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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第6部 碧空の覇者 
173/188

竜姫ノルテ 7

 その頃、謁見の間では――


 たん、と床を蹴って、ノルテの小さな体が宙に舞い上がる。そのまま空中で華麗に一回転し、左手を床について着地する。

 ノルテと対峙するドメティ元大公は、大振りの剣を手に眉をひそめた。ちょこまかと動いて剣戟をかわし、蝶のようにひらひらと飛び回る王女。軍事力の国ドメティを治めるだけあって武術の心得のある元大公だが、のらりくらりと逃げ回る相手に対し、苛立ちが募ってきた。


「……箱入りの王女殿下は、人を傷つけることがお嫌いですかな?」


 わざと嫌みったらしく問うと、ノルテは立ちあがり、愛用の剣を軽く振るって不適に微笑む。


「別に? こう見えても、わたしだって騎士だから。蛮族の首を刎ねたことだってあるけど?」

「ほう……では滞在なさっていたセフィア城でも、首刎ね王女として君臨なさっていたとか?」

「残念だけど、わたしが相手を血祭りに上げるのはわたしの真の敵に対してのみよ。セフィア城の友だちには――こんな姿、見せられないから」


 そう言い、王女は返り血の浮かぶ頬に愛らしいえくぼを浮かべた。


 部屋の隅では、オリオンが一人でドメティの騎士たちを相手にしていた。ノルテが敵と一対一で向かえるよう、彼はノルテたちに背を向けて扉を死守していた。ノルテの位置からオリオンの姿は見えないが、時折聞こえてくる断末魔の悲鳴はどれも、オリオンがノルテのために屠った敵のものであった。


 かく言うノルテの背後にも、ノルテの剣の餌食になった騎士たちの遺骸が累々と重なっている。小柄で細っこい放蕩王女だと油断したのだろうが、誰一人としてノルテの体に一撃を見舞うことはできなかった。


 ノルテの体が跳ぶ。床を蹴り、マントを翻す。

 とっさに元大公が剣を自分の前に掲げる。二人の剣が十字架状に交わり、元大公が腕力で押し返すとノルテは再び宙を舞ってふわりと着地する。


 元大公が駆けだした。剣を床と平行に構え、真っ直ぐノルテの心臓を狙ってくる。

 ノルテもまた、剣を構える。ここで決める。


 竜姫の裂帛の声が、謁見の間にこだました――












 どしゃり、と騎士の体が床に頽れる。廊下に人気がなく、増援が止んだのを確認してオリオンはふうっと息をついた。

 さしもの筋肉馬鹿なオリオンも、やや息が上がっている。それもそうだろう。倒れ伏すあまたの騎士たちの波を、たった一人で食い止めたのだから。


 オリオンは剣を振るって血糊を払うが、既に乾いてしまった血はどうしても落ちてくれなかった。幾たびも剣を交えたため、刃は既にこぼれてしまっている。

 戦闘途中で折れなかっただけ奇跡だろう。オリオンは諦めて剣を鞘に収め――刀身が曲がっているらしく、収めるのに苦労したが――ゆっくり、振り返った。


 謁見の間の中央。向かい合う二人と、騎士たちの死骸。そして少し離れたところに横たわる女王の亡骸と、大振りの剣。


 ノルテはまっすぐ、元大公ののど元に剣を突き付けていた。瞳孔が見開かれ、はあはあと荒い息をついているが目立った外傷はない。一方の元大公は、右腕を押さえてその場に膝を突き、ノルテを見上げる形になっていた。

 どちらが優勢なのか、誰が見ても一瞬で分かる光景。だがそれを目にしたオリオンの表情は晴れない。むしろ、太い眉をきつく寄せてゆっくり、二人の元に歩み寄った。

 元大公は脂ぎった顔に、不気味な笑顔を浮かべて王女を見上げた。


「……どうかなさいましたかな? 王女殿下。後は、私の首を刎ねるだけでしょう?」


 ノルテは何も言わない。だが、血の斑点が浮かぶ唇は悔しそうにぎゅっと引き結ばれ、剣を持っていない左手の拳は、何かに耐えるかのようにふるふると小刻みに震えている。


「……悔しいでしょうね。たとえ私を殺しても、あなたの姉君も愛竜も戻っては来ない。それどころかあなたの手は、あなたの愛する姉を殺した男の血で染まるのです」


 ふるり、とノルテの剣先が揺れる。元大公の言葉は、確実にノルテの胸を抉っていった。


 最愛の姉はもう、戻らない。陽気なアンドロメダも。

 ノルテは、姉たちを殺したこの侵略者を殺したい。だが、バルバラの神々の元に召された姉はきっと、悲しむだろう。死ぬ間際でも、女王は祖国の全てを妹に押しつける形になってしまったことを悔いていたことだろう。

 そしてさらに、その妹の手を汚らわしい血で染めてしまうのだから。


 だが、これはノルテの復讐だ。この男の死をもってこそ、バルバラは助かり、生まれ変わるのだ。


 ノルテはギリリと唇を噛んだ。そして、引きつれたような悲鳴を上げて、剣を大きく振りかぶった。


 ――姉さん。

 あなたの敵を取ります。


 ぼろりと涙をこぼして、ノルテは銀刃を振り下ろした――










「はいはい、そこまでな」


 ふわり、と腕が軽くなる。ついさっきまでは異様なほどの重さを持っていた剣がいつの間にか手から離れ、側に立つ男の手元に収まっていた。

 ノルテが唖然としたのは一瞬だった。すぐに驚きは怒りにすり替わり、ふつふつと胸の奥が沸き上がるまま、ノルテは男に掴みかかった。


「何をする! オリオン、あんたわたしの邪魔を……!」

「邪魔じゃねぇよ」


 オリオンは飄々と返し、今の隙にと腰を浮かした元大公を目の端に捕らえると、もう片方の手で素早く自分の剣を抜いて元大公の首の裏に刃先を当てた。


「おっと、逃げようとするなよ卑怯者。……別に俺はおまえの延命を申し出るつもりはない。おまえには、この場で死をもって罪を償わせる」

「だからっ! わたしがこいつを殺……」

「ノルテ」


 静かだが、深みのある声。思わずノルテは閉口し、オリオンの横顔を呆けたように見つめた。

 オリオンはノルテの剣を彼女に返し、元大公の体を蹴ってその場に跪かせた。


「……だが、それはおまえの仕事じゃない。おまえは、その手をこいつの血で染めちゃならねぇ。……くしくもこの下衆の言う通りだが、おまえの姉さんはおまえが復讐をすることは望んでねぇはずだ」


 とたん、ノルテは脱力して肩を落とし、ふるふると両肩を震わせた。オリオンたちから隠れるように面を伏せ、両手の拳をぎゅっと固める。

 オリオンの言うことに全く反論できないのだろう。


「……でも、どうすれば……」

「俺がやる。姫君の代わりに汚れを背負うのは、騎士の役目だ」


 そう言い、オリオンは再び元大公の首筋に剣を当てた。既に物言う気力もなくなった元大公の首筋に。

 そして、静かに笑う。


「……ノルテ。おまえは捻くれた奴だから分かるだろう? こいつにとって、一番の屈辱はおまえに討ち取られることじゃねぇ。バルバラとは全くの無関係者に負けることだろうよ」


 ノルテの目が瞬き、オリオンの足元の元大公もくぐもったような声を上げる。

 ノルテの顔を見つめ、オリオンは「なあ」と静かに言う。


「……おまえは女王だ。おまえはこれから、バルバラを背負っていくんだ。おまえの両手は、人を殺したり敵討ちをするための手じゃねぇんだ。これからおまえは、その手で国を守っていく。人を守れるような優しい手じゃないといけないし――そうであることを、おまえの姉さんも、俺も願っている」


 だから、とオリオンは冷たい眼差しになって元大公の禿頭を見下ろした。


「……おまえは見ていろ。この侵略者の最期を、目を反らさず見ているんだ。こいつの断末魔を、最後まで聞け。血も罵声も浴びるのは、俺だけで結構だ。それだけで――おまえの復讐は終わるんだ」


 ノルテは一度、二度、瞬きした。酸素を求める魚のように口がぱくぱく開かれ、最後にはぎゅっと唇を閉ざした。

 そして、一歩後退してオリオンを真正面から見つめる。


「……騎士オリオン」


 緑の目と青い目がかち合う。


「……バルバラを脅かす者に、制裁を」


 オリオンは深く頭を下げ、そして剣を振りかぶり、真っ直ぐ下ろした。


 ノルテはじっと、目の前の光景を、見つめていた。

 耳を塞ぎたくなるような絶叫と、剣が肉を断つ音が響き、その鎧に油っぽい鮮血が飛び散っても、決してその眼差しを動かすことはなかった。

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