聖女の答え 7
残酷な表現注意
儀式の準備の際、ロザリンドとユーディン、そして新米神官のアデリーヌ・クワイトが杖を台座に置いた。その時に、ロザリンドに杖が反応した。ロザリンドが意図せずとも華やかな花びらを散らせ、光の洪水を巻き起こしたのだ。
ユーディンとアデリーヌは最後までロザリンドを説き伏せようとしたが、彼女の意志は変わらなかった。そして二人はロザリンドが命じるまま、台座に細工をした。台座の中に人一人が入れるだけの空洞を作り、杖を安置する支え台の真横に、同じく拳大の穴を空ける。神官たちのどの立ち位置からも見えない絶妙な位置に、だ。
そして儀式の日。
嫌だ嫌だ、大司教になんてなりたくない、とべそを掻くマリーシャが杖に触れたとたん、鮮やかなブルーの炎が杖の先から巻き起こった。神官たちは目を瞠り、マリーシャもきょとんとして事の次第を見守った。呆然としていたマリーシャは、台座の下に隠れたロザリンドが杖に触れていたことにも、気付いていなかった。
そして神官たちが疑惑の目を向ける前にと、ユーディンやアデリーヌでその場を撤収させた。すぐさま大司教のローブをマリーシャに着せ、ロザリンドは何食わぬ顔でマリーシャを出迎えたのだ。「おめでとう」と笑顔で言って。
子ども染みた真似ではあったが、下手に魔力を使わず原始的な方法を取ったからこそ、うまくいったのだ。
そのまま、ロザリンドの図った通りに事は進んだ。マリーシャが大司教となり、ロザリンドとアデリーヌ、そして渋々ながらのユーディンが補佐役に付いた。そして、相変わらず理解力の低いマリーシャを三人で徹底的に守り続けたのだ。
一年後、長女フェリシアがセフィア城侍従魔道士団に入学することになり、ロザリンドは女官職を辞した。そして二度とクインエリアの土を踏まない覚悟を固めた上で、セフィア城の魔道士団長に就いたのだった。
全ては、フェリシアのため。そして――いつかやって来るかもしれない、レティシアのため。
ロザリンドがクインエリアを空ける間、全てのことをユーディンに任せた。自分がいなくてもマリーシャを補佐し、守ること。彼女は自分の抜けた箇所にキサという新人女官を据え、三人に後を託してセフィア城へ発った。
ユーディンは、ロザリンドとの約束を守り続けた。彼女が死ぬまで。
フェリシアが死に、ロザリンドもレティシアを庇って死んだ。後に残されたユーディンの希望は、セフィア城にいるレティシアだけ。
だからユーディンはセフィア城にやってきた。マリーシャの手紙を届けるという理由付けをして、レティシアという人物を見定めるため。
結果、レティシアの性格と人となりはユーディンを安堵させた。農村育ちで勉強も魔法も発展途中だが、ユーディンが思っていた以上に賢く、人格も優れている。向上心があり、他人への気遣いができるという点から、既にマリーシャとは大きくかけ離れていた。
ユーディンは安堵し、レティシアに全てを託す決意を固め――そしてマリーシャに反旗を翻した。
マリーシャへの復讐に消極的だったアデリーヌは、ロザリンドの後継者としてセフィア城にいるため考慮に入れなくていい。ユーディンとしても、袂を分かったとはいえ長年の付き合いのあるアデリーヌに手を下すことは躊躇われた。そして彼女の代わりに、キサを味方に付けた。彼女はユーディンの計画に賛同し、そしてじわじわとマリーシャを追いつめていった。
追いつめるといっても、格段何かをしたわけではない。むしろ、何もしなかった。
書類の書き方が分からない、と言ってくるマリーシャを放っておいた。
客人との接待に戸惑うマリーシャを、遠くから眺めるだけにしておいた。
人前で魔法を披露しようとして失敗するマリーシャに、手を貸さなかった。
今まではロザリンドがあれこれ尽くし、ロザリンド存命中はユーディンも行っていたことを全て切り捨てた。そうすると、おもしろいくらいあっさりとマリーシャは堕ちていく。
何もできないマリーシャは精神を病み、痺れを切らした反大司教派によって捕らえられたのだ。
「それからというものの、この女は日々をこの礼拝室で過ごしているんだ。たった一人で、ずっと昔の思い出に浸っているのだよ」
そこまで言い、ユーディンは哀れむような眼差しでレティシアを見つめた。
「……先ほども見ただろう? この女の意識は数年前を彷徨っている。その頃には、あなたは存在しない。この女はいつまでも、ティルヴァン様に甘え、フェリシア様を着せ替え人形にし、ロザリンドを酷使していた頃の思い出に浸っている」
レティシアはこくっと唾を呑み、静かに椅子から降りた。そして、なおも姉の名を呼び続けるマリーシャと視線を合わせてしゃがむ。
「……お母様」
「ええ、どうしたの。フェリシア? 何か買ってほしい物でもある? 何でも言いなさい。お母様がお菓子でもおもちゃでもドレスでも、何でも買ってあげますから」
とろけるような笑顔で言うマリーシャ。
その瞬間、レティシアの顔が歪んだ。
つい先ほどまではわずかに残っていた、「ユーディンは嘘を言っているかもしれない」思いが、ふっと風に乗って飛んでいってしまった。同時に、胸の奥から言い様のない失望感と、吐き気と、怒りが湧いてくる。
これが、母なのだ。
この人が、ロザリンドを苦しめてきたのだ。
「……違います。お母様、私はフェリシアではありません。レティシアです」
意を決してきっぱり言うと、マリーシャははたと動きを止めた。いまいち視線の定まらない両目が、真っ直ぐレティシアを見つめてくる。
「レティシア? レティシア――フェリシアじゃ、ない?」
「はい。フェリシアの妹のレティシアです、お母様」
だが、マリーシャの耳にはレティシアの説明は半分以上伝わっていなかった。とろんとした視線は徐々に鋭い光を放ち、目が三角形に吊り上がる。
「フェリシアじゃない――あなた、誰……? 誰、誰、誰? 誰なの? 嘘つき、この嘘つきめ! フェリシアを、わたくしの可愛い娘を返しなさい!」
突如掴みかかられて、レティシアは避けきれずその場で尻餅をついた。衝撃で杖が手をすっぽ抜け、悲痛な声を上げて礼拝室の床に転がる。
「嘘つき! おまえもか! おまえも、わたくしを裏切るのかぁっ!」
マリーシャの細い腕が伸び、レティシアの首を締め上げた。細い女性の手だとは思えないほど、その握力は凄まじい。
本気でレティシアを縊り殺す気なのだ。
(まずい……!)
一瞬で意識が遠のく。目の前がちかちか白く瞬き、耳に入る音も指先に触れる感触も、全てが失われていく。
どん、と重い衝撃がレティシアの体を襲った。直後、ふっと喉元が自由になり、レティシアは後頭部を礼拝室の床に打ち付ける。
「いったぁ!」
「ご無事ですか、レティシア様」
げほげほ咳き込み、涙の浮かぶ目尻を拭う。どこまでも落ち着いたユーディンの声と、甲高い悲鳴を上げるマリーシャ。
先ほどまでレティシアに掴みかかっていたマリーシャは、今度は自分の喉に手を当てて仰け反っていた。両目をひん剥き、喉を掻きむしっている。
彼女の背後では、ユーディンが右手を掲げ、くいくいと踊るように指先を動かしていた。彼の指の動きに合わせ、マリーシャも悲鳴を上げる。
「うっあああっ――ユー……ディン……!」
「精神を病んでるとはいえ、レティシア様に手を出した以上、生かしておくことはできない」
ギリギリと見えない糸でマリーシャを締め上げるユーディン。その双眸に、躊躇いの色はない。
本気でマリーシャを絞め殺そうとしているのだ。
「だめ――やめて、ユー……ごほっ」
「お止めくださりますな、レティシア様」
ユーディンは冷めた眼差しでマリーシャを見、ぐいと右手を宙に持ち上げた。マリーシャの体も上に引き上げられ、悲鳴が大きくなる。
「この能なしはロザリーの夢を壊した。それだけでなく、弱ったロザリーをどこまでも傷つけ通した。そして、あまつさえ実の娘にも手を掛けた――もっと早くにこうなるべきだったんだ、マリーシャ」
「お、のれ……!」
マリーシャは目を剥き、そして自分の足元で呆然とするレティシアを見た。
「レティシア――レティシア! すぐに、この男を始末しなさい! お母様を助けなさい!」
漸く、名前を呼ばれた。
まっすぐ、レティシアを見ていた。
だが、母が与えてくれたのは労りの言葉でも慈しみの言葉でも、ましてや恨み言でさえなかった。
ユーディンを殺せ――それが、母がレティシアに与えた最初で、最後の言葉だった。
レティシアの指先から力が失われるのと同時に、ユーディンの目も鋭く輝いた。そして――
はたり、とマリーシャの動きが止まる。喉を仰け反らせて天を向くような姿勢でマリーシャは制止し、動かなくなった。
ユーディンが右手で何かを払う仕草をする。するとマリーシャの体が膝から落下し、どさっとその場に倒れた。体を大理石の床に打ち付けても、ぴくりとも動かない。
「……そうです、もっと早くこうするべきだったのです」
唖然とするレティシアを差し置き、ユーディンは一人頷いた。そして思い出したようにマリーシャの亡骸を見、「邪魔だ」と一言言い捨てる。
直後、礼拝室の窓ガラスがパン、と弾け飛んだ。物理的に砕かれたのではなく魔法で華麗に破られたガラスはぱらぱらと外へと落下していく。とたんに身を切る寒風と潮の香りが届いてきた。どうやらこの礼拝室は灰色の海に面しているようだ。
ユーディンの指先が動く。マリーシャの遺骸がふわりと浮き、そのまま窓に向かって水平移動する。そのまま、母の遺体は破られた窓からぽいっと放り投げられた。
全ての動作を、レティシアはただ見守るしかできなかった。体はちっとも動かないし、動きたいとも思えない。
レティシアはひとつだけ、瞬きした。ゆっくり、マリーシャの亡骸が視界から消え去る。永遠とも思える長い時の後、遠くの方から小さな水しぶきの音が響いた。
(お母様――)
思わず声に出しそうになり、レティシアはぐっと唇を噛みしめた。
冷酷、と言われるかもしれない。親殺し、と詰られるかもしれない。
だが、今のレティシアにはユーディンに殺され、窓から投げ捨てられた女性が自分の実母だとは思えなかった。
死の間際まで己の非を認められず、狂気のうちに死んだかわいそうな女性。それだけだった。




