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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第6部 碧空の覇者 
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聖女の答え 2

 温かい日差し。鼻孔をくすぐる、土の香り。

 レティシアは、故郷ルフト村の畑に立っていた。見回すと、忙しく畑仕事に精を出す村人たちが。どれもレティシアの見知った顔ばかりで、ぼんやりと立ちつくすレティシアに軽く手を上げてくれる。


「レティ、突っ立ってないで水やりを手伝っておくれ!」


 背後から声を上げたのは、養母。

 記憶の中と全く代わっていない母はブリキのじょうろを持ち、せっせと畑の畝に水をやっていた。


「あ、うん。母さん」


 レティシアは母からじょうろを受け取り、畝に水をやった。

 不思議なことに、じょうろの水は尽きることを知らない。水を出し続けても中が軽くなることもなく、延々と水やりができる。


(そっか、これは夢なんだ)


 夢だから、春の日差しの中で自分は農作業している。じょうろの水はなくならないし、腰を曲げたからといって腰痛になることも腕が疲れることもない。


「……なあ、レティや」


 隣で草取りに移っていた養母が、顔を上げずに言う。その日焼けした横顔は、帽子の影になってよく見えない。


「あんた、大司教様になるんだってな」

「えっ」


 ふっと、意識が遠のきそうになってレティシアは蹈鞴を踏んで堪えた。

 一気に現実が戻ってくる。


「……母さん、それは……」

「村のことは気にせんでいい。あんたは選ばれた子なんだ。迷う必要はないさ。大司教におなり」


 そんな、とレティシアはじょうろを取り落とす。だが手放したというのに、じょうろはすぐにレティシアの手元に戻ってきていた。そして、レティシアが中身を傾けずともちょろちょろと水を出す。

 養母の顔は、やはりよく見えない。だが口元は寂しそうに笑っていた。


「いいんだ。最初からそのつもりだった。あんたの本当のお父さんもお母さんも、あんたが後を継いでくれたらそりゃあ、嬉しいだろう」

「でも、私は……」

「レティ」


 そっと、肩に大きな手の平が乗る。懐かしい、木屑と酒の匂い。


「母さんの言う通りだ。大司教は、おまえしかなれない」

「父さん」


 振り返った先の養父の顔も、やはり逆光に遮られて見えない。だが、耳朶を震わせる低い声と熊のような体は間違いなく、レティシアを育ててくれた養父のものだった。


「おまえが大司教になること――それが俺たちの願いだし、ロザリンド様の願いでもある」

「ロザリンドの――」

「そう、だから迷わなくていい。聖都には優秀な神官も多くいることだろう。安心して、両親の後を継ぎなさい」


 養父の声が、だんだん遠のいてくる。手の中からじょうろの感覚が消え去り、暖かな日差しも畑の風景も、闇に飲まれていく。

 いや、違う。レティシアが闇の中に落ちていくのだ。


「父さん……母さんっ!」


 暗い世界へ落ちていく中、レティシアは必死に手を差し伸べた。

 その指先が温かい世界に触れるよりも早く、レティシアの目の前が弾け、真っ白に染められた――












 がばっと腹筋を使って飛び起き、レティシアはぜいぜいと荒い息をついた。そして目元を擦り、自分の視界が真っ白なことに気付いて狼狽する。


(さっきのは夢だった……でも、ここは……?)


「目が醒めた?」


 聞き慣れた声。シャッとカーテンを引く音がして、真っ白な視界の一部が解除される。

 白い天蓋を引いて顔を覗かせた人物を目にし、レティシアはほうっと安堵の息をついた。


「セレナ……」

「汗だくじゃない。すぐにお湯を持ってきてもらうから」

「あ、いや……ちょっと待って!」


 慌てて引き留めるが、セレナは踵を返して天蓋の外に行ってしまった。差し伸べた手をぽとりと落とし、レティシアは漸く自分の今の状況に気付いた。


 レティシアは、ふかふかのベッドにいた。セフィア城の自室のそれよりもずっと上質で、手の平で叩くとパフパフと音が出るくらい柔らかで分厚い。きっとこのマットレスにダイブすると、反動でぽーんと体が跳ね上がることだろう。

 額を伝う汗を拭い、レティシアは天蓋を引いた。そして真っ白な調度品で統一された豪華な部屋に目を剥く。


「どっ……ここ、どこ!」

「クインエリアの客間――いえ、あなた用の部屋よ」


 言うのはセレナ。彼女はドアの前で湯入りの桶を受け取り、レティシアの前に置いてタオルを浸した。


「着いてすぐにレティシアは寝てしまったから、いろいろ混乱するだろうけど」

「何があったの!?」


 声高く言い募るが、セレナはタオルを絞るとツカツカ歩み寄り、レティシアが着ていた寝間着を一気に剥いできた。

 親友のまさかの暴挙に、レティシアはぎょっと目を剥く。


「ぎゃああっ! セレナ変態!」

「何言っているの。ほら、じっとして」


 いきなり衣服をひん剥かれたレティシアは絶叫するが、セレナは驚くほど手際よくレティシアを裸にし、眉ひとつ動かすことなくその体をタオルで拭き始めた。

 体を拭いてもらうなんて幼少の頃以来なレティシアは、親友の暴走にただただ混乱するしかなかった。


「やめ、やめてってば! 汗を拭けばいいんでしょ! それくらい自分でできるって!」

「でも、これは私の仕事だから」

「いつそんな仕事を与えたんだよ! ぎゃあっ! そこは本当にやめてー!」


 結局レティシアの抵抗も虚しく、体の隅々まで拭かれたレティシアはぐったりとベッドに俯せになっていた。尻丸出し状態だが、もはや隠す気力もない。


(貴族は他人に体を拭かせるっていうけど、こんなの拷問だよ……)


 枕に顔を埋めて撃沈するレティシアをよそに、セレナは桶を片付けると新しいローブを出し、なおも脱力中のレティシアに手際よく着せてきた。


「今日のセレナ、なんかおかしい」

「仕方ないでしょう。この場なんだから」


 何のことだ、とレティシアは顔をしかめる。セレナは一式を片付けた後、カップボードで紅茶を入れて持ってきた。


「いろいろ話すことがあるけれど――喉が渇いているでしょう」

「ついでに言えば、お腹も空いた」

「それはまた後で。まずはこれでも飲んで」


 セレナはいつも通り、手慣れた仕草で紅茶を注ぐ。レティシアはどこかぼんやりしたままカップを受け取り、すんすんと匂いを嗅いだ。


「品がないわよ、レティシア」

「いつもやってるじゃない」

「だめよ、この場なんだから」


 もう疑問に思うのも億劫になってきた。とにかく、今日のセレナは多少おかしくなっているようだとは分かった。

 レティシアは一気に紅茶を煽り、舌先で転がした。


「……アップルティー? でも薬臭いような」

「健康にいいハーブを入れているのよ。頭もすっきりしてくるでしょ?」


 確かに。ハーブの香りが脳を刺激し、すっと視界がクリアになってきた。先ほどまでは少しぼやけて見えたセレナの顔もくっきり映る。


「……いろいろ気になることがあるでしょうね。でも、端的に言わせてもらうわ」


 セレナは真っ直ぐにレティシアを見、やや声を尖らせた。


「私はさっき、神官の方々とお話ししたのだけれど、今の聖都はとても危ない状況らしいの。ともすれば――クラート様のオルドラントやノルテのバルバラ王国にも危害を加えてしまうほどの」

「えっ」


 レティシアは息を呑んだ。まさか、それほどまで事態が差し迫っているとは。


「でも、私のおか――大司教様はまだ生きているんでしょ?」

「もちろんよ。でも、どうやら反大司教派が地下に籠もっているらしくて、そこにマリーシャ様が捕らわれているの。彼らは地上にいる神官たちが音を上げるのを待っている――今はまだ冷戦状態だけれど、このまま大司教の席が空白状態だととても危険なの」


 セレナの言いたいことは分かる。大司教派と反大司教派が拮抗し合う今、早急な対応が求められていることも。

 レティシアはこくっと唾を呑んだ。


「……じゃあ、やっぱり私が大司教にならないといけないの?」

「ええ。神官方はそう考えているわ」


 ただ、とセレナは項垂れるレティシアを励ますように言う。


「儀式の手順自体は簡単だそうよ。とにかく、反大司教派に見つかる前に儀式を行うの。儀式の間の台座に大司教選定用の杖があって、大司教に相応しい者が杖に触れると、莫大な魔力を得られる――そう伝えられているの」

「詳しいね、セレナ」

「これくらい常識よ」


 とにかく、とセレナは茶色の目を細めてレティシアを見つめてくる。


「これ以上大司教の座を空けるわけにはいかないの。あなたが大司教になれば、反大司教派もぐうの音も出ないわ。新大司教の名にかけて母君を救い出すことも、聖都の名を掲げてクラート様たちに支援することもできるわ」


 クラートへの支援。

 レティシアは目を丸くし、乾いた唇を潤すためにもう一口、紅茶を口に運んだ。


「で、でも私は、大司教としての仕事とか、そんなの何も知らないし……」

「大丈夫、何のために私がいると思っているの」


 セレナは静かに微笑み、レティシアのカップに新しい紅茶を注いで言う。


「私はいつだって、あなたの側にいるわ。これまでと同じように――これからもずっと。だから大丈夫よ」


 大丈夫。

 一体レティシアは、セレナの「大丈夫」に今まで何回救われてきたことだろう。

 ほっこりと、胸が温かくなる。レティシアは我知らずのうちに微笑み、くいっと紅茶を煽った。


「ありがとう、セレナ。すっごく心強いよ」

「それは何より。……それで、どうする?」


 どうする、とは大司教のことを言っているのだろう。

 レティシアはしばらく黙って考え込み、そして紅茶のカップを手で弄びながら口を開く。


「……うん、とりあえずそっちの方向で行くよ。儀式のやり方とか、そういうのはセレナが教えてくれるんだよね」

「ええ。神官の方々も、レティシアと親しい私が教える方がいいだろうっておっしゃって」

「うん……じゃあ、よろしくね」


 紅茶の最後の一滴を飲み干し、レティシアはよし、と気合いの声を上げた。


(私にできること――それがきっと、大司教になることなんだよね。そうだよね、ロザリンド――)


 妙な達成感に浸っていたレティシアは、気付かなかった。

 紅茶を飲んだ辺りから、自分の主張が変わってきていること。

 目の前のセレナが、今までのセレナとは全く違う、唇の端を歪めるような笑い方をしていることに。











 ――一方その頃。


 ぴちょん、と遠くの方で水が滴り落ちる音が響く。壊れかけた煉瓦塀の隙間からわずかな光が差し、薄暗い地下室を斑状に照らしていた。


 さて、どうしようか。

 セレナは薄汚れた床に座り、胸の前で腕を組んだ。試しに右手を上げてみるが、指先からは火の粉すら上がらない。ぼろぼろの地下室だが、封魔体制は完備しているようだ。


 あちこちでは騎士たちの呻き声がする。彼らもセレナと同じ目にあったのだ。

 神殿に入ったとたん、背後から魔法を掛けられて動きを封じられ、そのままこの地下室に放り込まれるという悲惨な目に。


 セレナは目を細めて、頭上を見上げた。天井が低いので、セレナたちが放り込まれた穴はわりと近い高さにある。さすがにジャンプしたくらいでは届きそうにもないが、もし魔法が使えたならば穴を封じている扉を吹っ飛ばし、宙に浮き上がって脱出することができるのに。それができないようにするための封魔なのだろうが。


 セレナたちが金縛りの魔法を受けた時、先頭を歩くレティシアは皆に気付かないまま、歩いていた。そして異変に気付いて彼女が振り返ろうとしたとたん、廊下の角から現れた魔道士が彼女に魔法を掛け、意識を失ったレティシアをかっさらっていったのが見えた。

 つまり今、セレナたちはレティシアと引き離されているのだ。罠に掛かったと言うべきだろうか。

 がしゃん、と音を立てて騎士たちが体を起こす。


「むう……ひょっとしてレティシア様と隔離させられたのだろうか」


 リーダー格の中年騎士が呟いたため、セレナはゆっくり頷いた。


「そのようです。きっと聖都は、最初からそのつもりだったのでしょう」


 セレナの言葉に中年騎士が呻き、他の騎士たちもぼそぼそと声を出す。


「やられた……どうするんだ、こんな所に放り込まれて」

「魔道士さん、魔法を使えないんですか」

「もちろんです」


 セレナは答え、そして立ち上がろうとして足の痛みに顔をしかめた。ここに放り込まれたときに足を捻ったのだろう、右足首が今になって痛みだした。

 そういえば、捕らわれたときに髪を引っ張られた。数本髪を抜かれた気もする。聖都の神官は、レティシア以外の侵入者を丁重にもてなすつもりはないようだ。

 中年騎士はセレナのわずかな顔の変化も見逃さなかったようだ。彼は立ちあがり、腰に下げていた剣がなくなっているのを見て落胆のため息をついた後、背後を振り返った。


「こうしてはいられない。行くぞ、おまえたち」

「行くって……どちらへ?」

「分からぬ。だが、ここでじっとしていても仕方がない。脱出方法を探さねば」


 騎士はきびきびと言い、近くにいた若い騎士を呼んだ。


「おまえはこちらの魔道士殿をお支えしろ。足を怪我されている」

「あ、はい!」


 まだ少年とおぼしき年頃の騎士が駆け寄り、その場にしゃがみ込みセレナの腰を支えた。


「すみません、ちょっとだけお体に触れます」

「ええ。ごめんなさい、ありがとう」


 セレナは騎士の手をありがたく受け入れ、その体に寄り掛かって立ち上がった。セレナの豊かな胸が少年騎士の腕に触れ、彼はかあっと顔を赤らめたが、セレナはそんなことには気付かなかった。その場が暗かったのもあるし、それ以上に別のことで頭の中が一杯だった。


 とにかく、まずはここから出なければならない。そして、どこかにいるだろうレティシアを探さなければ。

 セレナと騎士たちは互いに身を寄せ合いながら、カビ臭い地下室の奥へと歩いていった。

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