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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第2部 緑翼の乙女
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試験の夜 1

 夏の昇格試験まであと五日。受験生たちは本格的な「詰め期」に入り、図書館や自習用のテラスは連日満室状態となっていた。また夏も本番を迎えており、一年で最も気温の高い頃になっていた。


 日中は部屋備え付けの魔道冷房だけでは耐えられない暑さで、自室で勉強する者はまずいない。日の出ているうちは風通しの良い場所が好まれるため、バルコニーや渡り廊下があぐらを掻く騎士や魔道士たちでいっぱいになる。

 貧民街じみた光景だが、セレナたち曰く、夏の昇格試験直前には廊下で勉強する者が毎年多発するのだそうだ。そして、試験を受けない下級生たちは先輩たちの使い走りで飲み物を取ってきたり扇子で扇いでやったりして、小銭稼ぎをしているとか。


 レティシアは今回も図書館に入ることができず、またセレナたちは講義に出ていて相手をしてもらえないため、一人で本を読んでいた。

 直射日光が届かない北側廊下や廊下の隅は既に、涼しさ求めて寝転ぶ受験生で一杯であったが、今レティシアがいるのは宿舎棟の二階と三階の間の踊り場。宿舎棟の床は基本的にカーペットを敷いているため夏の避暑には向かないのだが、階段と踊り場だけはカーペットではなくマーブル模様の石畳が顔を出している。天窓から日光が差さない階段に腰を下ろせば座り心地もよく、座れば立派な避暑地になるのだ。


 だが、いくら大理石の床に直接尻を乗せているとしても暑いことには変わりない。つうっと首筋を汗の玉が流れ、ともすれば借りた本に滴り落ちてしまいそうになる。

 頭のてっぺんから汗が噴き出しているのが自分でも分かり、レティシアはその度に読書を中断して手持ちのタオルで首の周りを拭っていた。


(ルフト村では、こんなに暑いことはなかったよね……)


 紐綴じのノートで脇の下を仰ぎながらレティシアはぼんやりと、春に出発したばかりの故郷を思い返した。


 故郷の村は高度があり、一年中心地よい風が吹いていた。盆地のセフィア城のように乾燥した温い風が吹くことはなく、常に一定の湿度を保った自然の風が吹き込んでくるのだ。だから村では魔道冷房なんて必要なかった。どんなに暑い日中でも、窓やドアを全て開け放していれば自然と涼しくなったのだ。

 そしてどうしても暑いなら、村の近くを流れる川に飛び込めばよかった。暑い季節には村人総出で小川へ向かい、老若男女問わず水遊びに興じることもあった。きっと今年も、新しくやってきた働き手たちも誘って皆で川遊びに行っていることだろう。


 少しでもこの暑さが和らげばいいのに、と思いながらレティシアはノートを置き、歴史書の続きを読もうと本に手を伸ばした。


「動かないで」


 ――静かな声。首筋に当てられたひやりとした感触。


 急なことに振り返ることもできず、レティシアは屈んだ姿勢のまま、その場に凍り付いたように停止した。

 この声には聞き覚えがある。そして、首筋に当たる冷たい金属の感触も。


「……ノルテ?」

「悪いけど、恨まないでね。これがわたしの使命だから」


 いつも陽気で弾けているノルテと同一人物だとは思えない、冷たく静かな声。

 その声よりさらに冷たく、レティシアの首筋に触れている感覚。


 一気に、去年の冬の出来事が脳裏に蘇る。真夏のセフィア城内の風景がぐにゃりと歪んで、古ぼけた暗い神殿の内部が目の前に広がった。


(あ……)


 狂ったように笑う金髪の少女が、レティシアに向かってレイピアを振りかざす。背後から圧巻に拘束されてのど元にナイフをかざされる。廃屋の窓から差し込む月光が、ナイフの長い刃渡りをぎらりと輝かせる。


 冷えた床に転がる女性の骸。胸から赤黒い血を迸らせて絶命した、中年女性。


 セレナの絶叫が、クラートの声が、思い出される。

 冷たい指先が、白いのどが、脳裏に焼き付く。

 あの匂いが、血の香りを含んだ風が、レティシアの体にまとわりつく――


「……レティ? え、ちょっと、泣いてるの? ごめん、冗談だから!」


 靄の彼方から響くのは、驚いたような、戸惑ったような少女の声。廃屋にはいないはずの、最近知り合ったばかりの少女騎士の声。


 一気に悪夢が晴れ、うだるような暑さの宿舎棟の廊下の風景が目の前に戻ってきた。ゆっくり背後を振り返ると、長い銀色の物体を持った黒髪の少女が。


「……え? ノルテ……」

「ご、ごめん。そんなにびっくりするとは思ってなくて……」


 明朗快活な彼女に似合わずしどろもどろに説明するノルテが右手に持つのは、鋭利なナイフ――ではなく、製図用に使われる金属製の定規。

 レティシアがぼうっとした眼差しでそれを見ているのを察し、ノルテは定規を自分の背後に隠してしゅんと項垂れた。


「その……レティも試験が近付いていて不安だろうし、なにより暑そうにしていたから、ちょっと頭をすっきりさせたげようと思って……本当にごめん!」


 レティシアはゆっくり瞬きし、おろおろと視線を彷徨わせながら謝罪する少女と、見え隠れする銀色の定規を交互に見てふっと、笑みを零した。


「ううん、気にしないで。おかげでちょっと涼しくなったから」

「……そう?」


 ノルテはしばし、レティシアの様子を窺うように目を彷徨わせた後、膝立ちでレティシアの隣に移動してちょこんと隣に腰掛けた。


 同じ廊下の同じ階段に腰掛けているのだが、改めて間近で見てみるとノルテはとても小柄で、細い。レティシアの目の高さにノルテのつむじがあり、体操座りをして両膝に添えられている手の平は何かの植物の葉かと思えるくらい小さい。

 この小さな手でドラゴンの手綱を操り、騎士の剣を扱っているのかと思うと、胸の奥がチリチリと焦げるような心苦しい思いになる。


「……わたしには姉がいるって、前にもぽろっと言ったと思うけど」


 徐にノルテが話しだしたため、レティシアは顔をそちらに向けて静かに先を促した。


「姉さんは私と違って跡取りだから、すっごく仕事で忙しくて。たまにこうやって、からかってたのよ。びっくりさせて、疲れも吹き飛ばしてやろうって思って。さっきみたいに背後に忍び寄って定規を当てようとするんだけど……」

「お姉さんの反応は?」

「いつも、首筋に当てる前にさっと定規を奪われて返り討ちにされるの。姉さんはわたし以上に剣の腕が立つから。おかげで模擬訓練でも一本も取れたことがないの」


 ノルテの姉、と聞かされてレティシアは漠然と、今隣にいるノルテがそのまま縦に伸びた姿を想像してみた。ノルテの姉もまた、妹のようにやんちゃで陽気な女性なのだろうか。それとも姉妹真逆で、落ち着いた包容力のある姉なのだろうか。


「ノルテのお姉さんも、バルバラの竜騎士団に入ってるってこと?」

「うん。うちは代々竜騎士の家系だし、それ以前にバルバラ国民の大半は竜騎士の素質を持ってるんだ。バルバラには陸上兵団……いわゆる普通の馬に乗る軍隊は存在しなくて。極寒の高山地帯にあるってのも理由なんだけど、陸路より空路の方が何かと便利なのよ。城の竜騎士団のドラゴンは戦闘用の子ばっかりだけど、性格が穏やかな子や産後体力が落ちた雌ドラゴンは市街地での運搬や配達用に乗られてるわ」


 故郷バルバラのことを語るノルテの顔は生き生きとしている。普段から天真爛漫なノルテだが、今の彼女は瞳の輝きが違う。澄んだサファイアのような双眸はきらきらと光を宿している。

 きっと今、ノルテの目の前には白銀の雪に覆われたバルバラ王国の風景が広がっているのだろう。


「そうそう、わたしがバルバラの女王陛下の命でここに来ているってこと、レティは確か近くで聞いてたよね」

「あ、うん」

「ティカ女王陛下は、わたしにもとても優しくしてくれるの。まだお若くて苦労なさる面も多いけれど、とても偉大な方よ。竜騎士団の団長でもあって、バルバラ国民の希望の星なの。絶対に追いつくことはできないだろうけど、わたしの永遠の憧れなのよ」


 そう語るノルテの眼差しは真っ直ぐで、強い。


「……そういえば、ノルテの家は貴族なの?」

「バルバラには貴族制度はないわ。わたしの両親は名のある竜騎士だったんだけど、わたしが小さい頃に二人とも、勤務地で死んでしまったの。わたしは当時まだ八つそこらだったから姉さんが話を聞いたそうだけれど、どうやら山岳地帯の蛮族討伐中、敵の弓矢を受けて母さんのドラゴンが落下したそうなの。で、母さんを助けようとした父さんも一緒に……。それからは女王陛下が面倒を見てくださったわ」


 自国の女王を語る時のノルテの口調はしっかりしている。才色兼備のティカ女王は、部下の竜騎士にも広く慕われているようだ。


 一年の大半が白銀の雪に包まれるバルバラ王国。リデルのように資金があるわけでも、オルドラントのような肥沃な大地があるわけでもない、辺境の国。若い身でありながらドラゴンに跨り、祖国を守り抜く女王とはどのような人物なのだろうか。


「……ノルテはやっぱり、女王陛下のためにここに来たの?」

「え?」


 何気ない質問だったが、不意打ちだったらしい。

 ノルテは弾かれたように振り向くとどんぐり眼を瞬かせ、微かに眉を寄せた。


「そりゃ、そうだけど……どうして?」

「いや、何となく……恩のある女王陛下から名指しの書状を貰うくらいだし、よほど敬愛しているんだろうし、女王陛下からも信頼されているんだろうな、って思って……」


(……あれ?)


 言ってからレティシアは、今の自分の発言に違和感を覚えた。

 何がおかしいのか、はっきりとは分からないが、自分の胸の奥の方で小さく、本当に微かに警鐘が鳴らされたように思われた。のどの奥に挟まった魚の小骨のように、何となくすっきりしない不安が、どこからともなく沸き上がってくる。


 顔をしかめるレティシアをよそに、ノルテはしばし考えるように黙した後、小さく肩を落としていつも通りの笑顔を浮かべた。


「もちろん。バルバラの竜騎士団とドラゴンは王家のためにあるのよ。女王陛下から給わった任務は必ず完遂する……それが騎士の役目なの」


 口調こそは明るいが、ノルテが浮かべる笑顔はどこか無理をしているようで、見ているこちらが切なくなってくる。


 レティシアより年下のはずの彼女は、時折幼い見た目に反して理知的な言葉を口にする。

 そして、今のようにひどく切なく……見てる方の胸が痛むような、哀しい笑顔を浮かべることがあった。


(ノルテは一体、何を抱えているんだろう)


 遠くの方で授業終了の鐘が鳴る。あ、とノルテは声を上げ、腰を上げて尻に付いた埃を手で払った。


「次、ディレン隊の仕事があるんだった。めんどくさいけどそろそろ出勤しないと、レイドに怒られちゃうからなぁ。おっかないよねぇ、レイド隊長って」

「次の仕事はどんなの?」

「くっそつまらない、下級生の監督。奴ら、わたしが小柄だからって舐めてくんのよ。おーい、チビちゃーんとか言ってきやがって。あー、あのおガキ共吹っ飛ばしてアンドロメダと一緒にお散歩したいなぁ」


 唾を吐くように悪態を付き、ノルテはぐるぐる腕を回して肩を柔らかくしながら階段を下りていった。


 ノルテの鈍色のマントが廊下の角を曲がって見えなくなり、授業を終えた少女たちの笑い声が聞こえるようになってふと、レティシアは疑問に思った。


 今回、ノルテが女王から受けた「任務」とは、一体何だったのだろうかと。

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