表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第2部 緑翼の乙女
42/188

緑翼の乙女 1

 ――大聖暦千七百七十年度夏期昇格試験の実施日を、夏の月七十五日、七十六日とする。


 事務室より昇格試験の日程が発表されてからは、セフィア城内の勉強意欲が一層高まったように思われた。昇格を目指す者はもちろんだが、今回は試験を受けない者たちも受験者の気迫に押され、いつも夏と冬のこの時期はほぼ全員が勉強家に生まれ変わるのだという。


 以前よりいっそう図書館の利用が難しくなり、とりあえず必要な本だけを借りて逃げるように宿舎棟へ戻ったレティシア。自分の部屋のドアを開け、うだるような熱気に当てられて細い眉毛がきつく寄せられる。


 夏の月も半ばを過ぎ、盆地に位置するセフィア城は冬は寒く、夏は暑い。大陸の中央部に位置するため湿度はそれほど高くないが、カリカリと乾いた熱風が吹き付け、薄い絹のローブが腕に張り付いてくる。しばらく前に夏服に衣替えしたものの、気温はルフト村の比ではない。ルフト村は水資源豊かな高地にあるため、夏は湿気を帯びた温い風が吹いてくる程度だったのだ。


 部屋に戻って教科書や図書館の本をテーブルに置き、ベランダ側の窓を素早く開けるとレティシアはサイドテーブルに据えていたガラス箱を手にした。箱の中央部に青色の魔石が据えられており、摘みを捻ると魔石が透明感を増し、ライトブルーの光のベールを纏いながら穏やかな冷気を放ち始めた。


 冬の間は魔道暖炉として活用していたこの魔具は、中の魔石を変えれば夏用の魔道冷房に変身する。魔道暖炉と同じく、普段の素行のよい者は定期的に魔石の魔力をチャージできるようになっている。つい最近、事務室の方から冷却用の魔石が配布されたのだ。

 セフィア城の訓練生用であるためあまり精度はよくないが、ガラス板に触れているだけでほのかな冷気が感じられ、体中に籠もっていた熱気がすっと抜けていくような、小さな快感に身を包まれた。


 レティシアはしばし、ガラス戸に腕を付けたり頬を張り付けたりして冷風を堪能した後、少し威力を弱めて部屋のテーブルに据えた。そろそろ部屋の温度も下がってきたので、次の授業までに借りた本でも読もうと積み重ねた本の中から手頃なものを引き抜いた。

 レティシアの自室は魔道冷房のおかげで過ごしやすいものの、窓の外は炎天下の真夏日が広がっている。青々と茂る新緑を擽らせるわずかな夏風を頼りに、グラウンドでは騎士団が訓練に勤しんでいるようだ。剣と剣がぶつかり合う音、少年たちの勇ましいかけ声が風に乗って耳に届いてくる。


(あの中にクラート様の声も混ざっているのかな)


 ここしばらく、昇格試験が近付いているためかクラートたちと話す機会もめっきり減ってしまった。教師役としてセレナは毎日指導してくれるのだが、反面騎士団の知り合いたちとは朝食の席でさえ一緒にできないことが多くなってきた。あちらもスケジュールが詰まっているのだそうだ。


『昇格試験には、私たち騎士団も試験官として参加するの。実際に試験問題や課題を作るのは先生方だけど、私たちも下読みや模擬試験をするから』


 先日、セレナが言っていたことを思い出した。そんな彼女も仕事が多いのだろうか、いつもより声に覇気がなく、髪もやや艶がなくなっていた。

 試験が終わったらまた、皆で話をしながら食事をしたいものだ。そう思いながら外の歓声に耳を傾けていたレティシアだったが。


 歴史書に記された戦争の記述を目で追うのを止め、レティシアは顔を上げて耳を澄ませた。

 外から漏れ聞こえてくる声の調子が変わった。先ほどまでは相手に斬りかかる威嚇の声や苦痛の声、教官が指示を飛ばす声が入り交じっていたのだが、今は驚いたような、恐怖の混じったような叫び声に移り変わっていた。


(……外で何か起きているの?)


 レティシアは本に栞を挟んで小脇に抱えたまま、窓辺に近寄った。遮光用のカーテンを微かに開け、グラウンドを眺める。


 日光が眩しく照りつけ、目に痛いくらい白い光を放つ白砂のグラウンド。練習の手を止め、一同に呆けたように天を仰ぐ騎士たち。宿舎棟から顔を出しているのはレティシアだけではなく、休憩中の女性魔道士や騎士たちも何事かと、ベランダから身を乗り出していた。

 やがて女性魔道士の一人が歓声を上げ、青く澄んだ空の一点を指さした。彼女の示す先を、レティシアもつられて見て――


(……! あれは……)


 小さく息を呑み、素早く部屋に戻ると本を投げ出すようにテーブルに置き、急ぎ部屋を飛び出した。


 宿舎棟の階段を駆け下りてグラウンドに出ると、既に広場は人だかりになっていた。外で訓練していた騎士たちはもちろん、近くの教室で講義を受けていた魔道士たちも一緒くたになってグラウンドに飛び出し、やんやの歓声を上げながらある者を取り囲んでいた。


 教師たちは興奮する若者たちを静めようと奮闘しているが、逆にその熱気に煽られて辟易しているようだ。

 小柄な域に入るレティシアは近くに寄るのを諦め、棟の玄関のポーチに上がって数段高いところからグラウンドを眺めた。


 生徒たちが取り囲んでいるのは、巨大な緑色の物体。馬車用の屈強な馬よりも大きく、艶やかな鱗に覆われた翼がこれ見よがしに我を主張している。

 レティシアの見間違いではなかった。あの、翼を持った巨大な生物がセフィア城の上空を駆け、グラウンドに着地したのだ。


「……何事ですの?」


 ぼうっと玄関ポーチに立つレティシアを押しのけるようにして、ツカツカとグラウンドに向かう女性魔道士。こんな暑い季節であるにも関わらず、日光を浴びて輝くプラチナブロンドは括りもせずに背中に垂らしている。


 クワイト魔道士団長の登場により、さすがに若者たちも我に返ったようだ。そして微かなざわめきの中、徐々に人垣が割れて花道ができあがった。その道を魔道士団長に向かって歩いてくるのは、緑色の生物と、小柄な人影。事実、自分の方へ注目の的がやってきたためレティシアは急いでポーチから降りて魔道士団長の背後に近付いた。


 緑色の生物は大人しく翼を畳み、鋭いかぎ爪の就いた足で器用に歩きながら小柄な人物に付き従っている。爬虫類めいた双眸をぎょろりと剥き、声には出さずとも威嚇するように周囲の騎士たちを見回している。見物客もその生物の近くには寄ってみるが触る勇気はないのだろう。皆、おっかなびっくりといった面持ちで目の前の見慣れぬ生物を観察していた。


 一方、小柄な人物は臆することなく堂々と花道を歩いてくる。

 レティシアよりさらに小さなその人間は細かな細工が施された白銀の軽鎧を身に纏っていた。両肩と胸部に円く加工したプレートが宛われ、筒のような金属板で両腕と脚だけを保護する仕様になっている、リデルやオルドラントではあまり見られない意匠の鎧。腰にはその背丈には不釣り合いなぐらい細くて長い剣を下げているため、鞘の先が地面を擦りそうになっていた。


 そして何よりレティシアたちを驚かせたのは、その鎧を纏った騎士が幼さ残る顔立ちの華奢な少女であったことだった。

 艶やかな黒髪を肩先で真っ直ぐ切りそろえており、くりくりとよく動く目は秋の晴天を映したかのような濃い青色。鎧の色に溶け込むような白い肌を持っており、そばかす一つない頬はつやつやと瑞々しく潤っている。


 愛らしい容姿だが、白銀の鎧を纏って歩み寄ってくる姿は「騎士」そのものであった。鋭い牙を持つ緑色の生物も、彼女に付き従っている。


(私より年下だろうけど……すごい、かっこいい)


 少女は魔道士団長の手前で立ち止まった。それに倣って、翼を持つ生物も大人しく立ち止まってその場に静かに四つ脚を突いて丸く伏せた。

 柳眉を吊り上げた魔道士団長が口を開くより早く、少女の薄桃色の唇が動く。


「どうも、おばさん。騎士団長って人はいる?」


 鈴の鳴るような可憐な声で堂々と発された、えげつない言葉。


 とたんにひそひそ声が絶えなかったグラウンドが水を打ったように静かになり、真夏のセフィア城の気温が数度下がったような錯覚さえ覚える。

 ぴしり、と魔道士団長の額に青筋が浮かぶ音が聞こえたような気がし、レティシアはそのまま、魔道士団長から離れるように右へ平行移動した。何か、聞いてはいけなかった言葉を聞いてしまったような気がする。


 だが少女騎士は静まりかえった周囲の気持ちに気付かないのか、魔道士団長が笑顔のまま凍り付いた理由が分からないのか、はたまた天然なのか、きょとんと可愛らしく首を傾げた。


「あれ? ひょっとして言葉が通じなかった? おばさん、騎士団長を呼んでくれる? ねえ、お・ば・さぁん!」


 堪らずレティシア含む十数名が吹き出し、遠慮も立場も忘れてげらげらと笑いだした。この少女、勇者か。


 グラウンドが大爆笑に包まれ、なおも少女が無邪気に「おばさん」連呼する中、連絡を受けたのか外の異変に気付いたのか、遅れて騎士団長がグラウンドへ向かってきた。

 壮年の逞しい騎士団長の姿を見、少女騎士の顔がぱあっと晴れ、魔道士団長の脇を通り抜けて騎士団長へと歩み寄る。必然的に、玄関ポーチ近くにいたレティシアの近くに来ることにもなった。


「あなたがセフィア城の騎士団長ね? わたし、こういう者ですわ」


 言い、少女は腰のベルトに下げたポーチから丸められた書状を取り出して、騎士団長にぽいと投げ渡した。

 れっきとした貴族の出であり、セフィア城の二大トップである騎士団長に対して無礼な行為であるが、騎士団長は気にした様子もなく、片手で書状を受け取ると黙ってその文面に目を通し始めた。


 騎士団長が書状を読み、侮辱された魔道士団長がわなわな震える中、若者たちはひそひそと声を上げる。


「やっぱりあれ、ドラゴンだよな? バルバラ王国にしか生息しないっていう、飛竜だよな……」

「じゃあ、あの小柄な女の子は竜騎士? 私、初めて竜騎士を見たわ……」

「俺、見たんだ。あの女の子がそこにいるドラゴンから降りてくる瞬間!」


 そこにいるドラゴン、は厳つい体つきをしており、軽く振るうだけで大の男をなぎ倒せそうなくらい頑丈な尾を持ち、一瞬でのど笛を掻き斬れそうな鋭い爪を持ち、あらゆるものを噛み砕きそうな牙を持っているのにも関わらず、猫のように丸くなってすやすやと眠っている。好奇心に満ちあふれた若い騎士たちが鱗を触っても気にするそぶりもなく、時々鼻の穴を膨らませながら静かに昼寝していた。


 騎士団長の目は何度も書状の文面を追い、同じ箇所を繰り返し読んでいるようだ。なかなか言葉を発さない騎士団長にいらいらしたのか、もしくはこの場にいる者が自分ではなくドラゴンや少女騎士に夢中になっていることが気にくわないのか、魔道士団長が甲高い声を上げた。


「書状には何が書いておりましたか、騎士団長? この無礼な小娘をどうなさるつもりですの?」

「うっさいなー、無礼なのはどっちよ、おばさん」


 すかさず少女騎士の声が割り込む。

 少女騎士はやれやれとばかりに薄い肩をすくめ、腰に手を当てると物分かりの悪い三歳児を諭すかのような口調で魔道士団長に声を掛けた。


「今、騎士団長に用があるのはわたしなの。おばさんじゃなくって、わ、た、し! おばさんはもう部屋に戻ってていいよぉ?」

「なっ! それがセフィア城侍従魔道士団長であるわたくしに対する態度ですの?」

「あ、魔道士団長だったんだ? ごっめんごめーん。じゃ、紫外線が気になるだろうし部屋に戻ってなよ。そろそろシミが気になる年じゃないの?」


 間違いない、この少女は勇者だ。


 若者たちが少女騎士を奇異の眼差しで見、魔道士団長が顔を真っ赤にして沸騰寸前になり、少女騎士が横目で魔道士団長を睨む。そんな光景を、レティシアは黙って見守っていた。

 魔道士であるレティシアにも見破れない、凶悪な結界が少女と魔道士団長の間を駆けめぐっているように思われたのだ。迂闊に手を出せば即死しそうな、何かが。


「……なるほど、そういうことか」


 冷静かつ穏やかな騎士団長の声に、その場を縛っていた呪縛が解けた。魔道士団長はすっと表情を戻し、たおやかな笑顔で騎士団長を振り返り見た。


「どういうことでしたの、団長?」

「バルバラ女王陛下からの書状だ。要するに、この少女竜騎士をセフィア城の騎士団員として置いてほしいそうだ」


 その言葉に、再びグラウンドが沸き返った。


(バルバラの女王陛下……)


 レティシアもまた、口の中でその名前を反芻して改めて少女騎士を見た。

 バルバラ王国を統べる国王のことは、書物や教師の話でしか聞いたことはなかった。


 一年の大半を雪に覆われて過ごすバルバラ王国の特徴は二点。世界で唯一竜騎士団を持ったドラゴンの国であること。代々女性が王位に就く女王の国であること。

 現在の女王の名は確か、ティカ女王といったはずだ。まだ若いが自身も優秀な竜騎士であり、才色兼備の麗しい女王陛下であると、魔道士仲間が話すのを聞いたことがある。

 そのバルバラ女王直々の書状であり、しかも目の前にいる少女騎士をセフィア城の騎士として認めてほしいという頼み事。


 少女騎士は書状の内容が最初から分かっていたのだろう。起伏のない胸を張り、自信満々な笑顔を浮かべる。


「まあ、うちにもいろいろ都合があるから。この愛竜のアンドロメダ共々よろしく頼むわ。そうゆうことでいい? 団長」

「了解した」


 拍子抜けるほどあっさり団長は頷き、書状を懐に入れて軽く頭を下げた。


「君のことは騎士団の者に任せよう。……ちなみに、君の名は?」

「ノルテ。バルバラ王国竜騎士団員のノルテ・ユベルチャっていうわ。よろしく」

「ああ、よろしく頼む」


 そのまま騎士団長と少女騎士ノルテはがっちり握手を交わし、団長が呼んだ数名の騎士によってノルテは宿舎棟へと案内されていった。それまで我関せずと昼寝していたドラゴンもむっくり体を起こし、屈強な見た目に反して大人しく主人の後を追っていった。


 教師たちの指示によってようやく生徒たちもそれぞれの教室に戻り始めた頃になって、魔道士団長が我に返ったようだ。彼女ははっと目を見開き、暑い中しっかり化粧の施された顔を苦悩で歪めた。


「な、なにゆえあのような下品な小娘をセフィア城に? ティカ女王は一体何をお考えですの……」


 そして背後からの視線を浴びたのか、ゆっくりとレティシアの方を振り返り見た。能面のようなその顔から、感情は読み取れない。


「……何か? レティシア・ルフト」

「いえ、なんでも」


 八つ当たりの対象にされてはたまらない。「汗で化粧が落ちてますよ」との注意は胸の内に秘めることにし、レティシアはいそいそと自室へと戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ