アルスタットへ 5
夜の静かな裏庭。同じベンチに座る男女。
だが残念ながら甘やかな雰囲気は微塵もなく、レイドは弓弦を弾いているし、レティシアは手持ち無沙汰にそわそわするしかできなかった。
木立の奥では、フクロウが鳴くのが聞こえる。姿は見えないが、複数いるらしい。あちこちの方角から、ホウ、ホウ、と少しずつ調子の違う鳴き声が響いていた。
「……夕食の時のことだが」
徐にレイドが切り出したため、レティシアは体を揺らすのを止めて隣のレイドに視線を注いだ。
「貴族共が俺を見て言っていたな。蛮族だと」
「……うん」
「奴らの言っていることは、あながち大嘘ではない」
レティシアはレイドの発言を、意外な気持ちで聞いていた。
(嘘じゃない? じゃあ、レイドは……)
「……おまえはオルドラント公国の中でも北方の村育ちだから、『草原の牙』というものをおそらく知らないだろう」
「……ええ、なんとなく名前は聞いたことはあったけど」
草原の牙。オルドラント公国南方の草原地帯に暮らす、いわゆる原住民族だ。
今でこそ南部草原地帯はオルドラント公国の一部に属しているが、草原の民が公国に併合されたのはごく最近のことらしい。それまでの公国と草原地帯は、隣接しあいながらも深く関わり合うことはなかったそうだ。
レイドはレティシアの返事に軽く頷き、もう一度、弦を鳴らした。
「……弓とは、元を辿れば草原の牙で発祥したものだった。長い歴史の中で、草原地帯と隣り合うオルドラント公国でも弓術が取り入れられ、伝統武術として栄えるようになった。特に、大公家は代々弓を学ぶのが習わしとなっている」
「だから、クラート様は剣よりも弓の方が得意なのですね」
昨年の秋、クラートがレティシアに言ったことを思い出した。彼は、オルドラントにいた頃は剣以外の武術を習っていたため、剣はあまり得意ではないと語っていたのだ。
「でも私、レイドが弓を持っているのは初めて見たけど」
「それは……これが原因だ」
レイドは、レティシアの方に顔を向けた。
いつも通り、今ひとつ感情の読めない怜悧な顔。美しさの中に悲哀も混じっている、研ぎ澄まされた刃のような顔立ち。
レティシアがまじまじと見つめる中、レイドは自分の顔の右全体を覆う前髪に手を掛けた。そしてゆっくり、長い髪を掻き上げる。
(……っ!)
ともすれば口から溢れそうになる悲鳴を、レティシアは両手で口を塞ぐことで押し殺した。
なぜ、レイドがあんな鬱陶しい髪型をしているのか。
なぜ、顔の右半分を隠しているのか。
「レイド、その顔……」
「酷いものだろう」
そう言って、レイドは笑った。だが、笑うことができたのは左目のみだった。
レイドの右目があるべき部分は、無惨な傷が長い爪痕を残していた。鉤爪で引っかかれたような、抉られたような、惨い跡。
暗がりの中でははっきりとは見えないが、頬骨の上辺りの皮膚が爛れ、潰されていた。かろうじて瞼のラインや眼球の窪みが見て取れるが、目が見える見えないの程度ではなかった。
殴られたのとも、斬られたのとも違う、その傷は――
「魔法で……やられたの?」
ようやっと振り絞った声は、情けなく震えていた。
レイドはゆっくり頷き、さっと前髪を戻して遠い眼差しになった。
「ガキの頃にな。そのせいで俺は、弓を諦めざるを得なくなった。片目では正確に狙いを定めることができない。今回のように、動かないものが的ならば何とかなるが、的が動いたり特殊な構造をしていれば狙いにくくなる――片目ではどうしても、物の立体感が読み取りにくくなるんだ」
一呼吸置き、レイドは再び弓を手に取った。
そして弓弦を弾く音を背景音楽に、ぽつぽつと言葉を紡ぎだした。
レイドが幼い頃は、オルドラント公国と草原の牙は冷戦状態だった。
数代前の大公は草原に侵攻したこともあり、新しくギルバート大公――クラートの父が立っても民たちは警戒を怠らなかったそうだ。その大公が、遊牧民族の身の安全のために草原を公国に併合することを提案しても、民は同意するどころか激しく大公を詰り、根限り抵抗した。
大公の言い分はこうだ。
隣接するフォルトゥナ公国は魔道が盛んであり、なおかつ草原の牙一族を快く思っていない。草原の牙がリデル王国との繋がりを持たない今、フォルトゥナ公国や魔道の名家が草原に侵攻してくるかもしれない。だが草原がオルドラント公国に併合されれば、隣国もおいそれと手出しはできなくなる。こちらも最大限皆のために尽力するから、最善策を採ってくれ、と。
「――俺の親父は、草原の牙一族の指導者だった。親父はギルバート様の提案を突っぱね、最後まで条件に首を縦に振らなかった」
それは、きっと草原の牙としての誇りゆえだろう。
太古の時代から遊牧民族として暮らし、馬上で弓を引く戦士として培ってきた誇りと、自尊心。
永きに渡って積み上げられてきた草原の民の歴史を背負う者として、大公の手に縋りたくはなかったのだろう。
だが、レイドが五つの時。ギルバート大公が恐れていたことが起こった。隣国フォルトゥナ公国が魔道軍隊を率いて突如、草原地帯に侵攻してきたのだ。
突然の急襲にも、草原の戦士たちは背を向けたりはしなかった。草原を守るため、弓と剣を持ち、迫り来る魔道士たちに立ち向かったのだ。
だが、魔道の知識の薄い草原の民と変幻自在の能力を持つ魔道士軍。
結果は火を見るより明らかだった。
草原の牙の戦士が弓を番えるよりも早く、魔道士たちは風刃で戦士たちを切り裂いた。衝撃波で女子どもを吹き飛ばし、灼熱の火炎で豊かな草原を焼き払った。決死の覚悟で放った矢も、強力な防護壁の前にあっさりと砕け散ってしまった。
フォルトゥナ大公率いる魔道士はせいぜい数十人。対する草原の牙は数百単位。
それでも、一日のうちに魔道士軍は草原の民を追いつめ、ついにレイドたちのいる本陣まで襲いかかってきた。
「魔道士たちは五歳のガキだった俺にも容赦しなかった。俺は母を守ろうと、覚えたての弓を持って飛び出したが……結果はこの様だ」
言い、レイドは前髪の上からそっと、右目に触れた。
「強力な魔法だった。一瞬で俺の右目は失われ、俺の後ろにいた母は風の魔法で切り裂かれた。……今でも忘れられない。俺を踏みにじりながら、笑いながら……何度も何度も母を切り刻んでいた奴らの顔が。血飛沫を上げて、バラバラに切り裂かれていく母が……」
テントが焼かれ、民は殺され、もはや草原の牙の歴史も終わりかと思われたその時、思いがけない者たちがやって来た。
馬を駆って夜明けの草原に現れた一群に、当然フォルトゥナ魔道士は魔法を放った。だが、強力な防護壁を纏った彼らの体にかすり傷一つ付けることもできず、逆に追いつめられる形になってしまった。
フォルトゥナ公国軍はすぐさま撤退し、焼け野原には瀕死状態の草原の牙と、謎の援軍のみが取り残された。
突如現れた援軍。それは、オルドラント大公ギルバートとリデル王国の魔道士たちだった。草原の危機を知った大公はすぐさまリデル王国に応援要請し、草原の牙を守るべく出陣したのだという。
結果、レイドやレイドの父、ごく一部の戦士と民たちは生き長らえることができた。大公が来なければ、一夜で草原の牙一族は死滅していたことだろう。
「そのことから親父も、事の次第を悟った。誇りや体裁ばかりを気にしていたら、いつか破滅してしまう。魔道の力を持たない俺たちは、オルドラント公国の力を借りなければならないのだと……」
ギルバート大公は再び、レイドの父に話を持ちかけてきた。草原をオルドラント公国の下に置き、フォルトゥナ公国などの脅威から守りたいのだと。
「じゃあ、そうなってからレイドのお父さんは大公様の提案を受けることにしたのね」
レティシアが聞くと、レイドはゆっくりを頭を振った。
「結果としてはそうなんだが……そこでまた、一悶着起きた」
「……民が反対したとか?」
「民は親父の決定には逆らわない。そこで出てきたのが……またしても、親父の誇りだ」
レイドの父は、ギルバート大公に次のように言った。
公国側の提案を受ける代わりに、一騎打ちをさせろ。大公が自分に勝ったその時は、草原の全てを公国に託すと。
大公もレイドの父も、弓術を心得ていた。弓による一騎打ちを行い、生き残った方が草原の牙の所有権を得る、というものだった。
公国側からすれば、大公が死んでもこちらには何の得にもならない。むしろ厄介な草原の民を受け入れることに、難色を示す者も少なくなかったそうだ。
だが大公はこの提案を受け入れ、後日、国民と草原の牙一族が見守る中、弓による勝負が行われた。その場に、幼いレイドも向かった。
「俺は妄信していた……必ず親父が勝つと。ガキだった俺は、親父が勝っても、俺たちには何の得にもならないことなんて、分かっていなかった。ただ、父親が弓によって誰かに負けることなんてないと、信じていたんだ」
だからこそ、レイドは目の前の光景が信じられなかった。
同時に矢を放った父と大公。父の矢が大公の肩を貫き、そして大公の矢が父の胸を貫通した有様が。
オルドラント国民の歓声の中、レイドは全てを忘れ、父の亡骸に取りすがった。どうすればいいのか分からなかった。何も、信じられなかった。
自分は、父も母も、草原の牙も失ったのだ。
「俺はその後、ギルバート大公に引き取られた。草原の管理は全て、親父の部下に託して俺は公国で暮らすようになった」
最初の頃のレイドは大公を含む全ての人に敵意むき出しで、「仔狼のようだ」と言われていたのだとか。隙あらば大公の寝首を狩ろうとしたし、幼いクラートも徹底的にいじめ倒した。公国の騎士には喧嘩をふっかけては返り討ちにされ、とにかく荒れて荒れて荒れまくった。
「かといって、クラートを殺そうとは思わなかった。むしろ、大公の首を取ってクラートに見せつけてやろうと思っていた。俺と同じ目に遭わせてやる、ってな」
そう語るレイドだが、話す内容に反してその目つきは穏やかだ。きっと、過ぎた日の自分を懐かしく、そして情けなく思っているのだろう。その証拠に、声にはわずかな自嘲の色が込められていた。
「右目は結局、治らなかった。リデルの魔道士も、傷を塞ぐだけで精一杯だったようだ。それでも俺は狂ったように弓を撃ちまくった。いつかこれで大公を討ってやる、その思いだけが俺を生かしていた」
レイドが七つになった頃、ある事件が起きた。大公館に、魔道士の盗賊団が現れたのだ。
盗賊討伐くらい、公国の騎士に任せれば一瞬で片が付く。だが血気盛んなレイドは魔道士と聞いて、大公の手を振りほどいて単騎、盗賊団に立ち向かった。当時のレイドは魔道を毛嫌いしていた。自分の右目を奪い、仲間を殺し、母を惨殺した魔道士を全て憎んでいた。
泣き叫びながら弓を引くレイド。甲高く笑い、レイドに向かって魔法を放つ盗賊。そんな二者の間に躍り出た、ギルバート大公。
レイドの心臓を狙った衝撃波は、大公の右手を砕いた。大公の手から弓がこぼれ落ち、それでも彼はレイドを抱きとめ、盗賊に背を向けてレイドを守った。
レイドはその瞬間、自分の目の前で起きたことが信じられず、呆然と事を見守るしかできなかった。
盗賊団は、騎士たちによってあっけなく討伐された。だが魔道の衝撃波に打ち抜かれた大公の右手は、使い物にならなくなった。弓手を失った彼は、二度と弓を引けなくなったのだ。
大公の見舞いの席に、レイドは殴り込む勢いで突進した。驚くクラートを押しのけ、ベッドに横たわる大公に詰め寄った。
なぜ、レイドを庇ったのだ。なぜ、自分を殺そうとしている子どもを守って、自分の手を犠牲にしたのだ、と。
だが大公は絶叫するレイドを優しく撫で、穏やかな声で言った。
『私は君を、二人目の息子だと思っている。君の父君が亡くなる直前に約束したんだ。何があろうと、あなたの息子を守ると。弓なんて持てなくなってもいい。君が無事でよかった』
その時、ようやくレイドは気付いた。
大公はレイドの殺意や敵意、声にならない絶叫を全て知っていたのだと。それも受け入れた上で、レイドの父と交わした約束を守るべく、レイドを守ってくれた。一生弓を使えない体になってでも、一騎打ちの末に殺めた男の子どもを、守り抜こうとしてくれたのだ。
その日から、レイドは変わった。相変わらず大公館では浮いた存在だったが、大公の言うことに従うようになった。幼いクラートの面倒を見て、騎士に付いて剣の訓練をするようになった。魔道士に対する考えも少しずつ改め、セフィア城に行く頃には魔道士への偏見も収まってきた。全ての魔道士が悪ではないと、気付くようになった。
「オリオンやミランダは俺の素性を全て知った上で、俺に付いてきてくれた。あいつらは俺が年下だからとか、遊牧民族だとか、そういうことでとやかく言わなかった。……セレナも同じだ」
セレナ、と言う時のレイドの顔はひどく優しい。
「あいつも、草原の牙についての知識は皆無だった。だが全てを明かしても、あいつは俺に付いてきてくれた。自分は草原の牙を知らない。知らない相手に対して偏見を持ったり恐れたりすることはない、と言った」
そこでレイドは視線を動かし、じっと話に聞き入るレティシアを見た。
「……おまえは、どうだ? 俺を哀れだとか、醜いだとかって思うか?」
その質問は自虐的だが、声は至って真剣だった。
レティシアはレイドを見つめ返し、その手に握る弓を見、ゆっくり首を横に振った。
「……別に。人それぞれ事情があるものだろうし、レイドがどういう生まれだろうと私には正直興味ないもの」
「……興味ない、か」
「でも、関係ないわけじゃないわ」
レイドの灰色の目が瞬く。
左側しか機能しない彼の目だが、なぜかレティシアには、十年以上前に光を失われた彼の右目もまた、瞬きしたように見えた。
「むしろ、今日このことを話してくれて嬉しかった。なんでレイドはあんなに右だけ前髪が長いのかとか、どういう経緯でクラート様と仲よくなったのかとか……いろんな疑問が解決したもの。それに、どういう生まれだろうと過去があろうと、レイドはレイドでしょ」
冷たくて、素っ気なくて、愛想のないディレン隊の隊長。
それでも部下には優しく、強い騎士様。
「私だって過去にいろいろあったみたいだから、人のことは言えないし。私はこれからもレイドについて行くよ」
レイドはしばし、レティシアの顔を見つめてきた。
灰色の目が微かに細められ、口の端が持ち上がり――
ぐしゃり
「うわっ」
「おまえも言うようになったな」
レイドの大きな手がレティシアの頭をむんずと掴み、わしゃわしゃと髪を撫でてくる。愛撫、というよりは犬を撫でる飼い主の心境なのだろう。頭皮を揉むように撫で繰り回され、顔の皮が引きつる。
「ちょ、レイド……頭蓋骨の形が変わる……」
「それもまた一興じゃないか」
「セレナに言ってやる!」
「……口の減らないお嬢様だな」
そう言いつつもレイドはぱっと手を離し、ベンチから立ち上がって、的代わりに立てていた木べらを引き抜いた。
「……引き留めて悪かった。明日も早い、さっさと寝ろ」
「……レイド、今の発言は隊長っていうかお母さ――」
「その髪を削ぎ落とされたいのか」
「いいえゴメンナサイすぐ上がりますハイ」
きりきりと弓矢を引き絞るレイドにぺこりと頭を下げ、レティシアは軽い身のこなしで立ち上がった。彼の弓の的になるのは御免だ。
「……ありがとな」
小さな声。振り返ると、レイドは何事もなかったかのようにレティシアに背を向け、弓を手にじっと裏庭の中央に佇んでいた。
孤独で、ぶっきらぼうで、でも優しくて頼れる隊長。
(レイドは、やっぱり狼なんだ)
仲間を守る、勇敢な狼。
レティシアはもう一度、夕闇に佇む紅い狼を見つめ、そして彼に言われた通り、部屋に戻るべく踵を返した。




