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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第1部 黄昏の魔女
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受け継がれた紅 7

 レティシアは、泥と埃の味がする唇を噛みしめた。

 ロザリンドは自分の後方に横たわっている。きっとセレナが手当をしてくれているだろうが、振り返る余裕はない。


 左脚の筋肉をバネにし、腰を捻って横っ跳びにミシェルのダガーを躱す。ミシェルの刃は標的を逸れ、何もない空を切り裂いた。

 ミシェルはブーツ底の金具を緩衝材にして踏みとどまり、振り向き様に逆手に持ったダガーを背後に突き出してきた。危うく肩を貫かれそうになり、レティシアは炎を作り出そうとしていた右手を引っ込め、背後に跳んでダガーの襲撃を避ける。


 魔道士見習とは思えないほどミシェルは短剣の扱いに手慣れており、身のこなしが軽い。魔法を使われないことが唯一の救いだった。

 ミシェルの利き手は左で、右手はロザリンドの魔法で黒く焦げて今もだらんと力なく垂れ下がっている。右手でナイフを持って左手首の縄を切らなければ、魔法が使えないのだ。


 舌打ちしながらレティシアはミシェルの刃を避け、その足元に向かって拳大の炎を放つ。火球は標的を外したが同時にミシェルのダガーも空を掻き、不快に顔を歪めて神殿の床を滑るように後退した。


 レティシアの両手から放たれた風刃が空気を裂き、ミシェルのダガーがレティシアの髪の房を切り落とす。オレンジの髪が宙に舞う中、ミシェルは腰を低く落としてダガーを体と垂直に構えた。ロザリンドを仕留めたときと同じ、捨て身の特攻をする構えだ。


 狂った絶叫を上げながらミシェルが駆ける。

 レティシアは深く息を吸い、迫り来るミシェルに真っ赤な目を向けた。


 退かない。

 ここで、決める。


 ミシェルのダガーが頬をかすめる。

 絞り出したようなクラートの声が上がる。

 緋色の鮮血が飛び、二人の少女の体がゆっくり、スローモーションの魔法がかけられたかのようにすれ違い――


「……いい加減、目を醒ませぇぇぇぇぇ!」


 頬を裂かれたレティシアの裂帛の声が響く。

 バランスを崩したミシェルの眼前にでかでかと映るのは、固く握りしめられた拳。

 あちこち節くれ立った、村娘の鉄拳。


 鼻の骨が砕ける鈍い音と共に、ミシェルの体が仰け反りながら吹っ飛んだ。その左手から二人分の血に染まったダガーがすっぽ抜け、刃の持ち主も一瞬、宙に浮かび上がり軽い音を立てて神殿の床に打ち付けられる。


 拳を突き出したまま、レティシアはひとつ、ふたつ息をつく。自分の数歩先の床に大の字になって伸びるミシェルを見下ろし、その膝が急に力を失った。


「……結構……痛い……」


 自分の右の拳を抱え込み、唸った。












「……よくやったな、レティシア」


 低い声と共に頭上に降ってくる大きな手。のどを反らして見上げると、闇の中軽く微笑むレイドの顔が。戦闘の余韻で自慢の長い前髪が崩れ、濃い影が頬に落ちている。


「まさか、殴り倒すとはな。てっきり魔法で成敗するのかと思っていたのだが」

「うん? 魔道士でも殴れるようにしろ、ってのはディレン隊のモットーでしょ?」


 疲れた笑みを浮かべて、レティシアは茶化し返す。


「私はディレン隊の者じゃないけど、教わったことは最大限に生かしたつもり。あと……助太刀ありがとう、隊長」

「……どうも」


 レイドは短く返し、ぐしゃっとレティシアのオレンジ色の髪を鷲掴みにしてミシェルの方へ歩み寄った。鼻血を吹き出して気絶するミシェルを縛り直し、骨の折れた鼻に丸めた布のようなものを突っ込む。名家ベルウッドの令嬢が鼻に栓を詰められて簀巻きになる姿はなかなか見応えがあるが、今の状況では到底、素直に喜ぶことはできない。


 肩に別の人物の手が触れたため、そちらを振り返る。そこにいるのは茶色の髪を埃で染めた、年上の友人。


「セレナ……」

「手は尽くしたわ」


 セレナは笑い一つ寄越さず、長い睫毛を伏せて言う。

「何に」とまでは言わないが、レティシアにはその言葉だけで十分、彼女の言いたいことが伝わった。


 セレナの手がレティシアの背を押す。くるりとその場でターンし、レティシアは半ば押し出されるようにロザリンドのもとへと足を運んでいった。

 仰向けに倒れるロザリンドの脇に片膝をつく、金髪の少年。彼は足音を耳にして振り返り、無理に拵えたような笑顔でレティシアを迎えた。


「お疲れ様、レティシア」


 クラート公子は力強くレティシアを抱き寄せ、二人並んでロザリンドの側にしゃがみ込んだ。

 ロザリンドの体を中心に、神殿の床が赤黒く染まっている。人体にはこれほどの血液が詰まっていたのかと、ぼうっとした頭でレティシアは思う。


「――ミシェルがダガーを抜いたのがまずかった。セレナが治癒を施したけど……」


 レティシアはクラートの声を遠くに聞きながら、そっと、床に投げ出された青白い手を右手に取った。

 少々骨張ったその手は、驚くほど冷たい。

 それは決して、冷え切った神殿の床に横たわっているためだけではないのだろう。


 床に打ち付けた衝撃で腕や脚が急な角度に曲げられていたため、クラートの手を借りながらレティシアはロザリンドの体をまっすぐに伸ばして、胸の前で軽く手を組ませた。そして息が詰まらないように、少し頭を起こさせ――レティシアの唇から微かな失笑が漏れた。


 ロザリンドはもう二度と息をしない。呼吸が苦しいと思うことはないのに、楽な姿勢をさせたいだなんて。数刻前の自分に語れば、大爆笑されたことだろう。「どうして鬼ババごときに気を遣うの?」と。


 死を受け入れていたのだろう、ロザリンドの目は固く閉ざされており、なぜか幸せそうに唇は弧を描いていた。彼女の長い髪をまとめていた髷は崩れ、青白い頬に白髪交じりの黒髪が張り付いている。

 血で毛先が固まったそれを軽く払いのけ、レティシアはぽそっとつぶやく。


「……いろいろと、遅すぎたのね」

「……カウマー様のことかい」


 そっと、傷口に触れぬようクラートが問う。

 レティシアはロザリンドの顔から視線を離すことなく、ゆっくり頷く。


「私も、ロザリンドも。私はもっと早く、ロザリンドの真意に気付いていれば……ロザリンドはもっと早く、私に本当のことを打ち明けてくれていれば……こうは、ならなかったのかしら……」


 クラートの手が伸び、レティシアの背に回される。遠慮がちに背中を撫でる固い手の感触が、温もりが、彼が生きていることを知らせてくれる。

 その感覚が心地よく、レティシアは素直に彼の腕に身を委ねた。


「私はずっと、ロザリンドはイヤミなババアだと思ってた……仕方なく私を引き受けただけで、私のことが大嫌いだったんだと……」

「でも、カウマー様は身を挺して君を守った」


 クラートに言われずとも分かる。

 これほど、ロザリンドは安らかな顔で眠りに就いたのだから。

 背中を撫でていたクラートの手が肩に回り、きゅっと拳が固められた。


「それは――君を愛していたからだよ。死なせてはならない、守らなくてはならない。カウマー様に愛されていたから、君は命長らえたんだ」

「……うん、知ってる」


 レティシアは、オルドラントの公子であるクラートに敬語を使わない。

 クラートもまた、クインエリアの聖女であるレティシアに対して畏まらない。


 何でもない、この感覚が暖かかった。

 目の前に死があるからこそ、肩に回された温もりが愛おしかった。


 レティシアは脇に転がる壊れた眼鏡を拾い、軽く手でフレームを曲げて整形し、ロザリンドの顔に戻した。少しブリッジ部分が曲がっているので、もう一度指先で折り曲げる。

 この眼鏡が魔道暖炉の光に反射して滑稽な赤に染まって見えたのが、もう遥か昔のことのように思われた。


 そういえば、まだ言っていなかった。

 もう手遅れかもしれないが、今を逃すと一生、機会を失ってしまいそうだ。


 クラートの肩に縋り、レティシアは冷たく冷えたロザリンドの手に己の手を重ねた。


「……ありがとう、ロザリンド」


(私を守ってくれて、ありがとう)

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