ルフト村の少女 1
秋晴れの広がる空。湿った土の匂いを孕む風。漣立つ海原のごとく広がる畝畑の中央で、オレンジ色の髪が風を受けて靡いた。
この地方では珍しい、明るい蜜柑色の髪は秋のそよ風の中で踊るように揺れ、髪の持ち主もその動きに合わせて軽く肩を揺らす。
歳は十代半ばとおぼしき、まだ幼さ残る顔立ちの少女。よく動く大きな目は濃い茶色。そろそろこの地方でも落下し始める、甘い汁を湛えた木の実と全く同じ色合いをしている。
膝を曲げてしゃがみ、膝頭に両腕の肘を乗せて手の平は頬に添える。農作業をするためうっすらと日に焼けているが、農村育ちにしては十分白い腕。擦り傷やかさぶたが所々に浮かぶ、健康的な少女の肌だった。
長い睫毛に縁取られた目が追うのは、畝の中から頭を出した小さなミミズ。先ほどスコップで土を掘られた際に誤って地上に顔を出してしまった彼はしばし、戸惑ったように土の上を這い回る。そして日光は御免だとばかりに、柔らかく掘り返された土に頭部を突っ込んで、再び地中深くへと潜っていった。
彼女はうっかり掘り出してしまったミミズが地中へ帰宅したのを見届け、再びスコップを手に取った。長年使い続けているため、木製の取っ手は擦り切れて彼女の手に馴染むように自然と変形していた。
スコップを逆手に持ち、湿った土を掻き出す。万が一、彼女が土中から探しているものに刺さっても傷が付かないように、土の表面を撫でるように、スコップを平らに構えながら土を掘り返すのがコツだ。
スコップの刃先が何かにぶつかって、彼女は左側の手を土の中に突っ込んだ。短く切った爪を立てて土を掻き出し、握るように腐葉土を掘り起こし――
「――あった!」
弾けるような歓声と共に、ずぼっと左手が土の中から引き抜かれる。湿り気の残る土をまき散らしながら引っこ抜かれた手には、赤紫色の巨大なイモがしかと握られていた。
この地方の主食でもある、栄養たっぷりのイモ。暖かい春から苗を植え、夏のうちにしっかり蔓草を伸ばしてきた甲斐あって、丸々とよく肥えている。先立って蔓を引き抜き、芋蔓式に出てきたものは全て回収したのだが、いくらかは根っこから切り離されて地中に残る。
こうして土を掘り返してみると意外なほど巨大なイモが発掘されることが多い。この「宝探し」は彼女の特技でもあった。
少女は曲げっぱなしになっていた膝を伸ばし、思わぬ大収穫品に残っていた土を払い落とす。と。
「レティシアねえちゃん、すげぇでっかいイモだな!」
彼女と同じように畝畑にしゃがみ込んでいた子どもたちが一斉に駆け寄り、その手に握られた巨大な塊根を見、歓声を上げる。
「すっごい! そんなに大きいのが残ってたね!」
「よく見つけたな、ねえちゃん!」
「へっへへ、なんとなくここにあるだろうな、って思ったんだよ」
レティシアねえちゃん、と呼ばれた少女は自信満々に答え、子どもたちによく見えるようにイモを高く掲げる。
彼女の回りに集う十人ほどの子どもは全員、レティシアより年下。中には十も越えていないような幼い子までおり、全員泥だらけの手を叩いてレティシアが掘り出したイモを賞賛する。
「それ、今日の昼飯になるの?」
「そうだねぇ……本当は、小さいイモを刻んで煮込む予定だったんだけど……」
一気に子どもたちの顔が暗くなる。小さい出来損ないのイモだろうとこの巨大なイモだろうと、今日の昼食の予定であるシチューに入れてしまえば味は全く同じなのに、このイモにこだわりたいらしい。レティシアとしては大きなイモは輪切りにして甘く煮込むなり、たき火に放り込んで焼き芋にするなりして食したいのだが、子どもたちの落胆ぶりはかなりのものだった。
そういうわけでレティシアは肩を落とし、にこっと子どもたちに微笑みかける。
「分かった分かった。じゃあ、母さんに聞いてくるから。そろそろ昼ご飯の仕度の時間だし、お許しがもらえたらこのイモ、シチューに入れるからね」
とたんに、雲間から日光が差したかのごとき笑顔になる子どもたち。ありがとう! 約束だよ! と口々に言う子どもを見ると、レティシアの笑みも深くなる。
まだ畝畑にはイモが埋まっているだろう。レティシアは子どもたちにイモを探し続けるよう言い残し、今し方収穫したばかりの瑞々しいイモを片手に、畑を囲む柵を跨ぎ越えた。
レティシア・ルフト。
緑豊かなオルドラント公国の北端に位置する田舎村、ルフトで育った十五歳の少女。
オレンジ色の髪を結い上げた、田舎村にしては目立つ容姿の娘。
あぜ道が伸びる村の通りを歩くレティシアを見、仕事中の村人は全員、腰を上げて親しげに声を掛けてくれる。今日も美人だね、イモを持つ姿が絵になるよ、などと。
レティシアは彼らににっこり笑ってみせた。彼らの心からの褒め言葉が嬉しかったし、そんな暖かい気遣いも大好きだった。村生まれでない余所者のレティシアを、彼らは自分の仲間として受け入れてくれたのだ。
レティシアは両親を知らない。先ほどレティシアが「母」と呼んだのは養母。養父はルフト村の村長をしており、レティシアは生まれて間もない頃に村長夫妻のもとへ預けられたのだという。
養父曰く、おくるみに包まれたレティシアを抱えてきたのは、養父の旧知の女性。彼女はレティシアを実の両親から引き取り、知己の仲を頼ってここ、ルフト村にやって来てレティシアを残して立ち去ったのだという。
村長夫妻は実の娘のようにレティシアを可愛がってくれた。山の中腹に位置する村から下り、麓の町までレティシア用の子ども服を買いに行ってくれた。いつ、町へ働きに出てもいいようにと最低限の教養や字の読み書きを教えてくれた。他の村の子どもは算術はおろか、まともに字を読むことすらできないのに。
レティシアは村人に笑顔で挨拶し、手持ちのイモに目を落とす。
泥まみれになって農作業をする毎日。干ばつが起こればひとたまりもないだろう、ギリギリの生活を送る日々。
それでもレティシアは十分、幸せだった。
今の日々に満足していた。
ルフト村の住居はほとんどが平屋作りだ。冬の大雪に備えて屋根は急な鋭角三角形になっており、貧しい農民たちは一階で十分事が足りる。この村で家が二階構造なのは滅多に使われない宿屋と、レティシアが暮らす村長の家だけだ。
ドアを開ければ廊下があるのも村長の家の特権。他の家は玄関をくぐればすぐにキッチンや居間があり、そこからアリの巣のように狭い部屋が続いているのだ。
玄関先でただいま、と元気よく声を掛け、レティシアは開け放たれたままのキッチンのドアをくぐった。
あちこちへこんだ大鍋を始めとする、使い古した調理器具。竈はレティシアが来るよりずっと前から使われているため、そろそろ修理が必要だろう。
泥だらけのイモを勇ましく握りながら入ってきたレティシアを迎えたのは、中年の女性。竈に向かっていた彼女は太った体を揺すりながら振り返り、あはは、と陽気な笑い声を上げた。
「どしたんだい、レティ! 今日もまた、そんなにでかいイモを掘り起こして……」
「すごいっしょ? きっと重すぎたから、蔓から千切れてしまったんだね」
シンクにイモを据え、瓶から掬った水で洗う。
「本当は焼き芋にしたいところなんだけど……子どもたちが昼に食べたいって言うから。昨日のうちに採れたのは食料庫に入ってるし、シチューに入れてもいいかな?」
「もちろんいいとも。本当はそんぐらいでかいイモは、保存食として残しときたいんだけど……たまには収穫したてのイモを食べさせてやりたいものね!」
女性――レティシアの養母は二つ返事で承諾してくれた。荒野に転がる大岩のように恰幅のいい母と細身のレティシアは血の繋がりがないため、似ていないのも当然だ。
以前、養母が若い頃着ていたという服を譲ってもらったことがある。試着してみたのはいいのだが当然、サイズが全く合わない。
ダボダボのシャツ姿のレティシアを見、養父は酒瓶片手にゲタゲタと笑いだした。「おまえ、かかあに似なくて本当によかったな」と、余計な一言も添えて。熊のような大男の養父が養母に張り倒されたのを見たのはあれが初めてだったし、それ以来、養父が養母に逆らうことはなかった。
養母は巨木のように太い腰を上げ、麻地のタオルで手を拭った。
「それじゃあ、昼ご飯の仕度頼むよ。もちろんあの悪ガキ共の分も大量にな。あんたのご飯は、みんなうまいうまいって食べてくれるんだ。今日も子どもたちに、栄養たっぷりのを作っておくれよ」
「任せて、母さん」
レティシアはどんと薄い胸を張った。料理なら母にも負けない自信がある。メニューにもよるが、シチューやスープ、薬湯などは養母より上手だと、村の衆も褒めてくれるのだ。
母がエプロンを外してキッチンを出ていくのと入れ違いに、わあっと子どもたちが部屋に入ってきた。泥仕事を終えてきちんと手足を洗った彼らは料理を始めるレティシアを尊敬の眼差しで見つめてくる。彼らはまだ包丁を持つことを許される歳ではなかったのだ。
子どもたちが見守る中、レティシアはテーブルにたんと盛られた野菜を手早く洗い、可食部ではないヘタや根っこは包丁で切り落とした。そして包丁の刃に指の腹を添えてくるくると器用に野菜の皮を剥き、一口大に切ったそれらを鉄製の鍋に放り込む。
「ねえちゃん、今日の昼飯は何?」
足元にまとわりついてくるちいさな手、手、手。包丁を持っているときは危ないからダメだといつも注意しているのに、子どもたちはそれでもレティシアの近くにいたいのだろう。
レティシアは包丁をシンクの奥に押しやり、イモの匂いが染みついた手でくしゃっと少年の頭を鷲掴みにする。
「今日はね、お野菜のシチュー! さっきみんなが掘ったもの、ぜーんぶ入れちゃうんだから!」
歓声を上げる子どもたち。実のところ昼食にシチューを作るのは一昨日ぶりでしかないのだが、育ち盛りの子どもたちは何を食べても嬉しいのだろう。シチューだ、シチューだと万歳三唱しながら部屋の奥へと駆けていった。
転ばないように、と彼らに注意を飛ばし、レティシアはぐつぐつと煮込まれる野菜に視線を戻した。
村の昼食作りはレティシアに任されることが多い。村長一家だけでなく、村の子どもや大人たちの食事も全て、レティシアが担当するのだ。
貧しい田舎の子どもたちには野菜嫌いがほとんどいない。幸運にも土地の肥えているルフト村だが、その反面牧畜や漁業は発達しにくい。新鮮な牛肉や乳製品、焼き魚などを振る舞いたいものなのだが、行商人が来るまではおあずけ。そのため、レティシアを始めとしてこの村の住人は野菜ならばなんでも食べるのだ。
いつぞや、調味を間違えて塩辛いだけのカブのスープを作ってしまったことがあるのだが、冷や汗だらだらのレティシアに対し、村の者は全員うまいうまいとかっ込んでくれた。食べられるだけありがたい、腹に入ればいいのだろうと、安堵する反面少し虚しくもなったレティシアであった。
野菜に火が通って柔らかく煮込めたら、塩胡椒で味付け。塩も胡椒もこの辺では自然には採れないので、量は控えめで。
鍋に蓋をし、次の料理に取りかかろうとレティシアは腕をまくった。
「レティねえちゃん」
ほとんどの子どもは、食事時間まで外で時間潰しすることにしたのだろう。キッチンに唯一残っていた八歳程度の少年がレティシアのスカートの裾を引っ張った。
「外がうるさいの。お客さんが来たみたい」
「お客さん?」
少年の報告に、レティシアは細い眉を吊って顔をしかめる。
このような辺鄙な村に来る「お客さん」といえば行商人や旅の吟遊詩人程度だが、何にせよまずこの近辺にはやって来ない。一泊を求めるならば外れにある小さな宿屋に行くし、道を尋ねたいのならばその辺にいる村人を掴まえれば済む話。行商人はいつも同じ中年男性なので、見ればすぐ彼と分かるはずだ。
「お客さんって、どんな人?」
「分かんない。でも、たくさんいたよ。大きな乗り物もあって……」
「大きな乗り物?」
ますますわけが分からない。
「今、村長さんがお話ししてるみたい」
少年は言い、ぐつぐつと湯気を上げる鍋を見上げた。
「ねえちゃん、シチューはいつできるの?」
「いつだろうねぇ」
おざなりな返事をし、レティシアは腕を組んだ。
養父が出ているなら大丈夫だろう。何度か盗賊が現れたことがあるが、全員村の男たちによって返り討ちにしているし、そもそも蛮族が「大きな乗り物」に乗って村長と正面から話をするとは思えない。
何にしても、自分が出る幕ではない。レティシアは肩を落とし、吹きこぼれそうな鍋をかき混ぜ、火の量を調節した。
「……どういうことですか!」
続きの部屋から養父の声が轟き、レティシアの細い指先が震えた。熊のような見てくれの快活親父である養父は見た目こそ厳つくて無骨な印象を受けるが、心根が優しく滅多に大声を上げない。そんな養父が上げた、悲鳴に近い怒号。
レティシアだけでなく、彼女の足元で座り込んでいた少年もびくっと身を震わせる。
「……何か、あったのかな?」
「……分からない」
レティシアは言いながら火加減を弱め、村長の大声を聞いてすっかり及び腰になった少年に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ティム、少しお鍋を見ててくれる? もう少し煮込んだら牛乳入れるから……吹きこぼれそうになったら火をさらに弱めて。できる?」
ティム少年は隣の部屋が気になるようでしきりに目を泳がせていたが、姉代わりのレティシアに頼まれたら断れない。うん、と頷いて少年は手近な所にあった子ども用の椅子を引いてその上に乗る。彼の背では、踏み台がないと鍋まで手が届かないのだ。
「分かった。でも、早く戻ってきてね」
「了解。頼んだよ」
レティシアは小花模様のエプロンを外して自分の椅子の背に掛け、足音を忍ばせてドアへと向かった。