ディレン隊の日々 6
魔道士団長の言う「封魔部屋」は、中央棟の隅にあった。
中央棟には事務室や食堂、図書館などがあるためレティシアも毎日通っているのだが、この棟には重要な部屋や生徒立ち入り禁止の場所も多いらしく、あちこちが障壁の魔法で通行禁止になっていた。レティシアたちは、そういうものだと思って障壁の廊下をいつも素通りしてきたのだが。
魔道士団長は、レティシアも何度も前を通ったことのある障壁の前で立ち止まった。障壁といっても物騒なものではなく、一枚の巨大なドアのように半透明の壁が立ちふさがっているだけだ。廊下の奥がぼんやりと透けて見え、簡単に突き破れそうだが障壁は叩いてもびくともしない。レティシアは試したことはないが、魔法を放っても表面が水のように揺らぎ、いとも簡単に魔法を拡散させてしまうのだという。
この障壁の先に「封魔部屋」があるらしい。魔道士団長は期待顔のレティシアを見ることなく、障壁に向かって手を翳し、壁の表面を撫でるようにぐるりと、大きく円を描いた。
それだけで障壁の表面がぐにゃりと歪み、霧がかき消えるように目の前の壁が消え去ってしまった。
(すごい! これも何かの魔道……?)
わずか数秒の出来事にレティシアが感心していると、既に数歩先を歩いていた魔道士団長が立ち止まり、呆れ顔で振り返った。
「馬鹿面で立ちすくまないでくださいな。その障壁はすぐに元に戻るので、早く通りなさい」
手厳しく言われ、レティシアは慌てて魔道士団長の隣まで駆けた。その直後、魔道士団長が言ったように再び廊下の空気がグニャグニャと歪み、数秒後にはレティシアの背後に先ほどと同じ障壁が復活していた。
「……封魔部屋はセフィア城の特殊部屋の中でもとりわけ、丁重に扱わなければならない場なのです」
カツカツと靴のかかとを鳴らせて歩きながら、魔道士団長は言う。
「その名の通り、封魔部屋では一切の魔法が解除されます。人を傷つけるような攻撃魔法はもちろん、盗聴や侵入等の魔法も一切無効となります」
設備や維持に金がかかるため、セフィア城で封魔効果があるのはこの小部屋だけなのだ、と魔道士団長は付け加えた。
(そんな凄い部屋に案内されてるってことは……)
「……それだけ偉い人が来てるってこと?」
レティシアが問うたと同時に、魔道士団長は廊下の隅に据えられたドアの前で立ち止まった。ドア自体は至って普通だが、黒檀のドアプレートには「封魔部屋。関係者以外立ち入り禁止」と血のような真っ赤な字で記されていた。
封魔部屋は小振りの応接間のような造りで、ドアを入った先に一室あるのみだった。レティシアの部屋よりずっと狭いそこには年代を感じさせる赤い絨毯や調度品が置かれ、中央に据えられたオークのテーブルも、数十年前からそこにあるような濃い艶を放っていた。
レティシアが緊張しつつ入室すると、テーブルを挟んで反対側にいた男性がさっと顔を上げた。他には誰もいないため、間違いなくこの男性がレティシアを訪ねてきた客なのだろう。
レティシアは魔道士団長に促されて男性の向かいに座り、じっくりと相手の顔を見つめた。
年は三十代前半くらいだろうか。干し草のような薄い茶色の髪を首筋で一つにまとめ、高級感溢れるローブと光沢が美しいマントを羽織っている。顔の骨格が五角形に近く、骨張っているため厳つい印象を受けるが青灰色の目は優しく細められ、目尻には小皺が寄せられている。
「お目もじ叶って光栄です。……お久しぶりです、レティシア嬢」
ゆったりとしたテノールの声で男性は告げ、レティシアの前で深々と頭を下げた。それを見、レティシアは首を捻る。自分の記憶の限りでは、このような男性と会った覚えはないのだが。
疑問の答えはすぐに、男性の方から明かしてくれた。
「私はユーディン・シュトラウスと申します。聖都クインエリアにお仕えする神官で、十五年前には生まれたばかりのお嬢様と見えました」
(あ、そういうことね)
心の中でぽんと手を打ち、レティシアも礼儀に乗っ取って軽く頭を下げた。立っていればローブの裾を摘んでお辞儀をするのだが、座っているので頭を垂れるだけでよい。
「こんにちは、シュトラウス様。残念ながらわたくしは生まれて間もなく聖都を出たため、シュトラウス様のことは存じておりませんでした」
「もったいないお言葉です」
そこで、戸口に立っていた魔道士団長が軽く咳払いした。
「シュトラウス男爵はロザリンド様とも御縁のあるお方で、信頼に値します。では、わたくしは外で待っておりますのでどうぞごゆっくり」
早口で言った魔道士団長が去った後、しばし部屋には沈黙が訪れた。
レティシアはじっとソファに座り、怖々と目の前のユーディンの顎辺りを見つめていた。
(わざわざクインエリアから来たのなら、何か重大な出来事でもあったってこと……?)
説教か、大司教になれコールか。冷や冷やするレティシアの心情を察したのか、ユーディンは皺の寄った口元を緩め、目尻を下げた。
「そう固まらなくていいよ。それにしても……君はティルヴァン様にそっくりだね」
ユーディンの表情が軟らかくなり、一気に口調も砕けたものになったためレティシアの気も自然とほぐれた。筋肉が引きつっていた肩を緩め、レティシアは軽くローブの裾を整えてユーディンの言葉に応える。
「それは……ええ、大司教様にも同じようなことを言われました」
「母君のことだね」
ユーディンはくつくつと笑い、澄んだ色の目をじっと細めた。
「確かに君は姉君――フェリシア様にはあまり似ていない。一番違うのは眼差しだね。フェリシア様と違って君は、純粋で真っ直ぐな目をしている。……ああ、もちろんフェリシア様を貶すつもりはないよ。姉君と違い、君はティルヴァン様と同じ眼差しなんだ」
ユーディンは親しみやすい口調で、レティシアのことを褒めちぎってくれる。ティルヴァンを崇拝しているのだろう、言葉の端々から前大司教への敬意がにじみ出ているようだった。
「実は、私はロザリンドとは幼なじみでね。シュトラウス男爵家とカウマー男爵家は領地が隣同士だということもあり、昔から交流があったんだ。私もロザリー……ロザリンドも魔道の素質があり、ロザリンドが二つ年上だったから私は彼女の後を追う形でセフィア城侍従魔道士団に入ったんだ。もちろん、ティルヴァン様とも就学時代に知り合ったんだ。ティルヴァン様は侍従魔道士時代から次期大司教としての才気に溢れてらっしゃって、私も密かに目標にしていたのだよ」
もちろん、遠く及ばなかったがね。とユーディンは快活に笑う。
そんなユーディンの昔話を、レティシアは落ち着いて聞いていた。
レティシアは勿論、父の記憶がない。だが以前、姉のフェリシアが褒められたときと違って父を褒められると、心の奥がくすぐったくなるような、密かな満足感が心の中に生まれた。
それはきっと、ユーディンが裏心なく本心から父のことを慕っているからなのだろう。父親のことを褒められるのもまんざらではない、と自然と思われてきた。
(まあ、それはそれでいいんだけど……)
「それで……ユーディン様は今日、何のご用でいらっしゃったのですか?」
静かに核心を突くと、ユーディンは軽く手をひらひらさせた。
「ユーディンと呼んでくれて構わない。……実は、母君から君宛の書簡を預かっているんだ。近況報告も兼ねてね」
ユーディンが傍らのバッグから出したのは、皺一つない純白の封筒。手に取ると、ほぼ摩擦が感じられず、紙というより上質な絹を思わせるような感触が指の腹に伝わってきた。
ルフト村で行商人に見せてもらった紙はもっとごわごわしており、分厚かった。セフィア城でノートとして使用している紙はそれよりは薄手で質がよいが、それでも日光に透かすと繊維や木のパルプの破片が浮いて見えたり、ほんのり茶色がかっていたりと量産型一般庶民用の域を超えない程度のものだった。
これ一枚で何人分のパンが買えるのだろうか。そんな封筒の封を千切ると、几帳面な字がびっしりと記された便箋が出てきた。
「これ、大司教様の字?」
「いや、申し訳ないが私の代筆だ。大司教ともなるとそう易々とは直筆の書簡は作成できないのでね。大司教様がおっしゃった内容を私が記させてもらった」
ユーディンが代筆した手紙を読めば。内容は至って平凡だった。スティールマージ昇格おめでとう、母として光栄に思っている。元気にしているか、ぜひ魔道の腕前を拝見したいなどといった、当たり障りのない文面。
(それもそうか)
レティシアは冷たい便箋をそっと撫でた。相手は実母である以前にクインエリアを治める大司教。おまけに実際にペンを走らせたのは、目の前にいる男性。
母の温もりを手紙に求めるのは、望みすぎだったのだろう。
眉間に皺を寄せて手紙を眺めるレティシアを見、徐にユーディンが口を開いた。
「前魔道士団長のロザリンドが殉職し、アデリーヌが新魔道士団長になってから母君も苦心されているんだ。ロザリンドは優秀な魔道士であった以上に、数少ない君の母君の本心を理解している人間だった。我々も努力はしているが、どうしてもロザリンドの域には達せず……」
そこでふと、ユーディンは訂正するように早口で言葉を続けた。
「先に断言しておくが、私は勿論ロザリンドの死を悼んでいるが、だからといって君を責めるつもりは毛頭ない。ティルヴァン様の忘れ形見である君を守ってロザリンドは本望だったろう。それに、私もロザリンドの行動は正しかったし、魔道士団長として最善の策を取ったのだと思っている」
「……すみません、気を遣わせてしまって……」
事実、レティシアはユーディンの言葉を聞いて自責の念に駆られていた。ロザリンドの死後、幾度と思ったか分からない、自分のせいでロザリンドが死んだのだという思い。
皆が口を揃えて「レティシアのせいではない」と言うが、それでも心の奥底ではロザリンドはレティシアが殺したのだと、捻くれて考えてしまっていた。
もし、レティシアがもっと強かったら。ロザリンドが盾にならなくてもミシェル・ベルウッドと戦えるくらい、強かったら。
(ロザリンドは、ここにいたのかもしれない)
くしゃり、とレティシアの手の中の手紙が悲鳴を上げる。
再び、封魔部屋に静かな沈黙が流れた。レティシアはゆっくりと手紙を封筒に戻し、テーブルに置いた。書簡の白さが、かつてクインエリアに赴いた際に謁見した母の白い指を彷彿させた。
「時に……レティシア、君は次期大司教になることを拒んだのだそうだね」
「ええ」
レティシアは封筒から顔を上げ、やや固い声で肯定する。
(ユーディンは聖都の人。じゃあ、私が大司教になることを推しているってこと……?)
そもそもなぜレティシアがルフト村に里子に出されたかというと、聖都での後継者争いを避けるためだった。
大司教は世襲制ではない。だが、ティルヴァンの能力を受け継いだ子どもには、血のごとき真っ赤な目が受け継がれるのだ。姉のフェリシアのように。そしてレティシアのように。
そうなれば周囲の者は当然、優先して深紅の目を持つ大司教の実子を次期大司教に推すだろう。去年暗殺されたフェリシアのように。
ではやはり、ユーディンはレティシアに説教しに来たのだろうか。フェリシア亡き今、紅い目を受け継いだレティシアが大司教になるべきだと。
だがユーディンの返答は、ガチガチに固まるレティシアの予想を裏切ってくれた。彼は胸の前で腕を組み、静かに長い息を吐き出した。
「私は……その判断に善悪付けようとは思わない。フェリシア様は次期大司教となるべく教育を施されていたが、君は違う。むしろ、その場ですぐに承諾しなかったことは称賛に値するだろう。母君という絶対的な存在を前にしても、君は自分の当時の状況を把握し、それを言葉にできた……それはなかなか容易にできることではない」
ユーディンの言葉を、レティシアは目を丸くして聞いていた。彼は、大司教の座を蹴ったことを詰るでも褒めるでもなかった。むしろ、母の言葉に「はい」と言わなかったことを褒めてくれた。
ユーディンはレティシアのきょとんとした顔を見、静かに尋ねた。
「レティシア、君は今後、セフィア城でどのようなことを学んでいきたい?」
「それは……」
レティシアは一旦口を閉ざし、ややあった後、言葉を考えながら答えを述べた。
「まだ、はっきりとした形にはなっていません。今の段階では、一個ずつ昇格試験に合格して実力を上げていきたいです。それから……」
「うん?」
「……勉強したことを生かして、誰かのためになる仕事をしたいです」
言ってしまってから、レティシアは口を閉ざしてかあっと赤面した。
考えながら発言したつもりだったのに、あまりにも幼稚な夢を語ってしまった。
(誰かのためになりたい……なんて漠然としてるし、子どもっぽすぎるよね)
だがユーディンはレティシアの答えを聞き、大きく頷いた。
「それは大いに期待できる。君はまだ若い。人のためになる仕事というのは限りなく幅広いが、その中で特に何をしたいのか、何を求められているのか、自分に何が相応しいのか……それを、今後の学びの中でゆっくり見出していくといい。君は騎士団に所属しているようだから、人との繋がりや職務を通してさらに見識を広めていきなさい」
言うと、ユーディンはレティシアを見、ふっと微笑んだ。
「将来の夢とは……何になりたいか、ではなく、どんな人間になりたいか、なのだと私は思っている。君が模索の末に見出した選択肢の中に、もし父君の後を継いで大司教になるというものがあれば……その時は、我々は心から、新しい大司教の就任を歓迎しよう」
その後、レティシアは母への簡単な返事をしたためてユーディンに託し、二人で部屋を出た。そのまま魔道士団長とユーディンに挟まれる形で、城門まで見送りに向かった。
城の検問の前には、立派な天蓋付き馬車が停まっていた。あちこちにクインエリアの紋章が記された馬車に乗り、ユーディンはレティシアと魔道士団長に微笑みかけた。
「レティシア、今後も勉学に励むように。アデリーヌ、レティシアならびにセフィア城侍従魔道士団をよろしく頼んだ」
「もちろんです、シュトラウス様」
「ありがとうございました、ユーディン」
レティシアと魔道士団長に見送られ、馬車はゆっくりと検問を抜け、馬車道を駆け去っていった。
その影が地平の彼方に消えて見えなくなり、検問の衛士が門を閉めてから、レティシアは隣に立つ魔道士団長を見上げた。
「いい人みたいね」
「もちろん。あの方もカウマー様と同じ夢を持ち、目標を志すお方。カウマー様、並びにシュトラウス様の夢はわたくしの夢でもありますから」
言い、ちらと魔道士団長はレティシアを見た。レティシアも同じく、魔道士団長を見返した。
ロザリンドの夢。それはつまり、レティシアを守ること。
レティシアはしっかりと頷き、秋風に夕焼け色の髪を靡かせながら城内へと戻っていった。




