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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第6部 碧空の覇者 
177/188

オルドラントの若獅子 4

流血注意

 駐屯地を大きく囲むように、「魔道士撃退魔具」や「魔力吸収魔具」を地面に埋め込んでいた。リデルの魔道士曰く、下級魔道士や気持ちに隙のある魔道士はこれらの魔具のある場所を通過すると、見えない壁に跳ね返されるなり、魔力を奪われて無力化するなりするそうだ。ただし、上級魔道士には効果がないという。


 ひょっとしたらと思って陣の周囲に蒔いておいたのだが、案の定フォルトゥナ軍の魔道士たちは一切気にした様子もなく、魔具の上を馬で通過してきた。元大公が集めた魔道士はどれも精鋭ばかりで、誰もが闘志をみなぎらせているということだろうか。


 クラートは陣の中央に立ち、汗の伝う手の平でぎゅっと弓を握った。この弓にもリデル魔道士たちが簡単な守護魔法を掛けており、魔法による攻撃でも破損しにくいようになっている。さすがに兵全員分の武器に魔法を施すことはできなかったが、下級兵士も一人最低ひとつは、何らかの魔具を身につけている。生きて帰ってこいと、エドモンド王も奮発してくれたのだ。


「……皆は、元大公やリデル諸侯などにはぶつからないでくれ。彼らは強力だ。彼らは、僕たちが討つ」


 クラートの声が、冬の草原に響き渡る。


「我々の狙いはフォルトゥナ元大公一人だ。奴を倒せば、リデル諸侯たちも降伏せざるを得ない。一点集中で、短期決戦を狙う」


 兵士たちを鼓舞しながらも、クラートの胸には、先ほどキサが告げた真実が今もわだかまっていた。


 もし、クラートの狙い通りオルドラント軍がフォルトゥナを撃破したなら、キサはどう動くだろうか。彼女らの目的が「相打ち」である以上、戦に勝ったからといってクラートたちが生き延びられるとは限らない。キサは、クラートたちの死も計算に入れているのだから。

 となると、クラートたちが討つべきなのは、二人。


「レイド」


 小声で呼びかける。クラートのすぐ隣で馬に乗っているレイドは、ゆっくり振り返る。


「……何だ」

「……死ぬなよ」


 レイドの隻眼が丸くなる。だが彼は余計なことは何も言わず、「了解」と短く返して再び前を向いた。


 草原の彼方から、フォルトゥナ軍の姿が見えてくる。レティシアの強い魔法を受けたクラートのブレスレットが反応し、ブレスレットを通して、魔道士たちから溢れる魔法の気配が見えた。


「……全軍、前進!」


 クラートが弓を掲げて叫び、勇士たちは雄叫びを上げながら駆けだした。










 魔法が飛び交い、剣戟が鳴り響く。

 目も眩むような閃光と、衝撃波。巻き上がる火炎が草原を焦がし、容赦なく襲いかかる風刃が兵士たちを切り刻む。


 だが、オルドラント軍の圧倒的劣勢というわけではない。リデル魔道士から貰った魔具が発動し、兵の喉を狙った風刃が消え去る。その隙に素早く魔道士の懐に切り込み、馬上から引きずり落とす。魔道士を倒す際には、命まで取らずとも両手を狙えばいい。手首を傷つけられたら魔力は激減、ほぼ無力化するのだから。


 クラートは激戦区から少し離れたところを、馬で駆っていた。敵の魔道士たちは大公であるクラートを真っ先に狙ってくる。魔道士がクラートを狙うたびに兵士たちが盾になり、発動した魔具の魔力が魔道士の衝撃波を打ち消す。


「っ……!」


 ふいに目の前に現れた魔道士が両手を掲げ、ごうっと唸る火炎球を放ってきた。ひと抱え分ほどもある火炎を放たれてクラートの馬がびくっと震えたが、馬が怯えるよりも早く、ブレスレットの魔具が反応した。

 ふわりと優しい春の匂いがしたかと思うと、軽い音を立ててブレスレットの魔石のひとつが弾け飛ぶ。と同時にクラートの前に透明な魔力の壁が現れた。レティシアも得意としている、魔法反射壁だ。


 レティシアが丹念に作り上げた魔法の壁は魔道士の放った火炎球を跳ね返し、魔道士の馬の足元で炸裂した。

 火炎球が爆発し、馬が驚いて前足を振り上げて嘶く。魔道士も慌てて手綱を掴むが、それよりも早く、クラートは弓を構えて流れるような動作で矢を放った。


 矢は過たず、魔道士の右腕に刺さった。突然の激痛に魔道士は悲鳴を上げ、そのまま手綱を失って落馬した。その時に魔道士が被っていたフードがめくれて、素顔が明らかになった。


 若い女性だった。


 立ち上がろうとした女性魔道士は、しかし背後から駆けってきた馬の前足に背中を蹴られ、ごふっと咳き込む。そしてクラートが弓を下ろしている間に、彼女の姿は馬の足と兵士たちの鎧に潰され、クラートの視界から消え去った。


 負傷して落馬し、軍馬に巻き込まれたらまず、命はない。

 クラートはふうっと息をつき、不安そうに鼻を鳴らす馬の首筋を撫でて横腹を蹴った。


 クラートを守ろうと陣を組む兵士たちから距離を取って、戦場を大きく迂回する。時折流れ弾のような魔法が飛んできたが、どれもレティシアの魔法が守ってくれた。魔法が発動するたびにブレスレットの魔石が砕け、最初は色とりどりだったブレスレットが、既に歯抜け状態で紐の上を魔石がくるくる動くようになってしまっていた。


 クラートはぎゅっと、ブレスレットを掴んだ。

 砕けた魔石の数だけ、クラートは命拾いをした。レティシアが守ってくれた。


 この命を、無駄にはしない。

 クラートは面を上げた。それと同時に、クラートの脇を固めていた兵士が呻き声を上げ、どうっと落馬する。


 クラートは息をつく間もなく、素早く弓を構えて矢を番えた。頭から落馬した兵士の頭蓋骨が砕ける音を聞きながら、矢を放つ。

 クラートの矢は吸い込まれるように戦場を飛び、今し方兵士に衝撃波をぶつけて落馬させた魔道士の喉に突き刺さった。矢羽根が揺れ、魔道士もまた、兵士と同じように頭から落馬する。ぐしゃり、というのは彼の体が別の馬に蹴られた音だろうか。


 クラートはちらと、自分の馬の足元に横たわる兵を見下ろした。まだ若い彼は魔道士の衝撃波を受けて、プレートメイルの中央が抉れている。落馬した際に首の骨を折ったのだろう、首を奇妙な位置で曲げ、両目をカッと見開いたまま絶命していた。

 彼の顔には見覚えがある。数刻前、彼はクラートの前で楽しそうに仲間と会話をし、愛用の剣を磨いていた。「戦勝金を実家に送るんだ」と、そう話していなかったか。


 つん、と喉の奥が熱くなる。クラートは弓を下ろして乱暴に目元を拭った。

 分かり切ったことだった。ここは戦場だ。必ず誰かが死ぬ。足元の青年だって、こんな所で死にたくはなかっただろうに。故郷の家族に金を送りたかっただろうに。

 クラートの馬が、主人の心の揺れを察したかのように、不安げに鼻を鳴らせる、と。


「……クラート」


 血と、埃と、泥にまみれる戦場。兵士たちの絶叫と魔道士の悲鳴で満たされた地獄図に似つかわしくない、鈴を振ったかのような上品な声。

 はっと、クラートは顔を上げて辺りを見回した。戦塵を巻き上げながら死闘を繰り広げる戦場。その風景が揺らぎ、涙でも流したかのように視界がぼやける。


「何っ……!」


 急ぎ手綱を握るが、馬も異常を察して不快そうに身を捻る。だが視界は徐々に色と形を失い、ふわふわした雲の中のような世界に、クラートは愛馬ごと包まれていた。


「何が……」


 クラートは弓を収め、コツコツと蹄を鳴らせる馬の横腹を撫でた。足元も草原ではなく、綿菓子のような霧のような不思議な物体で埋め尽くされている。

 安全のためと、クラートはゆっくり馬から下りた。ふわふわしていそうな足元だったが、ブーツの底は確かに、柔らかい草を踏みしめている。


「クラート」


 優しい声。懐かしい声。


 急ぎ、振り返る。真っ白な世界の彼方から、ゆっくりとやってくる一体の馬。真っ白な駿馬はぽっくりぽっくりと近づいてくる。その鞍や布の種類からも、相当高級な軍馬であることが分かる。

 そして、その馬の背に乗る人物。豊かな黒髪を靡かせ、体にぴったりフィットした藍色の軍服を纏う女性。


「ミランダ……」


 もう一度、会いたかった。もう一度話をしたかった、かつての仲間。

 クラートの手がするりと手綱を取り落とす。ミランダはクラートの手前で馬を止め、馬上でゆったりと微笑んだ。


「久しぶりね、クラート。……立派になって」

「ミランダ……僕も会いたかった」


 ともすればこぼれそうになる涙。もう、昔のように微笑みかけてくれることはないと諦めていた仲間が、今こうして変わらない笑顔を浮かべている。

 クラートははっと目を丸くし、誤魔化すようにひとつ咳払いした。


「ミランダ、一体どういうことだ。君は――フォルトゥナに付いたのだろう」

「そう。私はお父様の後を継いでエステス伯爵になったわ。その直後、あなたも知っているだろうけれど、フォルトゥナ大公に声を掛けられたわ。共に協力してオルドラント公国を潰そうと」


 ミランダは少しだけ悲しそうに微笑み、額にこぼれ落ちた前髪を指先で持ち上げた。そんな動作も、昔と全く変わっていない。


「もちろん、そんなの私が首を縦に振るわけない。だから大公は……」

「エステス伯爵領の民を盾に取ったのか」


 クラートが静かに言うと、ミランダは正直に頷いた。


「あなたの言う通りよ。代替わりしたばかりのエステス伯爵家は脆い――今の私には、大公を跳ね返す力がなかったの。だから、受けるしかなかった。何の罪もない領民のためには、どうすることもできなかったわ」


 クラートは頷いた。そして、ミランダを静かに見上げる。


「……でもまさか、それだけを告げるために僕をこの世界へ呼んだ訳じゃないんだろう」


 ミランダの細い眉が片方だけ跳ね上がる。疑問、というよりはクラートの反応を期待しているようだ。

 クラートは一呼吸置き、続けた。


「ミランダ、君は聡明で、誇り高い女性だ。たとえ君がオルドラントを襲撃することになった背景があったとはいえ、君が自分の行いを正当化するためだけに動くような女性ではないことを、僕は知っている。君の身辺事情はよく分かった。もっと――他に何か、僕に告げることがあるんだろう?」

「……ご名答よ。さすが大公閣下ね」


 ミランダは笑う。その言葉にも微笑みにも、イヤミの色は一切見えない。

 ミランダはすぐさま笑顔を消し、白く濁った上空を見上げた。


「……私たちの軍が到着するよりも早く、キサ・ウェルキンスがそっちに行ったでしょう? 他の魔道士や元大公は気付いていないようだったけれど、私はキサに張り付いていたから分かったわ。さしずめ、キサたちの企みでも暴露したのでしょう。あの人、最初から胡散臭かったから」


 最初からキサを疑っていたとは、さすがミランダだ。クラートは内心舌を巻きながらも頷いた。


「ああ――キサの狙いは、フォルトゥナとオルドラント両国の滅亡。おそらく、僕たちの存在は聖都にとって不具合があるのだろう。加えて、去年のアバディーンでの一件にも荷担していたと明かしてきた」

「やっぱりね。……まあ、だいたい察しは付いていたけれど」


 ミランダは納得顔で頷き、そして視線をクラートに戻した。


「いいこと、クラート。もはや聖都は、私たちにとって味方ではないわ。あっちに行っているレティシアもセレナも危ない――きっと、今頃起きているでしょう、バルバラ王国の異常だって同じよ。私たちはいいように使われているのよ。――クインエリアの、ね」


 ごくっと、クラートは唾を飲み込んだ。ミランダも同じことを考えていたのだ。

 今回動乱が起きた各国――オルドラント、バルバラ、クインエリア。これらは無関係ではなく、ひとつの大きな闇によって巻き起こされたのだ。

 おそらく聖都に腰を据えているだろう、闇によって。


 さく、とミランダの馬が前進する。そのままミランダはクラートの真横で馬を止め、そっとクラートの腕を取った。

 しゃらり、とクラートの手首でブレスレットが揺れ、ミランダは微笑んだ。


「ああ、やっぱりレティシアの魔力ね――あなたがこれを持っていたから、私はあの戦乱の中であなたを見つけられたのよ」


 そのままミランダはブレスレットに残された魔石に静かに指を滑らせた。何をされるのか分からず、身を固くしていたクラートだったが魔石は一度、大きく呼吸するかのように輝いた後、何事もなかったかのように落ち着きを取り戻した。魔石の数も色も、変化していない。


「クラート、よく聞いて。私は今、フォルトゥナ軍本陣で、フォルトゥナ元大公の側にいるの。近くにいるのは、キサくらい。あの糞ジジイ、若い女を侍らせてクラートが討たれるのを高みから見下ろすつもりなのよ」


 ミランダは少しだけ疲れたような笑顔を浮かべて言い、そしてすぐに表情を引き締めた。


「……私は今から、個人的な反乱を起こすわ。フォルトゥナ元大公を、討つ」

「なっ……!」


 思わず声が漏れた。クラートは弾かれたように顔を上げ、そして自分の目の高さにあったミランダの軍服の袖を掴んだ。


「どういうことだ、ミランダ! 君は領民を盾に……」

「そう、だから奴は油断している。キサも同じよ。私が裏切るはずがないって思っているの」


 だからよ、とミランダは揺るがぬ眼差しでクラートを見つめ返してくる。


「私が全てを終わらせるの。あなたは悔しいでしょうけれど、大公の首を取るのはあなたの役目じゃないわ。あなたたちはこれからも生きて、幸せになるのだから」

「何を言っている、ミランダ」

「賢いあなたなら分かっているでしょう? あなたとレイドの役目は、最後の後始末のみ。聖都の手先であるキサと――リデルの裏切り者である私の首を取るという、それだけでいいの」


 するり、とクラートの指先からミランダの袖がすり抜ける。そのまま踊るようにミランダの馬は体を捩らせ、愕然とするクラートの鼻先で身を翻した。

 その馬上で、これが最後とばかりにミランダが振り返る。


「クラート――最後に私からひとつだけ」

「待ってくれ……ミランダ!」

「フォルトゥナ元大公は、私含む魔道グループに強力な毒薬を作らせたの。少しずつ体を弱らせ、やがて命を静かに奪うという、残酷な毒薬をね。それを盛られた人は、衰弱死したかのように死に至るの――あなたのお父様のようにね」


 ミランダを捕まえようと伸ばしたクラートの手が、ぱたりと落ちる。

 ミランダは唇を持ち上げて、悲しそうに笑う。


「最後の最後でこんなこと言ってごめんなさい。でも――どうしても言っておきたくて」


 ミランダの姿が、白い闇の中に紛れていく。

 視界がどんどんぼやけ、霧が重く深く、クラートを包み込む。


「クラート、あなたのお父様は私が殺したの。だから――絶対に、来てね。私の首を取りに――お願いね、クラート……」

「ミランダ!」


 ミランダと馬の姿が、消える。

 そしてクラートの絶叫も霧の中に埋もれ、闇に呑まれたかのようにクラートの意識も、すうっと遠のいていった。

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