛けられ、レティシアはそちらを見た。セレナは貴族が乗る用の馬にブラシを掛けつつ、ちらと王女たちを一瞥した。
「ほら、ベルツ子爵もあの男性たちも一緒に行くっておっしゃってたじゃない」
「……そういえば」
セレナに指摘され、レティシアは先ほどのゲアリーの指示を思い返した。
アバディーンへ向かう帰路では、先頭の馬車にはティエラ王女と伯爵令嬢のミランダが乗る。エヴァンス王子は二番目の馬車に移り、指揮官三人が同じ馬車に乗ることになる。三番目には行きと同じく貴族たちが乗るが、馬車外の警護を増加するべく、乗る人員が厳選されるらしい。
そして三番目の馬車には、王女の夫とその息子も同乗するのだという。
「でも、王女様が結婚しているなんて聞いてなかったな」
「わたしも」
背後から同意の声が上がる。見れば、アンドロメダに向かってリンゴを投げるノルテが。
ノルテがこちらの会話に加わると、リンゴは次々にあさっての方向に飛んでいく。それでもアンドロメダは巨体にかかわらず俊敏な動作で立ちあがり、首を伸ばし、時にはジャンプし、主人がくれる餌をキャッチしていた。
「てっきり王女はフリーかと思ってたわ。てか、ベルツ子爵も言ってなかったから、ひょっとしたら子爵やエヴァンス殿下も今日来てから知ったのかもねぇ」
「……ってことは、あの男の子は王子様になるんだね」
レティシアのつぶやきに、セレナが顔を伏せる。ノルテも難しい顔で俯き、袋の中に入っていた最後のリンゴを高く放り投げた。
三人はしばらく、アンドロメダが口いっぱいにリンゴをほおばり、長く裂けた口の端から果汁を滴らせながら咀嚼しているのを無言で眺めた後、一斉にふうっとため息をついた。
「こう言うのも何だけど……お気の毒よね、ティエラ様」
「うん……いきなり大国の王女様扱いされるし故郷から連れ出されるし、普通なら発狂してもおかしくないよ。てか、わたしならそうするし」
「そう考えると、家族と一緒に王城に上がれるってのは不幸中の幸いなのかな」
何気なく言ったレティシアだが、ノルテは硬い表情で首を横に振った。
「そうとは限らないんじゃないかな。そりゃあ、ティエラ様からすりゃあ旦那や息子と一緒にいられるのは心強いだろうけど……ティエラ様の旦那は、一般市民なんだよ」
「え……」
「さっきクラート様が教えてくれたんだ。護衛の騎士が言うには、ティエラ王女は幼少期から育ったこの町で旦那と知り合ったんだって。王女は子どもの頃からギルドに匿われていて、傭兵のおっさんからもそりゃあ可愛がられたんだとさ。で、旦那ともギルド繋がりで出会ったんだ。どうやら相当手練の傭兵だったみたいよ」
「王女の夫が傭兵……」
うーん、とレティシアとセレナは唸った。
「こりゃあ、確かに嵐を呼びそうね」
「でもまさか、王城に着いたら引き離される、ってことはないわよね」
「そうだったら最初から城に連れてかないと思うけど」
つまり、夫の腕に抱かれた息子は王女の一人息子ではあるが、父親は一般市民、しかも貴族たちが毛嫌いする傭兵出身。
住み慣れた町を出て、気の置けない仲間である傭兵たちとも別れる。加えて、傭兵と結婚したためアバディーンで逆風なしに生活できるとは思えない。
レティシアは馬具を付けつつ、もう一度ティエラ王女を見つめた。
じっと前を見つめる王女の姿は凛としているが、隠しようのない悲哀と絶望が溢れているように思えるのは、決してレティシアの見間違いではないはずだ。




