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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第1部 黄昏の魔女
31/188

春色の風の中で 3

「あなたは今まで接した多くの人によって、大きくなったのね。ルフト村の皆様や、リデルでのお友だち、そしてロザリンド――あなたは父とも母とも、フェリシアとも違う良さを持っているのよ。このクインエリアで育ったのでは決して手に入れられなかったたくさんの宝物――それが、あなたの体に詰まっているのね」


 マリーシャは虚ろな目をぐるりと回し、当惑の表情を浮かべるレティシアに微笑みかけた。

 今にも崩れて砂塵と化しそうな、脆い笑顔で。


「本音を言いますと――そのようなあなたがこのクインエリアに来てくれると聞き、とても驚きましたの。ねえ、レティシア。あなたはこれからどうしたいの? わたくしと――母と一緒にいてくれるのですか?」


 マリーシャの言葉は問いかけ文で発せられたが、「そうだと言ってほしい」とその靄掛かった目が訴えていた。長女のように何者かに狙われることなく、聖都で皆に守られながら共に暮らしたいと。


 だがレティシアは分かっていた。母の目はレティシアではなく、レティシアを貫通した遥か彼方を見つめているのだと。

 きっと最愛の夫と愛らしい娘が待っているだろう、現世の者では掴むことができない世界へと。


 マリーシャの望みが分かり、レティシアは一歩後退した。支えを失って力なく垂れた細い腕を一瞥し、夕焼け色の髪を振るう。


「……私はクインエリアにいるべき身ではありません。私はレティシア・ルフト。オルドラント公国ルフト村の村娘。村一番の別嬪と言われ、泥だらけのイモを掘り出すことが特技の――それだけの、小娘です」


 すうっと、息を吸う。

 クインエリアに満ちる清純な空気はレティシアの体にとっては毒だったが、胸を膨らませてレティシアは朗々と告げた。


「……私は大司教になるつもりはありません。侍従魔道士団を出たとしても、クインエリアに来るつもりもなく、あなたを……母として見ることもできません」


 ごめんなさい、と機械的に頭を下げるレティシア。レティシアとマリーシャ以外は席を外しているため、彼女の暴言を咎める者はいない。

 マリーシャもまた、娘がそう言い出すことをある程度予測していたのだろう。膝の上で重ねた手の小指を微かに揺らしたのみで、悠然と微笑んでレティシアを見つめる。


「前者の方は――そうですね。あなたはクインエリアに留まる器ではないと、わたくしは思っておりました。フェリシアのように、一所に留まって女神のために祈りを捧げる。そのような性格ではないのでしょう?」

「はい。今まで女神様に祈ったのは、ルフト村で凶作になったときと、拾い食いをしてお腹を下して死にそうになったときと、先日遠征のときにイヤミな女と一緒になりたくなかったときのみです」

「そうでしょうとも」


 くく、と片手でへし折れそうなくらい細いのどで笑う。マリーシャは艶やかな金色の髪を揺らしてゆったりと頷いた。


「あなたの申し出を受け入れます。レティシア、自由に生きなさい。クインエリアに戻りたくないと思うなら、それで構いません。でももし……少しでも思うことがあるなら、戻ってきてほしい。わたくしの想いはその程度です」


 驚くほどあっさりと承諾され、逆にレティシアの方が面食らった。もっと粘られるだろうと、道中の馬車旅で言い訳だけは考えていたというのに。


 マリーシャは驚くレティシアを愛おしげに見つめ、細く繊細な手で己の口元を押さえた。


「レティシアだけは――自由に羽ばたかせてあげたい。あなたの思うように生き、あなたの思うように飛び立てば、それでいいのです」


 すっと玉座から立ち上がるマリーシャ。彼女は床を擦るくらい裾の長い長衣を引きずりながら、風のようにレティシアの脇を通り過ぎていく。立ち上がったマリーシャは思いの外背が低く、レティシアは若干視線を下にずらした。


「リデル王国国王陛下への連絡はわたくしが致します。大司教の血は生きている――しかし、彼女以外の人物が聖都を継ぐ可能性も十分にあり得ると。聖都の魔道士たちを抑えるためにも、あなたのことは伏せた上で、事を進めたいと思います」


 事務的にすらすらと述べるマリーシャ。その言葉に、目に、先ほどまでのような澱みや霞はなかった。


「レティシア、あなたは自分の思うようにこれから生きていきなさい。故郷に帰るもよし、セフィア城での勉学を続けるもよし、素敵な殿方に嫁ぐのもよし。どのような道を選ぼうと、あなたの未来に光が差し、女神様の微笑みが共にあらんことを――遠く離れた地からお祈りしております」


 振り返ったマリーシャの華奢な手がもう一度、レティシアの髪を梳る。


「さようなら。ルフト村のレティシア」

「……はい、さようなら、マリーシャ様」


 レティシアはセレナに鍛えられたように、ローブの裾を摘んできちっとお辞儀をした。そのまま回転してマリーシャに背を向け、駆けださないギリギリの速度で足を速め、外から侍従が開けたドアをくぐって謁見の間から逃げるように飛び出る。


 重苦しい空気から解放されて外の空気が吹き抜ける廊下に立ってやっと、レティシアは気付いた。


 マリーシャは、レティシアが申し出た二つ目の条件に触れなかった。

 そしてレティシアは結局、マリーシャを母と呼ぶことはなかったのだった。











 リデル王国中心部のセフィア城からクインエリアまでは、片道約十五日。往路を引き返してさらに十五日。そこから休むことなく進み、南の国境を越えて十日。

 ロザリンドの喪が明けたのは寒さ厳しい冬の月半ばだったが、極寒の時期を越えると一気に気候は穏やかになり、草原を吹き渡る風は甘く、優しくなる。


 平地が大半を占めるリデル王国では一足先に春が訪れ、雪は完全に溶けて新芽が大地に芽吹いていた。だが、ここオルドラント公国の北端の村はなだらかな山岳地帯に位置するため、馬車道にも所々雪景色が名残惜しげに輝いていた。


 雪解け途中の大地は水を吸ってぬかるみやすい。リデル領内では冬の月の間しか付けられない鉄製の鎖を車輪に結びつけ、馬車は人が踏みしめることによって作られた人工の道をのっそりと進んでゆく。


 十五年間慣れ親しんだ空気が鼻孔をくすぐる。ようやく、ルフト村の領域に入ったのだ。

 レティシアが休学届けを出したもう一つの理由――一度故郷に帰り、村の皆に自分の口から報告したかったのだ。


 レティシアは旅中の暇つぶしにとセレナから借りた小説と、「もっと勉強しなさい」とセフィア城の教師に押しつけられた文学書の山から体を起こした。カビの生えた数百年物の詩を搭載した詩集は、内容こそは古くさくてつまらないものだが、装丁が柔らかで紙の質もよい。重ねて毛布でくるめば上質な枕とマットレス代わりになったのだ。


 勉強用の本は無造作に奥の座席へ押しやり、セレナの本はその上にきちんと重ねて乗せ、御者に断りの言葉を入れて馬車の窓に手を掛けた。雪が吹き付ける間、閉め切っていた窓は今にも外れそうな音を立てて開き、使い古された空気が充満する馬車の中に春の風を吹き込ませた。


 最後に見たとき、この馬車道は秋色に染まり、落ち葉が地面に舞い落ちていた。そんな景色を今とは逆の向きに流されながら、ぼうっと見やっていたのだ。ロザリンドと一緒に。


 そろそろ春の作物の苗を植える季節だろうか。

 今年の冬は無事に越せただろうか。


 語りたいことはたくさんある。

 語りたくないことも、ある。


 だがそんな空気も全て、この懐かしい風が吹き飛ばしてくれた。

 窓枠に、散ったばかりの淡い花びらが張り付く。桃色の花びらを摘んで髪に飾り、レティシアは頬を緩めて笑った。


 ここが、レティシアの帰る場所。

 きっと何年経とうと、レティシアがどれほど出世しようと、そのことに変わりはない。


(ただいま、みんな)


 季節は、暖かな春が始まったばかりだった――

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