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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第2部 緑翼の乙女
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三つの名前 4

 閑静な宿舎棟を過ぎ、会場のある本棟に近付くと少女の笑い声や男性の伸びやかな声が響いて来、これから夜会に臨むのだという実感がようやく押し寄せてきた。


(あ……)


 会場へ続く廊下の角を曲がったところでレティシアは意外な人物と鉢合わせし、ぴくりと体を震わせてその場に停止した。


 夕闇の中でも映えるプラチナブロンドの髪に、抜けるように白い肌。纏っているのは比較的地味で露出の少ないモスグリーンのドレスだというのに、溢れる色香は留まることを知らない。暗がりではこれ以上ないほど目立つ色合いをしているのに、なぜか今日は闇に溶けてしまいそうな、儚い印象が感じられた。


「……こんばんは、魔道士団長」


 手短に挨拶した後、レティシアはどういう顔をすればよいのか分からなく、俯いてしまった。ここしばらく魔道士団長の講義がなかったので、顔を合わせるのはノルテの秘密を知った試験の夜以来となる。

 魔道士団長もまた、レティシアと合うことが意外だったのかしばし、言葉を探すように黙し、レティシアのつむじを見つめていた。


「……交流会に出席するのですね」


 微かな声に、レティシアは顔を上げた。魔道士団長は感情のいまいち読めない表情でじっと、レティシアを見下ろしている。


「どうやらあなたは、カウマー様が見込んだだけのことはあるようですね……夕日の髪の少女。カウマー様が命を掛けて救ったあなたは……わたくしが思っていた以上にたくましいようですね」

「魔道士団長、あの……」


 すみません、と言おうとしたが、すっと細い指先が迫ってきてレティシアは思わず閉口した。

 魔道士団長は人差し指をレティシアの口元にかざし、朱の引かれた唇を微かに吊り上げた。


「いいこと? ……わたくしは本当は、伯爵家の娘ではないの。誰が両親かも分からない状態で、生まれてすぐに孤児院前に捨てられていたそうです。農村育ちのあなたや、地方都市生まれのセレナ・フィリーより卑しいわたくしを、娘が欲しかった両親が養女にと拾ってくださったのです」


(……え?)


 突然の魔道士団長の告白に、レティシアはぱちぱちと瞬きした。

 対する魔道士団長は自身のとんでもない過去を暴露したにもかかわらず、いつもと変わらない艶やかな笑みを浮かべていた。


「孤児院は決して、居心地のいい場所ではありませんでした。院長先生は心優しい方でしたが、孤児たちは皆争って院長先生に気に入られようとしていました。……今考えると、誰もが愛に飢えていたのでしょうね。孤児同士で仲よくなるなんて、到底できなかったのです。院長先生は優しい方でしたが……水面下で互いを貶め合う孤児たちの内心に、気付くことはなかったようでした。そんな孤児院へ、クワイト伯爵夫妻がやってきたのです」


 周囲の喧騒さえ、今はレティシアの耳に入ってこない。

 いつの間にか話に聞き入っていたレティシアは、魔道士団長の話にかすかに顔をしかめる。

 親の愛を希う孤児たちの元へ、裕福な貴族が養子を求めてやって来た。孤児たちの反応を想像するには難くない。


「当然のこと、孤児たちは一斉に伯爵夫妻に群がりました。伯爵の養子になれば、おいしいものがたくさん食べられる。綺麗な服を着られる。養父母の愛を一身に受けられる――あの光景は今でも忘れられません。つい数刻前まで、子どもであふれかえっていた院長先生の周りに誰もいなくなり、花の蜜に集る蝶のごとく、伯爵夫妻に飛び付く子どもたち。そんな光景を寂しそうな笑顔で見つめる、先生の顔が……」


 そこで一旦魔道士団長は言葉を切り、しばし考え込むように黙想した後、ゆっくり面を起こした。


「わたくしは真っ直ぐ、院長先生に駆け寄りました。わたくしには、きらびやかな衣服を纏ったクワイト夫妻よりも院長先生の方がずっと、よかったのです。皺だらけの手に頭を撫でてもらって、本当に嬉しかったのです。その一時だけ、わたくしだけの院長先生になって……幸せでした」

「……でも、魔道士団長がクワイト伯爵の養女になったのですよね?」


 そっと、魔道士団長の思い出を傷つけないように問うと、魔道士団長は目を細めてレティシアを見つめ、ゆっくりと首を縦に動かした


「そうです。その後、院長先生と伯爵夫妻が話し合ったそうです。どの孤児を引き抜くべきか、と。その時院長先生は迷うことなく、わたくしを養子に出すべきだと言ったそうです。そして伯爵夫妻もまた、わたくしを養女に欲しいと申し出たのです」


 院長と伯爵夫妻の意見は一致した。

 院長は最も寂しがりやで最も愛を必要としているアデリーヌを養子に推し、伯爵夫妻もまた、大人しい銀髪の少女を養女にと願った。


「クワイト伯爵に引き取られた当初こそ、わたくしは院長先生と夫妻を心から恨みました。わたくしを撫でてくれたあの手は、まやかしだったのか。わたくしを院長先生から引き離そうとするのか、と。でも、後で分かったのです。院長先生がわたくしをクワイト夫妻に託したのは、わたくしのことを想ってくださっていたから。そしてわたくしが、クワイト夫妻をお金持ちの貴族として見ていなかったから。わたくしが当時最も必要としていたのがお金や食料、衣服ではなく両親の愛情なのだと……見抜いてくださったからでした」


 わあっ、と会場の方から歓声が上がる。いよいよ夏の交流会が始まったようだが、レティシアにはそんな音も、右耳から左耳へと抜けてしまった。今、この閑静な廊下に立っているのはレティシアと魔道士団長、二人だけだった。


「もちろん、平民生まれのわたくしが貴族社会でのうのうと生き抜けるわけがありませんでした。皆は、わたくしがクワイト伯爵夫妻の養女であることを知っております。もちろん、孤児院出だということも……。クワイト夫妻――お父様とお母様はわたくしを実の娘のように愛してくださりました。年の離れたお兄様たちも、わたくしを守ってくださりました。それでも……貴族の世界は、とても凄惨な場でした」


 レティシアは真っ直ぐ、魔道士団長を見上げた。

 いつもは他人を見下すような強い眼差しをしている双眸が、今は力なく緩められ頬には自嘲のような笑みを浮かべていた。

 彼女が今まで味わってきた屈辱な出来事が、魔道士団長を数十歳も老けて見えさせているような気がした。


「わたくしより身分の高い者はわたくしを堂々と誹り、わたくしより低い者は影でわたくしを罵る。平民から昇格した者は、苦労知らずに伯爵令嬢になったわたくしを中傷する……そのような毎日でした。だからわたくしは誓ったのです。誰よりも強くなろうと。誰よりも美しくなり、強くなり、お父様やお母様のご期待に添おうと。――カウマー様はわたくしの実力を認めてくださり、わたくしもあの方に付いていく決心をしました。そしてカウマー様が尊命を投げ打って守ったあなたのことも……」


 魔道士団長はふと、会場の方へ視線を移した。騎士団長が開会の辞を述べ、管弦楽団がワルツを奏でる賑やかな場を、切ない眼差しで一瞥する。

 そして数秒、ゆっくり瞬きした後、レティシアを見つめた。


「強くおなりなさい、レティシア・ルフト。わたくしが味わった辛苦や恥辱……あなたもきっと、味わう日が来るでしょう。それに必ず、打ち勝つのですよ、レティシア」


 その時。

 なぜか、魔道士団長の横顔に別の女性の影が重なったような気がした。

 鋭く吊られた目を細め、じっと未来を見つめるロザリンドの横顔に。


 魔道士団長は最後にもう一度レティシアを一瞥すると、くるりとマントを翻してレティシアに背を向け、静かに廊下を後にした。

 レティシアは魔道士団長の豊かな銀色の髪が完全に見えなくなるまでじっと、その後ろ姿を見つめていた。

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