三つの名前 3
セフィア城の大広間は普段は閉め切られており、大がかりなパーティーや会議の時にのみ使用される。入学式典などもこの場で行われるそうだが、編入したレティシアにはこれまでずっと無縁の場所であった。
今、セフィア城の心臓部に位置するその大広間の扉は大きく開放され、様々な悲鳴や歓声、泣き声が飛び交っていた。城内でも幅の広い廊下だが既に人だかりで、小柄な者が迂闊に入ろうものならば人波に押され引かれねじり上げられ、目的地に着くことなく延々と人に揉まれ続けることだろう。
大広間の壁に掲示されているのは、今回行われた夏の昇格試験の結果。扉から向かって左側には騎士の、右側には魔道士の合格者の名前が挙げられており、受験生たちがこぞって自分の名前を探しに大広間へ押し寄せていた。
「……あった!」
思わずレティシアは声を上げ、震える手で掴んでいたメモ用のペンを取り落としてしまった。誰かに蹴り飛ばされる前にと慌ててペンを拾い、もう一度、見間違いではないことを祈って掲示を見上げる。
やはり、あった。スティールマージ昇格者の所に、レティシア・ルフトの名が。
流れるような字体で記された自分の名を網膜に焼き付け、レティシアは興奮した誰かに殴られる前に、大広間から抜け出した。
広間前の廊下は基本的に、歓声で溢れていた。合格発表を見に行った同僚や仲間、友人に恋人を待つ者たちと受験生が入り乱れ、あちこちで抱き合い、キスし、くるくると回転している。一方の不合格者たちはこっそりと自室に戻っているようだった。レティシアは、そんな混沌とした廊下を押され引かれしながら歩いていく。
「レティシア!」
騒がしい廊下にもよく響く、低い声。見れば、少し離れた廊下の隅で大きく手を振るオリオンが。
駆け寄ると、レイドやセレナ、クラートにノルテも皆集まっていた。人混みの中でもずば抜けて身長の高いオリオンが目印になってくれていた。
「その顔は……うまくいったようだな」
歩み寄ってきたレティシアの顔を見て、安堵の表情を浮かべるレイド。レティシアが頷いたのを見、ぴょんとノルテが飛び付いてきた。
「やったやった! これでレティも鈍色マントの仲間入りね! おめでとう、レティ!」
「ありがとう、ノルテ」
ノルテの軽鎧には泥が付いており、髪艶もやや落ちている。レイドが宣言した通り、ノルテは復職してから遠慮なく隊長に扱かれ、ここしばらく仕事がぎゅうぎゅうに詰まっていたそうだ。
それでも駆けつけてくれたレイドたちの気遣いが嬉しく、レティシアは緩く微笑んだ。
一歩、皆に近づけたような気がした。
合格発表の日のうちに昇格認定式が行われ、晴れてレティシアは鈍色のマントを羽織ることを許された。そして翌日の夜には早速、夏の交流会が行われる。
「別に、すぐに交流会に出ないといけないわけじゃないけどね」
言うは、口いっぱいにピンを銜えたセレナ。彼女は眉をひそめながら、自分の前に立つレティシアを上から下まで眺めていた。
「私だって一回交流会を飛ばして、次の会でレイド様に誘われたからね。……レティ、本当に腰が細いのね。まだ胴回りを詰められそうだわ」
対するレティシアは、畑に刺すかかしのような体勢でセレナの前に棒立ちしていた。少しでも体を動かすと容赦ない叱咤の声が飛んでくるので、そろそろ脚と腰が悲鳴を上げてきていた。
今、レティシアは夜から行われる交流会に向けて、夜会服の着付けをしていた。レティシアには、パーティーに出席する際に着れるような服はない。ルフト村には贅沢できるような金はないし、実母との縁も切った状態なので援助を頼むこともできない。普段着は数着、セレナのお古をもらっていたが正式な夜会で着回すわけにもいかない。
かといって、交流会に参加する全ての者たちが自前で服を用意できるわけでもない。レティシアよりずっと貧しい生まれの者もいるのだ。そこでセフィア城では貸衣装が用意されており、金のない者や服に拘らない者は無料の貸衣装を着て夜会に臨むのだ。貴族と平民が混在しているセフィア城では、決して珍しくはないことだった。
レティシアはセレナやノルテ、ミランダの見立てを受けて淡い黄金色のノースリーブワンピースを羽織っていた。レティシアのような色の髪はさして飾らずとも見栄えがする一方、しっくりくる色のドレスが限られてくる。ノルテのような漆黒ならば青や緑も映えるが、夕焼け色の髪でコバルトブルーのワンピースは不気味なほど似合っていなかった。
(あのドレス、色は私の好みだったんだけどなぁ)
先ほどクローゼットに戻された明るいブルーのドレスに未練を残しながら、レティシアはセレナたちがワンピースの裾を詰め、腰回りを窄める作業をぼんやりと見守っていた。
「あれ、まだ腰がぶかぶかね……ちゃんとご飯食べてる? この身長でこの腰回りは、モデル並みなんだけど」
「そう……なんだ?」
今まで自分の体形に注視することが少なかったレティシアは、セレナに指摘されて初めて気が付いて首を傾げた。すぐさま「前を向いていて!」とセレナの声が飛んできたため、振り返らずに返答する。
「私としてはがっつり肉も食べてるし、モデルになるつもりもないんだけど」
「でもさ、レティの細さに憧れてる貴族の令嬢も多いんだよ」
ノルテの声が背後からする。彼女はレティシアの髪を編み込むべく、お立ち台に乗ってレティシアの髪をいろいろと弄っていたのだ。ノルテの小さな細い指はまるで魔法のようにレティシアの髪を華麗に編み込み、そしてすぐに解かれて別のセットを試される。
「ほどよく農作業して運動するのがいいのかもね。……あっ、動かないで。もうちょっとで編み込みできるから」
「う、うん……」
レティシアはノルテにも注意され、痛くなりつつある首筋に手を当てながら言った。
「……ノルテ、メイクも上手なのね」
「王女なのに、って感じよね」
そう言うノルテの顔は窺えないが、声には笑いが含まれていた。
「そもそもバルバラ王家が開放的ってのもあるし……わたし、姉さんが式典に出る時の仕度を手伝っていたから。姉さんは髪が長くて真っ直ぐでね。いろいろアレンジし甲斐があっていろんな結い方をマスターしたってわけ」
「自分の髪は飾ったりしないの?」
「んー……わたしは昔っからショートが好きだったからね。編み込む必要はないわ。それにわたしは、自分の髪を弄るより他人の髪をセットする方が好きなのよ。リデルに来るといろんな髪質の人がいるから、腕が鳴るわぁ」
後でセレナの髪もセットしたげるよ。そうセレナに言い、ノルテはいそいそと手を動かしてレティシアの髪を束ねていった。
レティシアの着付けが終わると、セレナとノルテは自分たちの仕度をするべくそれぞれの部屋に戻っていった。彼女たちはディレン隊員であるため、レティシアより一足先に会場に入って準備をするのだという。
友人たちを見送った後、レティシアはもう一度、鏡に映った自分を見た。
いつもは無造作にバレッタで留めているオレンジ色の髪は、ノルテの指先によって緩いシニョンに結い上げられ、細かな編み込みによって小さな冠のようになっている。ノルテは髪と一緒に飾り糸を編み込んでくれたらしく、光の当たり具合によってきらきらと太陽の欠片のように輝いていた。
とろりと甘いクリームのようなパステルカラーのドレスは夏仕様のミディ丈で、光沢のあるオーガンジーの素材が肌に優しい。極度な素肌の露出は好まれないので、むき出しの二の腕を優しく覆うようにシルクのショールを纏う。
両二の腕と背中の上部を覆うようにショールを纏うことで大人っぽくなるのだとセレナは語った。リデル貴族では、ショールを肩に掛けるのは愛らしさ、腕に掛けるのは慎ましさを表すのだという。
ノルテは最後に、爪まで手入れしてくれた。村にいた頃は毎日農作業を手伝っていたため、爪の間に泥が詰まっていた。さすがにセフィア城では爪に泥が入ることはないが、弦楽器の撥のように四角くて固い爪を見て、ノルテは血相を変えていた。そして薄桃色になるまで爪を磨き、きれいな楕円形に形を整えてくれた。最後のシメに透明のマニキュアを付けられたので、明かりに翳すと朝露に濡れた花のように輝いている。
レティシアは数十秒掛けてじっくり鏡の中の己を見、ふん、と気合いの鼻息を立てて肩を落とした。
(……ノルテたちには悪いけど、やっぱり馬子にも衣装ってのになるよね)
時計を見ると、短針がもうすぐ真上を向こうとしていた。交流会は七時から始まり、夜中まで続く。この日ばかりは消灯時間を過ぎてもよいとされているのだ。
そっと部屋を出ると、辺りは不気味なほど静まりかえっていた。この階で暮らす同世代の女子たちは皆、既に会場に降りているのだろう。廊下に備え付けられているランプに照らされ、レティシアのみが長く、濃い影を廊下に落としていた。
歩く度に、胸元をかざすネックレスがちりちりと音を立てる。ドレスの他に簡単なアクセサリーも貸し出し用があり、セレナらと一緒に物色しに行ったレティシアは真っ直ぐ、このシルバーチェーンのネックレスを選んだのだ。
落ち着いたデザインの細鎖の先には、小指の爪ほどの小さな飾り石が付いている。サファイアを模したイミテーションの宝石で、ランプの光を浴びて微かに瞬く。ノルテは青より赤が似合うと、ルビーを象ったネックレスを勧めてきたのだがレティシアの強い願いで、この青いネックレスが首元に飾られることになった。
濃いオレンジ色の髪に、薄黄色のドレスと青い石のネックレス。
不釣り合いかもしれないが、レティシアはこの組み合わせが気に入っていたのだ。




