差し伸べられた手 3
セレナに教えを請うようになって、数日。
授業の合間の自由時間や夜の休憩時間を割いて、レティシアはセレナに魔道や作法を一から教わり直していた。
セレナも平民出身ゆえ、編入したての頃は周りについていけずに苦労することが多かったという。幸い、セレナはレティシアと違って街で育ったので最低限の作法や魔道の教養は身につけてはいたが、同年代の令嬢子息たちと比べればお粗末なもの。
それこそ寝る間も惜しんで魔道の復習に勤しみ、自分なりのメソッドを開発していったのだ。「魔道を使う力を求める心」というのも彼女流の解釈だったと思えば自然な流れだろう。
「といっても、全ての魔道士に私のやり方が通用するとは思えないわ」
ダンスの特訓を終え、すっかりへばったレティシアに魔法で温い風を送りながらセレナは言う。
今日はいつもより体を動かすため、レティシアもセレナも動きにくいローブを脱ぎ、半袖ブラウスと黒いタイトパンツ姿になり、家具を壁際に押しやったレティシアの自室で特訓していた。汗でブラウスが透け、尻の形までがくっきり浮かび上がるパンツ姿なので、とてもこの格好では部屋の外を出歩くことはできない。
「私はきっとレティシアと気質が合っていたのね。まあ、なんとなくそんな感じはしていたけれど」
「そう……なの?」
くるくる回って高く跳ぶ。それを繰り返しレティシアの息は完全に切れていた。農作業のおかげで体力はある方なのだが、普段は使わない筋肉を酷使したためだ。
息苦しそうなレティシアを見かねたのか、平然とした顔のセレナは立ち上がってシンクで水を汲み、レティシアにコップを渡す。
「ゆっくり飲んでね。……魔道士も人それぞれよ。特に貴族出身の魔道士は闘争心が高くて、相手に打ち勝つか大人しく服従するか――その瀬戸際を常に漂っているの。聞いた話だと、魔道士団でも少数派な平民出の魔道士同士は気が合うことが多いそうよ」
「……そうなんだ」
温い水をちびちび啜りながらレティシアは相槌を打つ。いきなりキンキンに冷えた水を持ってこないのは、セレナの優しさゆえだろう。
「……カウマー様も、最初の日にそんなこと説明していた気がするな」
「そうね。でも、魔道士だからってお上品に戦わなければならない、とは言い切れないわ」
不可解な表情を浮かべるレティシアを見、セレナは小さく笑ってブラウスの裾をまくり、露わになった白い腕を曲げて軽く叩いた。
「公式な試合では御法度だけれど、魔道士が殴るのは正当防衛。私たちは、腕を封じられたら魔法を放てない。だから相手を油断させて、肘打ちをお見舞いするなり……」
言いながら彼女は右の拳に左手を添え、右隣にいるらしい見えない敵に向かって鋭い肘打ちを放ち、
「のど元を拘束されたなら、その腕に噛みつき……」
白い歯を剥いてカシッと上下の歯を叩き合わせ、
「相手が男性なら、遠慮なく急所を蹴り上げる、と」
右膝を曲げ、前方に立つ見えない敵の股間を蹴り上げた。
(魔道士って、腕力とか必要ないと思ってたけど……)
「……セレナ、結構過激派だったのね」
「やだ、人聞きが悪いわ」
セレナはころころと笑い、床に腰を下ろして空になったレティシアのコップを受け取った。
「これはね、ディレン隊の侍従魔道士になったときにレイド様からご教授いただいたの。『お淑やかな令嬢気取りはこの隊では通用せんぞ』って。虚弱な魔道士を優先的に狙う輩もいるから、自分の身は自分で守れるように最低限の自己防衛術は備えていろ、とね」
ほー、と気の抜けたような返事をするレティシアは、思いついたことを問うてみる。
「……じゃあ、私も急所蹴りとか、できるようにすべきなの?」
「まさか。ディレン隊の方針としてそうしているだけで、無理して殴ろうとしなくていいわ。それに……」
「それに?」
「レティシアは、まずディレン隊に入れるだけの実力を開花させないとね」
目を細め、茶化すように言うセレナ。
このブロンズマージには、到底適いそうになかった。
「よう、ダメ先輩、久しぶりだな!」
魔道授業の教室にて。遠征期間中は生徒数が疎らなため休講だったこともあり、久しぶりに教室に足を踏み入れたレティシアにこれ見よがしに肩からぶつかるマックス。乳歯が生え替わる時期なのか、前歯の横が一本抜けていて少し喋りにくそうだ。
「遠征はどうだった? 魔法ひとつ使えないお荷物はさぞ、邪険にされただろうなー?」
マックスの煽りを耳にし、くすくすと笑う取り巻きたち。だがレティシアは何も言わず、授業に備えて長いローブの裾をまくり上げた。
子どもの戯言には耳を貸さない。暴言を吐かれたら、冷たい目で見返してやればいい。「あなた、子どもね」と言わんばかりの冷めた眼差しで。
当然、大人な対応ができないマックスは達観顔のレティシアにへそを曲げ、鞄をぶらぶら揺らせながらレティシアに詰め寄ってきた。
「あんだよ、無視か? さてはアレだろ、俺の言うことがごもっともすぎてぐうの音も出ない、とかだろ?」
声変わり前の少年たちの笑い声が教室に響く。女子生徒は我関せず、とばかりにこちらに背を向けているが、何人かは興味を引かれたようにマックスらの方を窺い見ていた。
そんな年下たちは歯牙にも掛けず、レティシアは壁に寄り掛かって目を閉ざした。授業の前の精神統一も大切な準備だ。
「はいはい、それじゃあ授業を始めるよ」
空気を読んだのか読まないのか、険悪な空気を取っ払うかのようにやってきた教師。これまた久しぶりに見る顔だが、やや額の後退具合が進行しているような気がする。
「遠征はどうだったかな? 長い休講期間だったけれど、その間もさぼることなくみんなが魔道の訓練をしてきたか、早速テストをしてみようか!」
きたぞ! とわざとらしく声を張り上げ、レティシアを舐め腐った目で一瞥するマックス。
そんなマックスを三角形の目で見下ろすレティシア。
静かな睨み合いは、教師が教室の中央に赤茶けたレンガを積み重ねる音によってあっという間に終戦する。
「今日の課題は、これ。レンガを宙に浮かせてもらおう。私の合図でレンガを浮かせ、そのまま着地させる。きちんと指示通りにできれば合格だ」
教師の説明を聞き、子どもたちは目を輝かせてローブの腕をまくった。成功するかどうかはよしとして、自分の魔法を披露したくてならないのだろう。
教師が順に名前を呼び、呼ばれた者はクラスメートの前で魔法を放つ。名簿の都合上、レティシアより先にマックスが呼ばれた。彼はこれ見よがしにレンガを浮遊させ、積み上げられたレンガはバラバラになりながら浮き、着地させたときには派手な音を立ててタイル床に転がった。
マックスはこれ以上ないくらい自慢気な顔で、賞賛する子どもたちの輪へ戻ってきた。
だが手持ちのノートにマックスの成績を記す教師の顔が不快そうに歪んだのを、レティシアは見逃さなかった。
マックスから後、さらに数人の子どもが呼ばれる。ある者はぐらつきながら一メートルほどレンガを浮かせ、ある者は着地に失敗して降ってきたレンガを後頭部に食らってべそをかき、ある者は魔法を間違えて教師の目の前でレンガの山を爆破させた。
「……はい、それじゃあレティシア、やってみようか」
粉微塵に大破したレンガに代わって新品を積み上げ、教師は名簿に書かれた順に名を呼ぶ。そして、決意の表情で歩み寄ってきたレティシアと小馬鹿にしたようなマックスの顔を見、しまったとばかりに顔をしかめた。
「……レティシア・ルフト。もし無理そうなら辞退してもいいんだよ」
耳元で小声で囁かれ、レティシアの頬がかあっと熱を持った。
以前のような恥じらいでも羞恥でもない、怒りの色に頬が染まる。
「ほら、君は少し成長が遅いようだし……」
「大丈夫です。やってみます」
気遣いのつもりだろうが、教師の言葉はプレッシャーにしかなっていないことを、レティシアは重々承知していた。
なおも執拗に肩に乗せられた手を引き剥がし、レティシアは教室の中央に立つ。
数メートル先に据えられたレンガは、六つ。難易度を上げるために、わざと今にも崩れそうな絶妙な角度で積み上げられている。確かに、この形状のまま浮遊させるのは相当困難だろう。
(私は、大丈夫)
いつぞやと同じように、両手を前に突き出す。そして目を閉ざし、今までセレナと一緒に訓練してきたときのように、体の力を抜いて浅い呼吸を繰り返す。
体が、軽くなる。
ローブの裾が風もないのにはためき、長いオレンジ色の髪が揺れる。
周囲の子どもたちの、度肝を突かれたような驚きの声。教師が息をのむ音。
それら全てが霧の彼方から聞こえてくるかのように頼りなく耳に届いた。
力を貸して。
渦巻く風に、そう念じる。
目の前のレンガを浮かせてほしい。力を与えてほしい。
「すごい……すばらしいよ、レティシア・ルフト!」
静寂を突き破るかのように教師が声を上げ、レティシアはゆっくり、集中を解かないよう、慌てないよう目を開いた。
目の前には、何もない。重たそうに鎮座していたレンガは今、天井ギリギリのところで浮かび上がり、そのまま微動だにせず滞空していた。
レティシアが起こした風の魔法によって、レンガは望み通り、宙に浮いていたのだ。
わあっと歓声を上げる子どもたち。首だけ捻ってそちらに目を遣ると、ほとんどの子どもたちは思いがけない成果を見てめいっぱい拍手をし、そしてマックス含む取り巻きはぽかんと口を開き、信じられないものを見たとばかりに絶句していた。
「ああ、ありがとう、レティシア! それじゃあ、ゆっくり下ろしてもらおうか」
教師も満面の笑みで言い、レティシアはそれに従ってゆっくりと、レンガを下ろしていく。ゆっくりゆっくり両手を下ろし、それに合わせてレンガも下降する。
軽い音を立ててレンガが床に着地したとたん、ぶわっと体中から冷たい汗が噴き出した。茶滓を浮かせるのとレンガを浮かせるのでは全く消費体力が違う。めまいのようなぐらつきに襲われ、体をよろめかせたレティシアを教師の骨っぽい腕が支えた。
「よくやった! すばらしい魔法だったよ、レティシア!」
「ありがとう……ございます」
額を流れる汗を拭いながらレティシアが顔に笑みを貼り付けて答えると、教師はうんうん頷いてレティシアを壁際へ向かわせた。
「少し疲れたんだろう。全員分のテストが終わるまで座って休んでいなさい」
「はい、そうします……」
教師の厚意をありがたく受け、レティシアはふらつきながら他の生徒が待つ部屋の隅へと歩いていった。ほとんどの子どもたちは慌てて腰を上げてレティシアに場所を譲り、何人かの素直な子たちは「すごかったよ」「馬鹿にしてごめんなさい」と小声で話しかけてきた。
レティシアは、申し訳なさそうに顔を歪める彼らに向かって笑顔で手を振ってみせた。
「ありがとう。勉強した甲斐があったのよ、きっと」
心の底からそう、笑って答えることができた。




