新しい魔道士団長 1
極寒の季節を越え、命芽吹く季節を迎えたリデルの大地は瑞々しく潤い、草原を吹き渡る風も優しい。年代を感じさせる木橋が跨ぐ小川には時折、魚たちが自慢の鱗を日光に向かってきらきらと輝かせていた。
無駄な草を切り払い軽く地面をならしただけの馬車道を、ぽっくりぽっくりと一台の馬車が通っていく。貴人が乗るような豪奢な天蓋付きの馬車ではなく、二頭の駄馬によって曳かれる、幌付きの荷馬車。進むたびに粗末な板がギシギシ軋み、つぎはぎの目立つ幌が小刻みに揺れる。リデル王国の一般市民がよく使う、リデル王国国内専用貸し出し馬車だ。
その御者台では、手綱を取る少年御者の他にもう一人、乗客がいた。彼女は、石ころを踏んづけてはゆらゆらと危なっかしく揺れる馬車から振り落とされないよう注意しながら、膝の上に置いた本に没頭している。唇に左手を添え、時折右手でページをめくる以外、動きらしい動きはない。
「……お嬢さん、本を読むなら中で読めばいいのに」
少女とさして年の変わらなさそうな御者が首を捻って言う。彼は数時間前にとある町で客引きをしていて、この少女を乗せたのだ。彼女は荷物だけ幌の中に入れると自分は御者台にさっさと乗り、行き先と代金の半額を支払うとそれっきり、手持ちの本に没頭していたのだ。
少女は御者の声を受けて顔を上げ、ひどく意外そうに茶色の目を瞬かせた。
「ひょっとして私が隣にいると邪魔だった?」
少女の声は、彼が知るどの少女よりも澄んでおり、春の小川のように心地よい音色を持っていた。
御者はぽりぽり頭を掻き、少女の整った顔からわずかに視線を反らした。
「いや、そうじゃないけど……ほら、この道って見ての通り、煉瓦や石で舗装されてないじゃん。砂埃とかが上がるから、中に入った方がいいと思ったんだけど」
「ありがとう。でも大丈夫。私はお天道様の下にいる方が好きだから」
少女は夕焼け雲のような明るいオレンジ色の髪を掻き上げて笑い、ずっしり重そうな本を手の平でなぞった。
「それに、この本は借り物だから早く読まないといけないの。もう、十回くらいは読んだけれど見納めで一読しておきたくって」
御者は目を瞬かせ、先ほどから気になっていた少女の本に目を落とした。自分が持っている書物とは全く装丁が違い、重々しい雰囲気がある。ちらと文面を見てみても、彼が知らない単語が羅列されていた。読み書きなど、最低限の教育しか受けていない彼には到底理解できそうになかった。
少年御者は日に焼けて皮が剥けた鼻筋に皺を寄せた。
「……それってやっぱり魔道の本?」
「うん。友だちから借りたの」
「目的地がセフィア城っていうし、ひょっとして魔道士になるの?」
「なるというか……もうなっているんだけどね」
少女は目を瞬かせた御者を見、ちょっと待って、と一旦馬車の幌の中に引っ込み、すぐに薄黄色の布を抱えて御者台に戻ってきた。
「これは私が貰った魔道士のマント。薄黄色だからライトマージっていって……ちょっといろいろあって、お暇を貰っていたのよ。これから城に戻って勉強を再開するつもり」
世界最大の領土を構える軍事国家であり、西の帝国カーマルと匹敵する歴史を誇る、リデル王国。各諸国と同じように、この国も魔道士と騎士の養成機関を備えている。
その中でも最も一般的で名も高いのが、今から少女が向かう先のセフィア城。十二歳の少年少女が入学を許可され、リデル王都アバディーンで働くため、自分の領地を善く治めるため、はたまた花嫁修業のため、勉学に励む場であった。
基本的にセフィア城は身分を問わず入学を受け入れており、特に騎士団の方はやる気さえあれば入団できる。十代前半の子どもならば、入学時点で武術の才能がなくても十分に成長する可能性を秘めているのだ。
一方侍従魔道士団の方は、生まれつきの才能が第一に問われる。魔道の適性がない者はどう足掻いても魔道士にはなれない。後天的な魔道の才能はあり得ないのだ。
魔道士は必ずしも、魔道士の親の元に生まれるとは限らない。非魔道士の両親の元にぽっかりと魔道士の子が生まれることも珍しくない。そのため無名の町娘が偉大な魔道士になることも十分あり得るのだ。
「……うわ、初めて見た」
御者は太陽光を浴びて燦然と輝くマントに一瞬目を奪われ、そしてはっと気が付いたように手綱を握り直した。
「いいな……オレ、もし魔法の適性があったら魔道士になりたかったんだ」
「そうなの……アバディーンに仕官したいとか?」
「いや、魔法が使えたら故郷のみんなのためになるかな、って」
そして御者はのどを反らせ、どこか遠くを見るような目で遥か彼方の山脈の方を見やった。
「オレの故郷は貧乏ってわけじゃないけど、土地が痩せていて。幸い畜産業で栄えてるんだけど、野菜は全くなんだ。だから魔道士になって雨を降らせたり、火を起こせたら……。あと、病気になった村人がいても、魔道士がいれば大金叩いて街の医者を呼ばなくても済む。魔道士になって、たくさん勉強して村に帰ったら、きっとみんなの役に立てるだろうな、ってな……」
ぼんやりと夢を見るような口調の御者を、少女はじっと見つめていた。その優しい茶色の目が揺れ、唇が綻ぶ。
「……そうなの。私と同じね。私も立派な魔道士になったら故郷に帰るの。うちはあなたの故郷とは逆に農業が盛んだけど……生活がもっと楽になったらいいな、って思うわ」
「だよな、そうだよな!」
御者は賛同が得られて嬉しいのか、似たような故郷を持つ客に気をよくしたのか、そばかすの浮いた頬を緩めてうんうん頷いた。元々子どもっぽい顔立ちをしているが、笑うと余計に幼く見える。
「オレ、魔法の適性ないのは悔しいしお嬢さんが羨ましいけど、応援するよ。なんなら、セフィア城を出たら一度うちの故郷にも寄ってよ。うちのばあちゃんたち、魔法が見たくて見たくて仕方がないんだ。死ぬまでに一度、両手から炎を出す姿を見てみたいんだとさ」
「うん、いいわよ。なんていう村?」
「パルク村。カルティー子爵領の南の端っこにあって……」
少年御者と少女魔道士の声を春風に乗せながら、馬車はゆっくり道を下ってゆく。
セフィア城は年若い者たちが集う城であり、勉学第一のため周囲に繁華街や商店は見あたらない。あるのは豊かな森林と、なだらかな平地のみ。一番近い町まで行くのにも馬が必要で、娯楽とは縁のない場所であることは確かだ。
灰色にくすんだ色気のない城壁が見え、少女はふうっと吐息を吐き出した。そして膝に乗せていた魔道書を閉じ、上着代わりのケープを被り直す。
「見えてきたわね。ああ、懐かしい……」
「確か途中までは馬車で入れたよな。そこまで乗り付けるから」
すっかり打ち解けた御者が明るく言って手綱を引く。
だが。
「……え? 検問?」
見張り窓が取り付けられた城壁に掛けられた札を見、少女だけでなく御者も眉を吊り上げた。夜間のみ鉄門が閉まり、日中も衛士が数名いるだけであった城門は午前中だというのにしっかり門が閉まっていた。
「おっかしいな……前に来たときは検問なんかなかったのに」
「ええ……私が最初に来たときは普通に入れたし、出るときも……」
「そこの馬車、止まれ!」
真新しい検問を馬車がくぐろうとしたとき。城壁の内部に通じるように据えられたドアが開いて軽装な鎧を纏った衛士が出てきた。きっとドアに監視用の小窓が付いていて、ずっと馬車の動きを見ていたのだろう。
合計四人出てきた衛士は全員、身の丈ほどの鉄の槍を構えている。ぱっと見た感じでは、衛士の中に知った顔はない。
衛士はおっかなびっくりする御者と少女を見、少女の方に視線を寄越した。
「……新規入団希望者か? 名を名乗れ」
「セフィア城侍従魔道士見習レティシアです。休暇から帰りました」
尊大な衛士の口調にムッとしつつ、少女は名乗って肩に掛けた薄黄色のマントを示した。
「一応、事務所の方に無期限休学届けを出したんですけど……」
「魔道士の方だったか」
衛士は幾分態度を和らげ、今にも前方へ突き出そうとしていた槍の先をわずかに引っ込めた。
「では、証明書の提示を願おう。事務所に確認するのは、身分証明書を改めてからだ」
「……証明書?」
少女――レティシア・ルフトは目を丸くし、幌の中を探ろうと浮かしかけた腰をすぐに下ろした。
「いえ、私そんなもの持ってませんけど……」
「持っていないはずはなかろう。現在侍従魔道士団の者は全員、身分証明書を交付されている。近頃世の中も物騒で、城の警備を強化したと――魔道士団長から聞いていないのか?」
魔道士団長、と聞いてレティシアの顔が歪む。
彼女はしばし瞑目した後、緩く首を振った。
「何も……というか、いつから証明書が使われるようになったの?」
「今年に入ってからだ」
「今年?」
衛士の答えにレティシアは眉を寄せる。つい先ほどまで沈痛な面持ちだったのが一転して、疑わしげな表情になる。
「……私は春の初めにここを出たのよ。だから持ってるはずないわよ」
「知らぬ。持っていないのならばここを通すわけにはいかない。魔道士団長の命令なのでな」
と言い、攻撃態勢を緩めていた衛士たちは一斉に槍を構えた。おろおろ傍観するのみだった御者がヒッと息を呑み、馬たちも不穏な空気を察して忙しなく鼻を鳴らせる。
レティシアは顔をしかめ、豊かなオレンジ色の髪を振るって御者台から身を乗り出した。
「ないものはないのよ! というか魔道士団長って誰よ! ロザリンドは……」
「部外者に答える義理はない」
「じゃあ事務長を呼んで! あの丸っこい……名前は知らないけど、あの人を呼べば休暇届を出してくれるはずよ! 私がサインしているもの!」
「身分証明書を持たない者に、そうそう事務長を会わせるわけにはいかない」
「なによ、じゃあその魔道士団長ってのをここに呼んでよ!」
「魔道士団長はそこまでお暇ではない!」
屈強な衛士に折れることなく言い募るレティシア。
彼女が憤慨して御者台から飛び降りようとした矢先、セフィア城の城壁を揺るがすような鐘の音が鳴り響いた。
懐かしい、終業のチャイム。
レティシアが微かに目元を緩ませていると、授業を終えた少年たちが荷物を背負い、ぞろぞろと城内の歩道を歩いているのが見えた。全員、背中に埃っぽい緑色のマントを羽織っていることから、セフィア城の騎士団階級の下から二番目、シニアナイトであることが察せられる。
疲れた表情でグラウンドから城内へ戻る少年騎士見習たち。彼らの最後尾について悠然と歩く赤い髪の騎士。
はっと息を呑み、レティシアは御者台から滑り降りると衛士を肘で押しのけ、あらん限りの声を張り上げた。
「……レイド隊長! ちょっと……助けてーー!」




