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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第1部 黄昏の魔女
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ルフト村の少女 2

 キッチンと隣り合った居間で養父が来客と話し込んでいるようだが、レティシアはあえてその部屋へ続くドアではなく、廊下に繋がるドアからキッチンを出た。


 玄関側から件の部屋に回りこみ、ドアに耳を押し当てる。キッチン側から部屋に入れば、ティムに話が聞こえてしまう可能性があるのだ。

 村長の怒号はあれっきりのようで、薄い木製のドアを通して会話の声が響いてくる。どうやら、「お客さん」を居間に通したようだ。


「……しかし、私たちはきちんと……守りました」


 養父の声。

 先ほどよりずっと落ち着いた声色なのでレティシアはほっと胸をなで下ろしたが。


「そうでしょうとも。ですが、緊急事態なのです」


 養父よりずっと大きな声が響く。

 冬の明け方、きんと凍った氷柱のように凛としていて冷たい、聞いたことのない女性の声。


 声だけだと養母より幾分若い印象を持つが、なにしろ声の刺々しさが半端ではない。その女性はドア付近に立っているのか、声を上げる度にビリビリと扉が振動した。


「これはマリーシャ様直々のご命令……もちろん、リデル王国国王エドモンド陛下の承認も得られております。あなた方には多大な恩を感じておりますが……悪しからず。マリーシャ様のご判断です」

「そんな……!」


 養母の声は徐々に震え掠れ、やがて息をするのも苦しそうなほどの嗚咽に変わった。

 あの気丈な母が泣くなんて。

 レティシアはごくっと唾を飲み、鼓動の速くなった胸に手を当てる。


 マリーシャ、という聞き慣れない女性の名前。

 そして、リデル王国国王。


 リデル王国はここ、オルドラント公国と北の国境を接する大国で、ルフト村からも北へ馬車道を上っていけばリデル王国領に繋がる。

 世界で数十存在する大小の国家の中でもリデルは軍事力や土地面積において首位を独走しており、リデルが戦争を起こした場合、単体で挑んで勝機が見込める国家は存在しないだろうと、村の男たちが話していた。


 とにかく、そのリデル王国とはオルドラントとは比べものにならないくらいの力を持つ巨大国家。その国に君臨する国王の名が、この女性の口から飛び出してきたのだ。

 一体何のことだ、とレティシアは好奇心に勝てずに盗み聞きを続ける。


「しかし、あの子は何も知りません!」


 どんっと机を叩く音。養父が居間のテーブルに手を突いたのだろう。彼ほどの巨漢なら殴っただけでテーブルが木っ端微塵だと、よく養母にいさめられていたというのに。


「ただの村人として十五年暮らし、それにフェリシア様に勝るような魔力も……」

「それは、本人を交えてお話ししましょう」


 次の瞬間、居間のドアが勢いよく内向きに開かれる。ドアに全体重を掛けていたレティシアはあっと声を上げ、そのままつんのめるように前に倒れ込んだ。

 そんな彼女を助けたのは、固くてごつい腕。鋼鉄の籠手がはめられた腕がレティシアの腹部に回り、フローリングに顔面激突しそうになった体を支えてくれた。


「レティ……! 聞いていたのか!」


 厳つい男に助けられて立ち上がると、テーブルの反対側にいた養父が声を上げた。養母もまた、盗み聞きされていたことに度肝を抜かれたように目を見張っている。


「レティシア・ルフトですね」


 耳元で囁かれた、例の冷たい声。

 振り返ると、レティシアの隣にはすらりと身の丈の長い女性が立っていた。


 歳は四十前くらいだろうか、ツンと顎の尖った逆三角形型の顔で、肉の薄い頬には微かに皺が浮かんでいる。彼女の鼻の頭に乗っているのはルフトではまず見られない高級装飾品・眼鏡。きらりと輝くその奥の目は細く吊り上げられ、白髪交じりの黒髪をきつく結い上げているため、余計に冷淡さを強調させている。

 彼女が纏うのは真っ白なローブ。泥臭い手で触れることが憚られるような布地に包まれた体は細く、養母の体形が目に慣れたレティシアには痩せすぎに思われた。


 彼女の背後、扉とレティシアを挟んで控えるのは、二つの重そうな鎧の固まり。一瞬、趣味の悪い甲冑の置物かと思われたが、先ほどよろめいたレティシアを支えたのはこの籠手の腕であり、今も辺りの様子を窺うように首を動かしている。中身はきちんと入っているようだ。


 見慣れた居間に登場した、異様な出で立ちの女性と何も言わず控える甲冑人間。

 いまだかつて直面したことのない風景を前にして、レティシアの心臓が不規則に鳴り始める。冷や汗が手の平に溢れ、耳の奥で鼓動が鳴り響く。


 おかしい、こんなのおかしい、と本能が警鐘を鳴らせていた。


「――そう、だけど。あんたは……?」


 必死で絞り出されたのは、情けないほど震えた小さな声。

 細身の女性はツンと顔を背け、胸の前で腕を組んだ。ローブの裾から覗く彼女の前腕は胴体と同じく、栄養が足りていないと思えるほど痩せ細っている。

 女性はレティシアの問いには答えず顔を背けたまま、居間の隅で硬直する養父母に向き直る。


「レティシア様は健康そうなお体をなさってますね。あなた方はきちんとレティシア様を育てたようで、何よりです」

「……ええ、それがあなたとの約束でしたので」


 養父は自分より細身で華奢な女性に対し、淀みない敬語で答える。


「しかし聖都にはフェリシア様がいらっしゃるはず。なぜ今更、レティシア……を……」

「ご理解いただけましたか」


 言葉途中で養父の赤ら顔が青ざめたのを見、女性は満足そうに目を細める。


「今、あなたが予想した通りのことが起きたのです。この意味、分かりますね?」


 そして女性は振り返り、レティシア様、と硬直するレティシアに声を掛ける。


「あなたは非凡な才能を秘められたお方。あなたの存在が必要になったのです。わたくしたちについて、リデル王国へいらっしゃいませ」

「……な、……え?」


 いきなり自分に話が振られたため、レティシアは目を剥いて女性を見上げた。

 女性は品よく軽く腰を曲げているが、それでもレティシアよりずっと目線が高くて、言い様のない威圧感がにじみ出ていた。


 この女性は今レティシアに、「リデル王国に来い」と言った。

 いきなりそんなことを言われても。


「そんなこと……私は、何とも……そう! 父さんたちがいるんだから!」


 決定権を父に委ね、レティシアは逃げるように女性と距離を取った。養父に話の矛先を向けるのは卑怯なのかもしれないが、何分レティシアにはちっとも話の内容が読めない。

 レティシアは壁に背中を張り付けて低姿勢になり、威嚇するように歯を剥く。


「だいたい、あんた誰なの! いきなり押しかけてきて、偉そうにして、わけ分かんないことばっか言って……」

「レティシア」


 養父の低い声が響き、レティシアはうっと言葉をのみこむ。

 父は数拍置いてゆっくり、ため息をつくように言った。


「行きなさい」

「あんた!」


 悲鳴を上げたのは養母。

 彼女は張った頬を涙で光らせ、腕を組む夫にすがりつくように訴える。


「どうして! レティはあたしたちの娘だ! それなのに……」

「忘れたのか。ロザリンド様の出した条件を……」


 養父の言葉にしばし沈黙し、やがて養母ははっと腫れぼったい目を見開いた。


「まさか……でも、そんな……」

「レティシア、安心しなさい」


 妻を片腕で抱き寄せ、養父は慈愛に満ちた眼差しでレティシアを見つめてくる。


「おまえは本来居るべき所に戻るだけだ――それに、一生離ればなれになるわけじゃない」


 養父は反応を窺うように背の高い女性を三白眼で見上げたが、女性は目線を背けてあさっての方向を見つめるのみ。

 それを肯定と受け止めたのか、養父はレティシアに視線を戻す。


「決して、おまえにとって悪いことにはならないだろう。むしろ、今よりずっときれいな服を着られる。おいしいものも食べられる――悪い話じゃないだろう?」

「そんな……」


 有無を言わせぬ口調で言い募る養父。養父の腕に抱かれてさめざめと泣く養母。

 小振りのテーブルを挟んでいるだけなのに、今のレティシアには両親との距離がとても、とても遠いものに感じられた。


 レティシアは一度二度、言うべき言葉を考えるように口を開閉させた。のどまで出かけた言葉を何度も嚥下し、自分の隣に控える長身の女性をちらっと窺う。

 この女性は危険だと、野生の本能が訴えていた。だからこそ、逆らうわけにも、引くわけにはいかない。


 レティシアは勇気を奮い立て、挑むように長身の女性を睨み上げる。


「……もし、私が大人しく従えば、父さんたちは無事でいられる?」

「もちろん」


 女性は凍てついたブルーの目を細めてレティシアを見返してきた。


「それどころか、今まであなたを育てた褒美を取らせましょう。望むなら、リデル王国からルフト村へ特別な交易ルートを結ぶことも可能です。新鮮な野菜が不足している都会へ売り出せば、多大な利益となるはずです。農作業の人員が足りなくなるのならば、こちらから農作業員を派遣することも。村人が病に困らぬよう、治癒術に長けた医師を送ることも、喜んで致しましょう」


 女性が提案するのは、どれもルフト村にとってはありがたいものばかり。

 村で採れる野菜が大都会まで売り出せたなら収入は増え、レティシアの代役となる人が送られれば人手不足にも困らない。さらに、医者がいれば病人が出てもわざわざ下山して麓の街まで馬車を駆る必要もなくなる。まさに、いいことずくめ。


 それほど、この女性らにとってのレティシアの価値は計り知れなく大きいのだ。レティシア自身が思っている以上に。

 レティシアは汗ばむ手を開いたり閉じたりを繰り返し、諦めたようにひとつ、頷いた。


「――分かった」

「レティシア!」


 悲痛な声を上げる養母。

 レティシアは心を鬼にして母から視線を引き剥がし、身の丈の高い女性を威圧し返すように見上げる。


「私、あんたたちについて行く。何をされるのか、よく分かんないけど」

「ご安心を。あなたには、魔道士としての訓練を受けていただくのみです」


 魔道士、とレティシアはあり得ない単語の不意打ちを受けて目を見開いた。


 魔道士の存在は知っている。麓の街には医術に長けた老魔道士がいるし、裕福な家庭では魔法を使った家具が使われているという。そして、大抵の国には魔道士養成機関があり、才能のある若者はそこで魔道士として鍛練を積み、国に仕えるのだという。北のリデル王国にも優秀な教育機関があるということも、風の噂には聞いたことがあった。


 だがルフト村には魔道士が存在せず、レティシアもこれまで魔法なるものを扱えたことがない。そもそも、「魔法っていうすごいものがあるらしいよ」くらいの知識しか持ち合わせていないのだ。


「ねえ、それってどういうこと? なんで私が魔道士の訓練を受けるの?」


 レティシアは女性のローブの裾を引いて問うがこれは華麗に無視され、女性はすました水鳥のように顎を背けて村長夫妻を見やった。


「さあ、レティシア様ご本人が承諾なさいました。すぐに荷物をまとめなさい。ただし、必要な服や本は全てこちらが用意しておりますので、必要最小限に留めることですね」


 村長夫妻に拒否権は与えられない。きっとそれは、レティシアを預かった十五年前から変わらぬ事実なのだろう。

 背中を丸めて部屋を出ていった養父母を見かねてレティシアはもう一度、女性の服を引っ張る。


「ねえ、父さんと母さんの手伝いしていい? 大切なものを持っていきたいから」


 女性は答えない。彼女は流れる水のようにするりとレティシアの手から逃れて、村長たちとは別のドアから部屋を出ていった。彼女に侍し、それまでじっと甲冑模型のように佇んでいた騎士たちも、がしゃがしゃ足並み揃えて家を出ていく。


 その無言を諾と受け取り、レティシアはまず、誰も開けていない三つ目のドアを押し開けた。

 後ろ手にドアを閉めると、待ちかまえていたかのように駆けだしてくる少年。野の香りのする彼は不安な気持ちを露わにしてレティシアを見上げてくる。


「ねえちゃん、一体何だったの? もうすぐシチューもできるんだけど……」

「ごめんね、ティム。ねえちゃん、ここを出ることになったから」


 正直にレティシアは言う。「ちょっとお出かけする」で納得するほどティムは子どもではない。レティシアが当分――下手したら一生帰ってこられないかもしれないのに、期待を抱かせるような嘘はつくべきではない。


 案の定ティムは大きな目を瞬かせ、疑うような眼差しを居間へと送った。


「それって、さっきのお客さんの? ねえちゃん、何か言われたの?」

「……そうだね。でも、決めたのは私」


 レティシアは勇気付けるようにティムの背中を叩き、いつもと変わらない笑顔を見せてやった。幼く繊細な少年の前で本当の表情を出すわけにはいかない。


「大丈夫。すっごい遠くに行くわけじゃないから。それに父さんと母さんは村に残るんだし、心配しなくていいんだよ」


 言いながらレティシアは食料庫から牛乳の瓶を数本取り出すと中身を鍋に流し込み竈の火を調節して、とろ火に落とした。もう十数分煮込めばシチューの完成だ。

 少年は何も言わない。レティシアの行く末を敏感に察したのか、瓶を片付けて慌ただしく出立の準備をするレティシアを切なげに見上げてきた。


「……ねえちゃん、シチューは」


 食べないの? 少年の最後の気遣いに、胸が痛む。

 レティシアはドアの前で振り返り、唇の端を吊り上げて小さく笑った。


「私はいいよ。私の分もティムにあげるから。たくさん食べて、大きくなるんだよ?」

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