聖女の答え 5
正直、聖都の構造なんて知ったことではない。どこに何があるのか、出口がどこなのかすら分からない。
だがそんなレティシアと違い、手元の杖は何でも知っていた。あっちだよ、こっちだよ、と勝手に動いて知らせてくれる。伊達に何世代もの大司教を選定していたわけではないようだ。
人気のない廊下を歩く。そろそろ夕日が沈みかけており、オレンジ色の光が聖堂に差してきていた。
誰もいない荘厳な廊下を、たたっと走るレティシア。その手元には、自分の身の丈ほどもある杖。不釣り合いなシルエットが長く長く、大理石の床に伸びていた。
レティシアは、廊下を曲がった先の一室の手前で足を止めた。扉の両側に小振りの女神像を据えており、扉には「第五礼拝室」との札が掛かっている。
ここだよ、と杖がいたずらっ子のように囁く。どうも、とレティシアは心の中で返す。
礼拝室なんて、自分には一生縁のない場所だと思っていた。それはルフト村で農作業をしていた頃もそうだし、セフィア城にいた頃も。ましてや、実母マリーシャと対面した後でさえ。
最初から、大司教になんてなる気はなかった。自分はそんな柄ではないし、自分のような大司教が立てばそれこそ、お先真っ暗だろうから。
――本当にそうなの? と杖が問う。
あなただったら、おもしろい世界を作れると思うけど?
あどけない少女のような、悪戯好きの少年のような声で杖は囁く。それは、決して嫌な響きではなくて。むしろ、くすぐったいような快感があって。
――何にしても、この場を切り抜けないと。協力するからね。
「……了解」
レティシアは頷き、杖を掲げた。待ってました、とばかりに杖がブンブン唸り――ドアを、吹っ飛ばした。
ぱたん、と内側に倒れるドア。ドアを踏みつけて礼拝室に進むレティシア。よしやったぞ、褒めてくれ。と唸る杖。
奇妙な「二人組」を出迎えたのは、レティシアにとって意外な人物だった。
「……どうしてここにいるのよ」
呟きは、杖に対して発された。さあね? と杖はからかうように言い、そして急に大人しくなった。後は任せたということだろうか。
レティシアは、前を見た。小振りな礼拝室の長いすの間を歩いていく。
部屋の奥にある説教台に向かって、一人の女性が跪いていた。豊かな金髪が波打ちながら床に垂れ、純白の法衣が彼女の細い体を包み込んでいる。
ああ、とレティシアは嘆息する。二年前に会った彼女は、もっと品があった。もっと、肉付きがよかった。この数年の間に、彼女に何があったのか。
レティシアは、彼女の背後まで歩み寄った。これほど近くまで行っても――さらに言えば、ドアが派手な音を立てて破壊されても、彼女は微動だにしなかった。ずっと同じ姿勢で、ぶつぶつと何事か呟いている。
「……大司教様」
レティシアは呼びかける。返事は、ない。
「マリーシャ様」
先ほどよりも少しだけ、大きな声で言う。やはり女性は反応すらせず、ひたすら、目の前いる見えない誰かに向かって一生懸命語りかけていた。
レティシアは息を吸った。そして、ルフト村で農作業をしているだろう、養母に心の中で詫びながら言う。
「……お母様」
とたん。
爆発音にもテコでも動かなかった女性がはっと振り返り、レティシアを見てぱあっと顔を綻ばせた。
皺の寄った、中年女性の顔。目尻は垂れ、頬の肉も落ちている。髪はまともに手入れしていないのか、あちこち勝手な方向に跳ね、着ている法衣も鏝でも当てないと戻らないような深い皺を刻んでいた。
「……ああ! 来てくれたのね! お母様は、あなたを待っていたわ!」
女性は立ちあがろうと腰を浮かし、そしてすぐにその場に頽れた。本人でも分からないほど長い間、その場に跪いていたため足が痺れて動かないのだろう。
レティシアは反射的に前に足を踏み出して、そのまま停止した。床に倒れたにもかかわらず。女性はニコニコと笑っていたのだ。じっとレティシアを見つめたまま、自分が倒れていることにも気付かない様子で。
「やっぱり、女神様はわたくしの願いを聞き届けてくださったのね――ああ、もっとよく顔を見せて。お母様はずっとずっと、あなたに会いたかったのよ」
会いたかった。彼女がずっと会いたかった人。
「ねえ、あなたもでしょう――フェリシア?」
そう、彼女がずっと会いたかった人は。
(私じゃない)
レティシアは、静かに女性を見下ろしていた。その瞳に動揺の色はない。まあ、そういうオチだろうな、と予想が付いていたから。
「――かつては聖都のトップとして君臨していた女大司教。後ろ盾がなくなれば、まあ何とも情けない人形になったことだな」
静かな声。かちゃり、と開く奥のドア。
白の法衣を纏った彼は、床に倒れ込む女性を見、レティシアの手の中の杖を見、そしてレティシアの顔を見、微笑んだ。
「さすがだ、レティシア。私が見込んだだけある。継承の杖をこうも容易く使いこなすとはね」
だが、と彼は自分の顎を指先でさすり、レティシアの手の中で気ままに唸る杖を見つめる。
「残念でもある。君はこれほど才能に恵まれているのに、大司教になるつもりはないんだね」
「……ええ、本当に残念です」
杖の先が真っ直ぐ、男性の心臓に向けられる。
「――シュトラウス様。あなたと敵対することになって」
ユーディン・シュトラウスは自分の心臓に向けられた杖を見、静かに微笑んだ。杖の力で魔力を増幅させたレティシアの魔力の前では一撃で葬られてしまうだろうに、その顔には余裕の色が浮かんでいた。
「――シュトラウス様」
「なんだい?」
やはり、声にも緊張や恐怖はない。
「……どうして、こうなったんでしょうか」
ユーディンに聞く、というよりは自分自身に問うているかのような呟き。自分でも分からなかった。
なぜ、こうなったのか。
ユーディンは説教台の近くの椅子に座り、台に肘を突いて微笑んだ。
「そうだね――事の始まりは、君が生まれる前。その時から既に、クインエリアの崩壊は目に見えていた。私もティルヴァン様も、崩壊の時までを長引かせるしかできなかったんだ。全ては――そこにいる女のせいでね」
そこにいる女――レティシアの実母であり、大司教の地位に就いていたマリーシャは、なおもにこにこ笑ってレティシアの足に縋り付いていた。
「ねえ、フェリシア。今度こそお母様と一緒に暮らしましょう。大司教の役目なんていいの。ずっと、お母様と一緒よ――」
「……ご覧お通りです。この女は我が強く、知性の欠片もない愚鈍な女――それが大司教になるというのだから、何とも世知辛い世の中じゃないですか」
「……どういうことですか」
力なく呟くレティシアに、ユーディンは片眉を上げた。そして、「そうだな」と唸って礼拝室の天井を見上げる。
「君はくしくも、この女の娘だ。知る権利があるし、君には是非、聞いてもらいたい」
手の中の杖がブン、と唸った。聞いて損はない、と杖は囁いている。
レティシアは頷き、そっと実母の手を振り払って長いすのひとつに腰掛けた。
「――聞きます。教えてください」
ユーディンは毅然としたレティシアの顔を見て微笑み、ゆったりと口を開いた。




