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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第2部 緑翼の乙女
32/188

リデル北部の山岳地帯にて

 しとしとと雨が降る。

 天から降り注ぐものが雪から雨に変わったこの季節だが空からの恵みは肌寒く、屋根に当たった雨音が家屋に寂しくこだまする。人々が早めに就寝した村では、はずれにある宿場施設から漏れる明かりだけが、小さな月のように周囲を柔らかく照らしていた。


 女将は編み物をする手を止め、そっと窓の外を見やった。今日は客の入りが寂しい。雨が降れば、駆け込みで宿にやってくる旅人がいるものなのだが。

 止む気配もなく雨が降り続き、辺りがとっぷりと夜色に染まってしまった以上、新しい客は望めないだろう。


 女将は編み物一式をテーブルに置き、ううん、と大きく背伸びした。長時間かがんでいたせいで悲鳴を上げる腰に鞭打ち、宿の門を閉めようと腰を上げた、そこへ。


 元気よく鳴り響くベルの音。

 ドアの窓ガラスにぼんやりと映る、小柄な人影。


 おや、と思いつつ女将は椅子の背もたれに掛けていたエプロンを身につけ、宿のドアを開けた。


「はいはい、お待たせしました」


 長らく発声していなかったため少々裏返った声で歓迎の言葉を掛け、女将は本日最後の客を見た。


 雨が降る中、玄関ポーチ前にぽつんと佇む人物。革をなめして作った防寒用コートに身を包み、ごつめのファーの付いたフードを目深に被っているため表情は窺えない。雨の中長旅をしてきたのだろう、コートはぐっしょりと濡れて雨水をタイル床に滴らせ、小さな手に握っている荷袋も重そうに水を吸っている。寒いのか、荷紐を掴む小さな手は蝋細工のように真っ白で、微かに震えている。

 客人のあまりの小ささに女将は一瞬、迷い子かと太い眉をひそめたが、その腰に細身の剣が下がってるのを見て、納得したように頷いた。


「旅の傭兵さんかな。若いのにご苦労だね」

「うん、まあね。ご迷惑お掛けするわ」


 その声を聞き、女将は再び眉根を寄せた。小柄な少年だとばかり思っていたのだが、今発されたのは間違いなく、少女のそれ。

 細身で肉付きの少ない体を持つ少女はフードの端を摘み上げ、きらきらと元気よく輝くブルーの目を覗かせた。白磁の頬にも雨粒が滴っているが彼女の目だけ、雪原に咲いた花のような存在感を醸し出していた。


「そういうわけでお姉さん、一泊いいかな? あ、ひょっとしてもう閉店しちゃった?」

「いや、大丈夫。お入り、まずは風呂にでも入らないと」


 女将は快く少女の宿泊申請を受け入れ、念のため風呂を沸かし直してよかった、と内心安堵した。客によって贔屓するつもりはないが、自分の娘と同じ年頃とおぼしき少女を凍えさせるのは胸が痛んだ。


「風呂場はあっち、二つ目の扉の奥だよ。荷物はとりあえずロビーに置いておいて……あ、ちょっと待って。あんた、馬とかは?」


 この少女旅人は一人でやって来た。だがこんなに華奢な少女が歩いてこの山岳地帯の村に来るとは思えないし、大きな荷袋を担いで山登りできるものでもない。

 女将は馬をどこかに繋いでいると思って声を掛けたのだが、少女はロビーの真ん中で立ち止まると振り返り、にっと白い歯を見せて笑った。


「お気遣いありがとう。でも大丈夫」


 そしていたずらっ子のように笑い、悠々と風呂場の方へと歩いていった。


「うちのアンドロメダは、雨で弱るほどヤワじゃないからね」












 女将は少女旅人が風呂に入っている間にシチューを温め直し、がらんとした小さな食堂も簡単に掃除した。タオルを頭から被った少女は食堂に入るなり、感嘆を上げた。

 テーブルクロスの中央にはほかほかのシチューがお待ちかねし、地元の野菜をふんだんに使った温野菜のサラダにバスケットに盛ったパン。未成年用のアルコール抜きのホットドリンクも鎮座している。


「すごいね、お姉さん! シチューおいしそう!」

「もちろんうまいとも。さあ、冷めないうちに食べなさい」

「はあい、いただきます!」


 食前の祈りを捧げ、勢いよくシチューにがっつく少女を、女将はテーブルの反対側でしげしげと観察していた。


 風呂上がりのため、湿気を帯びて艶やかに輝く黒髪に、無邪気に輝く大きな青色の目。険しい山岳地帯を越えてきたとは思えないくらい、細くて華奢な体つき。おそらく十代中頃なのだろうが、驚くほど幼い見た目をしており、言動も子ども染みている。


「んー、おいし! お姉さん、このシチュー本当においしいね!」


 考えに浸っていたため女将は一拍遅れて顔を上げ、にっと笑った。自作の料理を褒められるのは幸福なことだ。


「そうかい? そりゃあ作った甲斐があったってもんだよ」

「うん、でもまあ、うちの姉さんの作ったシチューの方が美味だけどね」

「あはは、お姉さんの手料理と比べられちゃあ堪んないね」


 少女は上機嫌に笑い、固い白パンで器に付いたシチューも全て拭って食し、ホットドリンクも一気に煽って至福の吐息を漏らした。


「ああ……満腹って本当に幸せなことよね。遥々旅してきて余計に食事のありがたみが身に染みるわぁ。野宿の間は温かいご飯なんて、そうそうありつけないからね」

「確かに、こんな山奥の村に来るんだから、相当長旅だったろうね」

「うん。わたしはリデル王国のセフィア城ってとこに行く途中なのよ」


 少女がデザートのフルーツをつつきながら答えたため、女将は目を丸くした。


 この村はリデル王国の北の端、バルバラ王国と国境を接する山岳地帯に位置している。村を縦断するようにして伸びる山道を北に下ればバルバラ領土、南に向かえばリデル王国に出ることになる。

 村はぎりぎりリデル王国側に属するが、他諸国との国境も近いため異国の旅人も頻繁に訪れる。そして彼らの目的地がリデル王国のセフィア城だと分かれば、目的は簡単に予想できる。


「お嬢さん、さてはセフィア城で修行するんだね。魔道士の方?」

「いや、これでも騎士よ」


 言い、少女は食堂の壁に立てかけている剣を手で示す。鞘入りの剣もかなり雨の被害を受けており、いまだぽたぽたとタイルの上に水滴を滴らせている。

 ああそうだった、と呟いて女将は少女騎士の方に視線を戻した。


「わたしはリデルの人間じゃないけど、セフィア城ってのは全国でも有名な騎士育成機関だし。ちょっくら修行しようと思うのよ。残念ながらわたしは魔法の適性がからっきしでね。剣の方で生きていこうと思案中なのだわ」


 ふーん、と女将は相槌を打つ。この少女は子どものような話し方の割に、喋る内容はしっかりしており、口調も淀みなくはきはきしている。それになかなか話がうまく、女将の方も喋りやすい。

 不思議な少女だ、と女将は思った。


「そうか……じゃあセフィア城までまだまだ長旅になるだろうし、今日はうちでしっかり体を休めなさい。きっと明日の朝には雨は止むだろうからね」

「ええ、頼んだわ」










 雨は深夜過ぎまで降り続いたがだんだん勢いを緩め、東の空が明るみ始める頃には雨雲もすっかり消え失せて、清々しい初春の風を送り出していた。

 宿の軒先からぴたぴたと垂れ落ちる雨の滴が朝日に眩しい中、女将は少女旅人の出発を見届けるべく宿のポーチに立っていた。


「お姉さん、あんなにおいしいシチューとふかふかのベッドなのに、格安でいいの?」


 革の財布を荷袋にしまって、少女が小首を傾げて問う。彼女は朝食の後に請求された宿代を見て露骨に顔をしかめたのだ。これでは安すぎるのではないか、と。


「気にしなさんな。一応うちは未成年の宿泊客は割引ってことになってるんだ。あんたとはなかなか楽しい話もできたし、お金に関しては気にしなくていいよ」


 女将は本心からそう答えた。彼女も接客業を営む者として、客に好き嫌いしないよう心がけてはいる。それでも無礼な客が来たら嫌だし、おおらかで気さくな客であればいつもよりオマケしたくなるのだ。


「どうしてもって言うんなら……そうだねぇ、あんたが無事にセフィア城で修行を終えて故郷に帰るときに、またうちに寄ってくれよ。あんたの武勇伝を聞きたいからね」


 とたんに少女は顔を綻ばせ、うんうんと嬉しそうに頷いた。


「了解! じゃあ……いつになるか分からないけど絶対、この村にまた来るから! それでチャラにしてね」

「ああ、待ってるよ」


 さっと朝日が差し込んでくる。少女の烏のような黒髪が朝日を浴びて淡い金色に輝く。

 ふと、女将は思い出したように手を打った。


「そうそう、あんた馬は大丈夫って言ったよね。どこかに預けてたのかい?」

「いや、森で待っててもらったのよ」


 あっけらかんと少女は言う。そして驚く女将にほほえみかけ、晴れ渡った空を仰いでひとつ、口笛を吹いた。


「うちの相棒の名前はアンドロメダ。わたしの最高のパートナーよ」


 そう言う少女の体を風が包み込む。朝焼けに包まれる宿を一瞬、黒い影が包み込んで、彼女の「相棒」が姿を現した。


 女将はいきなり登場した物騒な「相棒」を見て一瞬、息を呑んで絶句したがすぐに事情を理解したのだろう。手早く旅支度をする少女を見、やられた、とばかりに肩を落とした。


「最後の最後であたしをびっくりさせないでくれよ」

「ごめんね、お姉さん。ちょっと説明が面倒だったからぁ」


 言いながら少女は「相棒」に手綱を付け、荷袋を括りつけてひょいとその背に乗る。


「じゃあね、行ってきます、お姉さん」

「ああ、いってらっしゃい、お嬢さん」


 疲れた笑顔で手を振る女将にもう一度、ほほえみかけて少女は「相棒」に声を掛けると手綱を手前に引いた。


 再び風が巻き起こり、少女を乗せた「相棒」は空高く、南の空へと飛び去っていった。

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