隠された王女 2
レイドの部屋で会議を終え、レティシアはクラートと連れたって廊下を歩いていた。いつもは女性仲間と一緒に戻るのだが、クラートの方が誘ってきたのだ。
冬が近付いているため、真夏ならばまだ日光が照るだろうこの時間帯も、今は既に薄い闇のベールに覆われ始めていた。まだ最後の授業が行われている時間なので、廊下には人気がない。魔道ランプの明かりに照らされ、微妙に長さの違う影が二人分、足元に伸びている。
(考えてみれば、こうやって二人で歩くのって初めてかも)
クラートの半歩後ろをついて階段を上がり、廊下を歩きながら、レティシアはそっとクラートの顔を覗き見た。
直射日光下だと白銀にも見える髪は、微かな灯りを受けて艶のある黄金色に染まっている。じっと前を見つめるスカイブルーの目も、いつもよりほんの少し彩度が落ちており、図鑑でしか見たことのない南国の海を思わせるような色合いをしていた。
(クラート様って意外と睫毛長いんだな……あれ、こんなに身長差あったっけ? 私とそう大差ないくらいだと思ってたのに)
改めて見てみると、クラートの新しい発見がいくつも見つかった。つんと高い鼻とか、薄くて凛々しい口元とか、人形のように滑らかな肌とか。
(最近感覚が麻痺してしまったけど、クラート様はやっぱり王子様なんだよね)
出会ったばかりの頃、しゃちほこばるレティシアに対してクラートの方から「気楽に話してほしい」と言ってくれたため、敬語こそ残っているものの気兼ねなく話をするようになっていた。
だが、先ほど本人が言ったように、クラートはリデル王族の血を引くれっきとした貴族なのだ。生まれは勿論、一国の公子としての身の振る舞いや作法など、田舎育ちのレティシアには到底適わない身分だ。
(私は所詮、農村の小娘だもんね。大司教の娘ブランドなんて、もうとっくに使用期限が切れてるし)
「……レティシア」
(根っからの農村根性だから、本当なら公子様と並んで話すなんて夢物語よね。そもそも、こうやって一緒にいるのが不思議なくらい……)
「大丈夫、レティシア?」
目の前でふらふらと手を振られ、はっとしてレティシアは立ち止まった。見れば、心配顔で顔を覗き込んでくるクラートの顔が、間近に。
「声を掛けても返事がないから……ひょっとして、体調悪い?」
「い、いえ! 大丈夫です!」
半ば裏返った声で応え、レティシアはクラートの端正な顔から逃げるように半歩後退した。
「体調は、ええ、体調は平気です。うん、ものすごく快調です!」
「……そ、そうか。ならいいんだけど」
クラートは眉間の皺を解き、くしゃりと微笑んだ。去年も同じ笑顔を見たことがあるのに、雰囲気がどこか違う。
きっと、レティシアより一つ年上のクラートは大人の階段を数段先に上ってしまっているのだろう。
(クラート様は、ただ単に私を心配しただけなのに……あああ、どうして顔が熱くなるの! 静まれ、私っ!)
勝手に熱を持ち始めた頬を両手で押さえて揉んでいると、クラートはそんなレティシアを見つめ、腕を組んで首を捻った。
「付き合わせてしまって悪いね。実は、僕のお気に入りの場所を案内したくって」
「お気に入り?」
興味を引かれてオウム返しに問うと、クラートはゆっくりと頷いてレティシアの手を引き、廊下の隅へと誘った。
「ここは男子棟だから、夜遅くに君を呼ぶわけにはいかない。でも冬なら日が落ちるのが早いから、絶好の機会なんだよ」
「な、何がですか」
「来てみれば分かるよ」
クラートがレティシアを招いたのは、クラートたち貴族の息子が寝泊まりする男子棟最上階の廊下の一角。棟の東端で階段のすぐ手前、休憩用のソファが置いているだけの袋小路だった。建物の間取りは女子棟と大差ないため、レティシアが毎日寝泊まりしている棟の同じ場所にも同じようなソファがあるため、驚くべきことではなかった。
クラートはソファに座るのではなく、土足のまま膝立ちでソファに上がり、振り返ってレティシアに手招きした。促され、レティシアも同じようにソファに這い上がってふかふかの座面に膝を乗せる。
「ここ、この窓。他の所とも比べてみたけれど、ここが一番よくって」
言い、クラートは左腕を窓の桟に乗せ、右腕で自然な動作でレティシアの肩を引き寄せてきた。
(少し、距離が近いんじゃ……)
さすがに一言抗議しようと口を開きかけたレティシアだが、目の前の光景に思わず息を呑み、閉口してしまった。
窓は東向きに付いている。眼下には、既に闇に覆われているグラウンドが広がっており、授業を終えたらしき騎士たちが帰り支度しているのが微かな動きで分かった。そしてグラウンドと全棟をぐるりと囲むように立っている壁。低い階から見ればその壁で見えない、外の世界が目の前に広がっていた。
壁の外には何もない荒野がだだっ広く広がり、城の東側を流れる河川が黒々と伸びていた。セフィア城の生活用水としても活用している有難い川は幅があり、太い帯のように窓の端から端まで横切っていた。
日中見ても、なんてことなく通り過ぎてしまうだろう河川。だが夜になると清い水は夜空の色を映していて――
「すごい……!」
思わずレティシアの唇から声が漏れた。
緩いカーブを描く河川は、例えるならスパンコールを縫いつけた闇色のリボン。きらきらと上空で無数に輝く星をそのまま、水面に映し出して静かにさざめいている。森や荒野、全てが暗闇に閉ざされている今、地上でこの川だけが確かな輝きを持って煌々と闇夜を照らしていた。
「他の窓からも見てみたけど、ここが一番角度的にもよかったんだ」
隣でクラートが誇らしげに言い、窓ガラス越しに華やかな星の道を指でなぞった。
「街中と違って、この辺は街灯がないから星がとてもよく見える。でも、ただ見るだけじゃつまらないだろ? あの川に映った星が本当にきれいで……誰かに見せたいなって思ってたんだ」
「レイドとかには見せないのですか」
「あいつはこういうのに関心がないからね。普通の人はこのソファを逆向きに使おうとは思わないから、きっとこの景色を知っている人はそう多くないよ」
そこでふと、クラートが黙り込む。何事かと思ってレティシアが振り向くと、つい先ほどまで鼻高々だったクラートの表情にかげりが差していた。
「でも、考えてみればルフト村の方が空気が澄んでいるし星もよく見えるよね……あっちで見慣れているなら、そんなに大した発見じゃ……」
「そんなことないです!」
思わず、レティシアは廊下に響く大声を出していた。
目を丸くするクラートに構わず、レティシアは彼にきちんと向き直った。
「そりゃ、村で見た方が星の数は多いですけど、でも! あっちではこんなに高い建物や大きな川がないから、こんなきれいな風景、絶対見られませんでした! あの川だって、貴族の人が着るドレスの帯みたいにきらきらしてきれいだし、川に映る夜空のよさに気づけたのは、クラート様のおかげなんです!」
早口で言い募るレティシアを、クラートは意外そうな眼差しでじっと見つめてきた。
授業を終えて階段を上がってきていた男性騎士も、顔を真っ赤にして何事か叫ぶレティシアを、不審そうな表情で一瞥してきた。
ややあってクラートはゆっくり瞬きし、ふうっと小さな息をつく。
「そっか……じゃあ、今日ここに君を連れてきたのは無駄じゃなかったんだね」
「もちろんです」
短く、だがはっきりと返し、レティシアは体の向きを戻して窓の外を眺めた。クラートも、首だけ捻って黒々とした夜の世界を見つめる。
本日最後の授業が終わり、男性騎士や魔道士が一斉に部屋に戻ってくる。そして夕食のため、群を為して階下へ降りていく。通行人の中には、廊下の隅っこで仲よく肩を並べるレティシアたちに気付かない者もいれば、気付いてもあえて無視する者もおり、あっという間に廊下は元のような静けさに包まれた。
それでも、レティシアはまだ飽きることなく夜のセフィア城地方を眺めていた。今や完全に外は真っ暗になっているが、その分星の川の存在感が強まっていた。帯の端には、数分前まではなかった欠け気味の月がぽっかりと浮かんでおり、一つのアクセサリーのように黒いリボンを彩っていた。
「……君たちには、申し訳ないことをしたと思っている」
ふいに、クラートが神妙な口調で話し出したため、レティシアは首だけ捻ってクラートの横顔を窺った。
「さっきの重大任務の件。セフィア城では身分の高低を理由にしてはならないことになっているのに、僕は公子としての責務をレイドたちに負わせてしまった。……本当なら、仲間に擦り付けることなく全て、自分で解決しなくてはならないんだろう。でも、僕はレイドたちに丸投げしてしまった――彼らが絶対に断れないのだと、知った上で」
クラートの言葉には自嘲の色が混じっている。
レティシアは何も言わず小さく頷いて、人形のように整ったクラートの顔を見つめた。
「さっきの会合では、あんな偉そうな態度を取ったけれど、結局僕は未熟なんだ。騎士としても、次期大公としても。陛下と謁見したときだって、緊張して、怖くて、足が震えてたまらなかった。今すぐにでも尻尾を巻いて、謁見の間から逃げだしたいくらいだった。でも、そんなことなかったかのように……見栄を張って、自分を過大に見せたのがすごく情けなくて……」
レティシアはクラートの告白を、意外な気持ちで聞いていた。確かに先ほどのクラートははきはきしていたし、レイドのような年長者やノルテら王侯貴族にも物怖じすることなく自分の主張を通していた。
だが、内心ではそのように思っていたなんて。
「……いいんじゃないですか」
自分でも意外なほど、するりと言葉が出てきた。
クラートが目を瞠る中、レティシアは一言一言、噛みしめるように言った。
「自分を大きく見せても、強がっても……いいと思います。だって、クラート様はそれに見合うだけの苦労をされてきたんですもの。一国の王様と会って、緊張しない方がおかしいですよ。私だったら、立つことすらまともにできないと思います」
ふと、言いながら昨年の冬の出来事が脳裏に浮かび上がってきた。
聖都クインエリアで実母と対面したとき。生みの母でありながら自分とは遠くかけ離れた存在である女性を前にして、レティシアはちっとも緊張しなかった。
だがそれは、レティシアが勇敢だったからではない。あの時のレティシアは腹をくくっていた。
自分の下した決断に母が怒ることも、否定することも覚悟していた。だからこそ、大司教を前に自分の言いたいことを打ち明けることができたのだ。
それは、クラートの時とは条件が違う。クラートは何を言われるか分からない不安と、次期大公としての責務を背負い、大国の君主の前に立たされたのだ。レティシアのように捨て身で挑むわけにはいかなかった。彼の一挙一動に、祖国の命運が掛かっていたのだから。
「それに、レイドも言ってたでしょう。私たちは今回の仕事を嫌だと思ってるんじゃないんです。国王陛下直々の命令って言われたらやっぱり緊張するし、力不足な気がしますけど……でも、頑張ろうって思えるんです。クラート様の役に立ちたいし、ディレン隊のみんなと一緒ならすごく心強いんです」
ユーディンも言っていた。人のためになる仕事は数多くあると。
クラートを通して今回与えられた任務も、多くの人のためになる。今後のリデル王国を築く布石の一つになれる。
それが、どれほど嬉しく、快いことか。
(私は、こうやって近くにあることからこなしていきたい。そうやって、私に与えられた力を発揮していきたい)
クラートの目が優しく細められ、長い睫毛がスカイブルーの眼差しに影を落とす。
「君は……本当に強いな」
「強い……?」
「そう思えるのが、立派だと思うよ」
短く言い、クラートはふいっと視線を反らしてまた、窓の外の世界を見やった。
「……ありがとう」
「別に、感謝されることは……」
「僕の愚痴を聞いてくれてありがとう。それだけで、すごく気が楽になった」
クラートの声は先ほどとは打って変わってすっきりとしていた。再びレティシアの方を見たクラートの目に、かげりはなかった。新しい星のような二つの眼差しが生き生きと輝き、レティシアを見返している。
「今日、ここに君を連れてきてよかった。……あ、でも今回の件はレイドたちには秘密にしてね」
「それは……愚痴のことですか」
「それもあるけど、あいつにこの場所を教えるのはやっぱり、気が進まなくて」
言い、クラートはするりとソファから降りて立ち上がった。慌てて後を追うレティシアの手を引いて立ち上がる手助けをし、クラートはふっと微笑む。
「一つくらい、レイドに勝っていたい。同時に、あいつの前では未熟でも、公子として振る舞っていたいんだ。だから、ここで二人で景色を見たことと弱みを見せてしまったこと、皆には秘密でね」
差し出される、細い指先。細いといっても、レティシアの指よりずっと逞しく、骨張っている指。
剣と弓を持ち、公国の未来を担う青年の手。
「……はい、秘密です」
そっと絡め合わせた指先は、初冬だというのにじわりと温かかった。




