鋼鉄目指して 3
その夜。自室でセレナに勉強を教わっていたレティシアはふと、ノートを取る手を止めた。
「……そういえば今日、魔道士団長の授業があったんだ」
「へえ、クワイト様の」
セレナは分厚い辞書をめくりながら苦笑を零す。
「結構ずばずば言う方だったでしょう? 前任のポルド様は引退なさって、魔道士団長が礼儀作法の教壇に立つことになったのよ」
「本当に、ずばずば言ってきたわ。特に平民を吊し上げる感じで」
レティシアは詩歌の教科書を押しやり、脇に置いていたカップをぐいっと煽った。勉強を始めた直後に淹れた紅茶はすっかり冷めてしまっているが、のどがカリカリしていたレティシアにはちょうどよかった。
「魔道士団長は伯爵家出身なんでしょ? だからか、平民は気を付けろだの容姿が必要だの、自分には既に備わっているものをひけらかされている気がして……そりゃ、確かに話し方はうまいから、聞き入っちゃったけど……」
レティシアはクインエリア大司教の娘だが、農村生活が長かったこともあって本人に自覚は全くない。冬に実母と再会した時も、王座に座る女性が本当に自分の生みの母なのかと最後まで半信半疑の状態だった。
だからレティシアの気持ちは「平民」であり、伯爵令嬢として生まれた時から身分を約束された魔道士団長の言うことが、どうも素直に聞き入れられなかった。
セレナはしばし、ぶつぶつ言うレティシアを見つめていたがやがてぽつりと呟いた。
「……私は魔道士団長の言うことはとても正論だと思うの」
「セレナ?」
振り返った先にあるセレナの顔は前髪に隠れて半分ほど見えないが、口元はしっかりと真横に引き結ばれていた。
「おっしゃることは厳しいけれど……私のような平民出の魔道士が生き抜くための心得としては、間違っていないのよ」
「魔道士団長の肩を持つってこと?」
思わず、声に棘が混じってしまう。セレナはゆっくり面を起こし、夕闇の中でも映える暖かな茶色の目を瞬かせた。
その目に、今まで見たことのない寂しげな色が浮かんでおりレティシアはどきっとした。そして、セレナにそんな目をさせているのが自分だと遅れて悟り、指先がじわりと冷たくなる。
「そういうわけじゃないわ。確かに貴族出の魔道士団長は、私にはないものをたくさん持っている。もちろん、神殿生活が短かったレティシアにも、ないものをね。でも普通の貴族なら、わざわざ敵に塩を送る真似はしないでしょう? リデル王国は西のカーマル帝国ほど、貴族と平民の隔たりがあるわけじゃないわ。現に、一般市民が王宮に上がることだって可能なの。だから普通なら、自分たちの地位を奪いかねない平民を鍛え上げようとはしないはずよ」
セレナの正論に、レティシアはうっと言葉に詰まった。元々深い考えあっての発言ではなかったため、尤もなことを言われるとぐうの音も出なくなる。
「……魔道士団長は、伯爵家の立場が脅かされることを心配してないってこと?」
「まあ、してなくはないでしょうね。魔道士団長は現クワイト伯爵の妹だから直系ではないにしろ、ご自分の教え子が兄伯爵を蹴倒しても、手放しでは喜べないでしょうから。でも、それでも私たちにご教授下さるってことは、それだけ教育者としての自覚がお強い方ってことなのよ」
教育者、とレティシアは口の中で言葉を転がす。そして瑞々しい眉間に深い皺を寄せ、椅子の上で膝を抱えるようにして丸くなった。
「……魔道士団長を嫌うのは、早とちりだったかな」
「まあ、あなたの場合カウマー様と比べてしまうってのもあると思うけど」
思い出補正ね、とセレナはどこか上の空で付け加え、考え込むレティシアを一瞥して目元を緩ませた。
「それに、いくら魔道士団長が善意に溢れた教育者だとしても、万人に好まれるわけじゃないわ。ひょっとしたらレティシアと魔道士団長の相性は事実、よくないかもしれないけれど……一時間二時間会っただけで初対面の人のことを知り尽くせ、っていうのも無理な話だし、考え込む必要はないわよ。私だって初見で少し、魔道士団長を敬遠しちゃったくらいだもの」
「そうなんだ……」
「親しい、親しくないはこれから定めていけばいいのよ」
そしてセレナは面を上げ、「この話はここまで」とばかりに手を叩いた。
「さあ、それじゃあ今日の復習に戻りましょう……カーマル帝国建国時の所だったかしら」
「あ、うん。創始者ロムルスの法案に対する反対勢力の抗争について……」
セレナが読み上げる資料の内容を筆記しながらも、レティシアの脳裏からは優しく微笑むロザリンドの最期と、妖しいクワイト魔道士団長の笑みが離れなかった。
魔道実践の授業も、面子は少々変動しているが授業内容自体に大きな違いはない。基本は十五歳前後のライトマージを対象にしているため、レティシアたちにとっては普段と変わらないが、ライトマージに上がったばかりの年少者にとっては多少困難に感じることもあるようだ。
「メイ・ルーゼン。肩の力を張りすぎです」
教壇から教師の声が飛び、レティシアの手前の席にいた少女がびくっと身を震わせた。
レティシアはそんな彼女に軽く視線を寄越した後、今回の課題に視線を戻した。
今日の課題は「液体の成分を判別する」こと。生徒四、五人につき一セットの教材が与えられており、レティシアも他の生徒と一緒に六つ並んだ試験管を見つめていた。
バットの上に並んだ試験管と、その中に湛えられた液体。六本のうち、五つはただの水であり、一本だけに塩酸が入っていると前の黒板に書かれている。要するに、舐めたり触ったりせずに塩酸がどの試験管に入っているのか、魔法で判断すればよいのだ。
「よろしいですか。今回は危険物を察知し、危機を回避する手段を勉強しているのです」
四十代半ばと思えるきりっとした眼差しの女性教師が、机間巡視しつつはきはきと言う。
「世の中には塩酸よりももっと危険な液体や劇薬、薬物が存在します。それも、高度になればなるほど、魔法での判断も困難になります」
言い、教師は手近なテーブルに近付き、魔道士たちが見守る中、試験管に手を翳した。彼女の体からエメラルドグリーンの光が溢れ、六本ある試験管のうち、右端のものがぼうっと赤色に光りだした。
「今回は比較的判断が容易な塩酸であり、しかも水と塩酸を見分けるというところが前提となっているため、難易度も低いのです」
教師は今し方自分が判別した試験管を魔法でひょいひょいと順番を入れ替え、金色のマントを翻しながら教壇に戻る。
「さあ、もう一度やってみなさい。危険物の入っている試験管を赤く光らせられれば合格です」
レティシアのテーブルの魔道士たちも、腕まくりして試験管に詰め寄る。
「ようっし、まず俺からいくぞ」
「モーリス、ちゃんとできるの?」
「ガラス爆破させないでくれよ」
「分かってら!」
少年魔道士モーリスは不安顔の仲間にニッと笑いかけ、試験管の正面に立って両手の平を翳した。
レティシアと同じグループにいるのは、いずれも冬の昇格試験でライトマージになったばかりの年下の魔道士ばかりだった。彼ら同士は面識もあるらしく、和気あいあいと話しながら課題に取り組んでいた。レティシアはそんな彼らから少し距離を置き、実践の順番も譲ってやっていた。
(そうしないとみんなも遠慮するよね)
好奇心旺盛、ライトマージの授業に新鮮味を感じている下級生たちに、先輩として威張り散らすのは気が引けた。そもそも侍従魔道士団には先輩後輩の確固とした関係は薄い。「先輩に順番を譲れ!」という常識は、ここでは通用しない。
少しは大人になれただろうか。そう思いながらレティシアは手持ちの教科書に目を落とした。と――
「わわわ! おいモーリス! なんで試験管が膨らむんだ!」
慌てた声。はっとして顔を起こすと、試験管から距離を置こうとする班員と、呆然とするしかできないモーリス。そして、レティシアが見ているうちに体積を増してゆく試験管。
最初はソーセージ程度の太さだったガラス管がすくすくと膨張し、今や成人男性の二の腕に勝るとも劣らないくらいにまで肥大化している。
うわー! と叫ぶモーリス。危険を察して駆けてくる教師。テーブルから逃げだすその他クラスメート。
(こういう時は、確か……)
さっと教科書を置き、レティシアは立ち上がった。その体が淡い金色の光の粉を纏い、高く挙げた右手が振り下ろされると、膨張する試験管を囲むようにボール大の防護膜が現れた。
最初は淡い繭のようだった防護膜はすぐに厚みを増し、完全に試験管の姿が見えなくなった、瞬間――
パン! とガラスが砕ける音。防護膜の中で小爆発が起き、周囲の生徒たちがびくっとする中、教師は冷静に防護膜に歩み寄ってテーブルに紙製の箱を置き、そっと小さなボールを解除した。
膜が割れて中からこぼれ出たのは、粉々になった試験管の破片。液体に濡れた破片が全て箱に収まるのを見届け、教師は顔を起こした。
「……モーリス・ベルディ。今回私が命じたのは『危険物判断魔法』であり、『膨張魔法』ではありませんが」
「……は、はい」
対するモーリスは萎縮しきってしまい、テーブルの端にしがみついて今にも泣きだしそうに頷くしかできなかった。
「すみません……その」
「構いません。失敗は誰にでもあるものです。それより」
そこで教師はゆっくりと視線を反らし、じっとその場に佇んでいたレティシアを見つめた。
「レティシア・ルフトに一言、礼を言うべきではないですか。彼女が賢明な判断をしたからこそ、あなたがガラスの破片を被らずに済んだのですよ」
教師は箱を抱えて教壇に戻り、すぐに新しい試験管を持ってきた。モーリスはちらとレティシアに視線を送り、「すみませんでした」と言うとそれっきり、椅子に深く座って意気消沈モードに入ってしまった。
「さて、まだどこのテーブルでも成功した人はいないようですね」
教師の声が、しんみりとした教室内に響く。
「お急ぎなさい。かといって焦る必要はありません。決められた時間内で課題をこなすこと、何があろうと動じない心を保つことも、スティールマージとなる上では必要なのですよ」
授業の後、帰り支度をしていたレティシアを、教師が壇上から呼んだ。
「先ほどはありがとうございました。機転の利いた行動に感謝しております」
開口一番に感謝の言葉を述べられ、レティシアは恐縮して教壇の前で頭を下げた。
「いえ、とっさの判断でしたし、後で考えるともっとよい解決策があったのかもしれません」
「確かに、先ほどの状況では幾通りもの解決策がありました」
教師は軽く首を傾げ、レティシアの意見に肯定を表した。
「例えば……そうですね。膨張魔法を終わらせる『魔道停止』や、物体の動きを止める『動作停止魔法』、逆に試験管を縮める『縮小魔法』など、膨張したガラスの飛散を防ぐための方法は他にも思いつきます。かといってあなたの施した防護膜が不適当な処置だとは思えませんし、あなたが気にする必要はないと思うのですが」
逆に問われ、レティシアはちらと、教卓の隅に置かれた紙の箱を見やった。中にはまだ、きらきらと光るガラスの破片が入っていた。
「そうですが、もうちょっと他の魔法を思いついていれば、ガラスを割って試験管を無駄にしない方法もあったかもしれないな、と思っちゃいまして……」
「……最善の策を取りたかったというのですね」
ふむ、と教師は顎に手をやり、角張った顎の骨の感触を確かめるように撫でた。
「……あなたは聡い魔道士です。あなたの言う通り、今回はガラスの試験管が破裂するだけで済んだのですが……もし、これが生身の人間であったら。そう仮定した場合、あなたは後悔するでは済まなかったでしょうからね」
いきなり提示された、物騒極まりない例え話。だが教師はレティシアがうすうすと不安に感じていたことを的確に言葉にしてくれた。
レティシアはこっくりと頷き、後ろ手に手の平の汗をローブで拭った。
「もしこれが、人の命を左右する重大な分岐点であった場合……多勢のために一人を犠牲にするというのは、何とも後味の悪い話です。あの時別の魔法を使っていれば、誰も犠牲にすることなく場を切り抜けられたかもしれない。……そういうことでしょうか」
「……考えすぎでしょうか」
「何を。賢明で、他人想いだという証拠です」
教師はレティシアの危惧を一言で払拭し、胸の前で腕を組んでじっとレティシアと視線を合わせた。
「もう一度言います。私は今回の件、とてもあなたに感謝しています。同時に、予想していなかった状況に対して冷静に行動できたあなたの勇気と判断力を、高く評価したいです」
今後も一層の精進を、と言い残し、教師は静かに教室を後にした。
レティシアはほっそりした教師の背中を見送り、誰もいない教室を見回し、もう一度教卓の上の紙箱を見た。
ガラスの破片に付着した、微かな水滴。
ふと思いついて、レティシアはそっと手を持ち上げて紙箱に翳した。微かに溢れる金色の光を受け、怪しげな赤色に染まるガラスの破片。
(……私の判断は間違ってなかったよね)
ふうっと大きく息をつき、レティシアはテーブルに戻って自分の荷物を集めると足早に教室を出ていった。




