竜姫ノルテ 1
リデル王国王都アバディーンからバルバラ王国へ行くためには、いくつかの諸侯領を通らねばならない。とはいえバルバラ王国もリデル王国もどちらかというと東西に長い扁平な形をしているため、経路はいくらでもあった。
いくつかある経路のうち、ノルテは王都から東に出てリデル公爵領に入り、そこから北上してランスター子爵領を通過するルートを採用した。
リデル公爵領を通る理由は分かる。前リデル公爵であるエルソーン王子が投獄された今、領地を治めるのは若き公爵エヴァンス。昨年の冬、ティエラ王太子就任式の事件で知り合った彼は、ノルテ一行の領地通過を快く認めてくれ、さらには道中の宿の手配もしてくれたのだ。
そこまではいい。皆も納得だ。
「……で、問題はなんでおまえがランスター子爵と懇意なのかって話だよ」
「そんなに不思議かね?」
オリオンに問われたノルテは、「何を言っているんだ」とばかりにきょとんと彼を見返す。
「わたしは、あんたが知らないようなネットワークをたくさん持ってるんだよ。ランスター子爵もその一人。このノルテさんのかわいさに皆クラックラってわけよ」
「最後のは違うだろ」
「うるさい。無駄口叩かず火ぃ起こしなさい」
「はいはい。殿下の仰せのままに」
げしげしとオリオンの分厚い背中を蹴るノルテと、さして言い返さずにノルテの指示通りに動くオリオン。二人の間を、鋭い寒風が吹き抜けていった。
ここは、ランスター子爵領の北端に据えられた古い砦。先々代子爵が建設を命じたらしく、石造りの壁や床はそろそろガタがきている。当然、魔道暖炉の類もないため照明器具はたいまつ、暖炉は旧式のものに自家点火と、王都での暮らしに慣れた者にとってはなかなか骨の折れる作業だった。
ただ、寒冷なバルバラ王国との国境付近であるため、レンガの間には漆喰がきちんと塗り込まれ、窓枠などにも隙間は見られない。おまけに床はここらにしては高級な木張りになっており、少しでも熱を取ろうと工夫されていた。
ランスター子爵領の中でも僻地に当たるこの地帯は、住民も皆無に近い。それこそ先々代子爵の時代は人も多くて砦も必要だったのだろうが、今はすっかり廃れている。年に一度点検するかしないかのこの古びた砦と、枯れた草のみが広がる殺風景なここら一帯を、ノルテはランスター子爵から借りたのだ。「いざとなったらドンパチして、草木の生えない大地にしちゃってもいい?」と聞いた上で。
しゅぼっ、と音を立てて火が点く。オリオンは火をたいまつに移し、種火用としてランプ型の容器に点火した。魔法や魔具がないわけではないが、極力魔法に頼りたくないというノルテのご意見により、一行は一昔前の地方都市のような生活を送っているのだった。
といっても、この日々を苦痛に思う者はいなかった。ノルテが連れてきたバルバラの竜騎士たちは、そもそも魔具のない国出身なので火起こしも得意で、オリオンよりもずっと素早く火を付けていた。またリデルから借りた兵士たちも、オリオンの選定によって筋肉馬鹿――もとい実力系体育会系のワイルドな男ばかりが選りすぐられた。最初こそは魔具なし生活に難色を示した彼らだったが、意外と野外活動が楽しかったらしい。
今も、砦の周囲では筋肉集団が薪集めに勤しんでいる。誰が一番多くの薪を集められるか競争しているのだろう、男たちの放つ野太い歓声がここ、砦の尖塔にまで響いていた。
「……楽しそうね、あいつら」
オリオンが顔を上げると、ノルテが城壁の手すりに腕を預け、ぼんやりと眼下の様子を見やっていた。
雪の粉を浴びて短い黒髪がさらさらと流れ、深いブルーの目は微かに寂しそうな色を持っていた。
「……うるさいなら、黙らせてくるぞ」
「そういうわけじゃないから、大丈夫」
ノルテは小さく微笑み、自分の旋毛に積もっていた雪をぱぱっと払った。そしてコートの合わせをかき寄せて顎先を埋める。
「……むしろ、あの脳天気さが羨ましいし、ありがたいよ。さすがあんたが選んだだけあるね」
「そらぁ、褒められてると思っていいのか」
「当たり前でしょ。ノルテさんのお褒めの言葉を授かれて光栄に思いなさい」
「へいへい」
ひときわ高い歓声が上がる。気付けば、砦の入り口にこんもりと薪の山ができていた。あれだけあれば、もう何日かは暖炉の火を絶やさずに過ごせるだろう。
ノルテたちがこの砦に入って四日が経過していた。ノルテは砦到着直後、バルバラ王都にいるだろうドメティ元大公に親書を送った。貴族同士の文で使われる美辞麗句や回りくどい表現てんこ盛りだが、噛み砕いて言えば「こちらから行くつもりはないので、おまえが来い」という内容だ。
信頼できる竜騎士に手紙を託し、この尖塔で彼と彼の愛竜の背中を見送りながらノルテは思った。
どれほどノルテが無礼な手紙を送ろうと、必ず大公はやって来る。おそらく、ノルテを貶めるための材料を持って。
大公にとって今一番の目の上のたんこぶは、間違いなくノルテだ。その「邪魔者」が国境近くまで来たなら、元大公自ら来ると踏んでいいだろう。彼はティカ女王が粘って時間を稼いだせいで焦っているはずだ。ぼろっちい砦にバルバラ王家の生き残りがいると知れば、嬉々として飛んでくるだろう。
ノルテは目を細めて、雪降る空を眺めた。場合によっては、この砦を決戦の場として元大公を討つつもりだ。竜騎士やリデルの騎士にもそのように告げているし、愛竜アンドロメダにも言い聞かせていた。
ノルテはわずかに目つきを厳しくする。近頃、アンドロメダの調子が安定していない。元々脳天気で穏やかな性格なのだが、突如として唸り声を上げたり、ノルテが近くにいてもイライラと体をくねらせたり尾で地面を叩きつけたりという行動が目立った。ノルテが優しく聞いても、アンドロメダは何も答えてくれない。答えないのではなく、答えられないのだろう。アンドロメダ自身も、なぜ自分がこれほど苛立つのか分かっていないのだ。
ノルテは体をくるんと反転させ、城壁に体を預けて北の空を見やった。この砦は荒涼とした荒れ地の隅に位置し、北部の険しい山岳地帯と隣り合わせに建っている。砦の中では小振りな部類なので、この尖塔からでも北の山脈を仰ぎ見ることはできない。
だが、あの山の向こうには祖国があるのだ。一年の大半を雪に覆われ、ドラゴンと共に生きるバルバラ王国。代々女王によって統治され、争いを嫌って貧しくも堅実に暮らしてきた愛しい故郷が。
ふうっと、白い息を吐く。
故郷では、ひょっとしたらノルテのことを「放蕩王女」とか「非情な姫」とか噂されているかもしれない。いや、間違いなく何らかの形で元大公の魔の手が伸びているだろう。
王城仕えの人はともかく、バルバラの国民は信心深く、素直な人が多い。元大公の口八丁な甘言に惑わされている可能性は高い。
だからこそ、ノルテは領土に足を踏み入れることを渋った。もちろん、祖国で剣を振りたくないという理由もある。ランスター子爵には申し訳ないが、バルバラの大地を血で汚したくないというエゴもあった。
だがそれ以上に、国に脚を踏み込むことに一種の不安もあったのだ。自分はあまりにも長く国を空けすぎた。頼りになる姉もいない今、果たして国民がノルテを受け入れてくれるのだろうか――と、自分の心の中の弱気な部分が訴えていたのだ。
「……おい、そろそろ入るぞ」
横から声が掛かる。ノルテの思案中に、オリオンは仕事を終えたようだ。火付け用具一式を担ぎ、塔内部のドアを開けた状態でちょいちょいと手招きしてくる。
「日が傾いてきた。奴らもそろそろ中に入れた方がいいし、おまえも入っておけ」
「……そうね、そうする」
ノルテは素直に頷き、オリオンについて暖かい塔に入った。
大陸北部の冬の夜は、長くて厳しい。周囲に集落がないので、灯りらしい灯りもなく、真冬は分厚い雲で空が覆われるので月の明かりも頼りにならない。おまけに夜間に雪が強くなると、小さな砦の扉を全て閉め切って朝を待つしかすることがなかった。
ちなみに、夜襲は一切考慮していない。オリオンを始めとするリデルの騎士は疑問を訴えてきたが、ノルテたちバルバラ国民で説明した。
要するに、夜の吹雪く中は向こうもやって来るはずがないのだ。夜襲を掛けようにも、ホワイトアウトした視界では馬を動かすこともできない。それはドラゴンも同じだ。
バルバラのドラゴンは爬虫類の見た目をしているが、寒さには強い。蛇のように冬眠もしないので真冬の戦闘も可能なのだが、いかんせん鳥目なのだ。険しいバルバラの山脈を越えるのも馬では一苦労なのだから、夜襲は行う方にリスクが高くなる。
もしバルバラの竜騎士が元大公に従っているならば間違いなく進言するだろうし、もし嘘情報を流していても、元大公が冬の山脈で道に迷って凍死するだけだ。あちらにとってリスクの大きな進軍はしないだろう。
相手が馬でやって来るとなると、ここに来るためにもどこかの馬車道を通らなければならない。すると元大公が来るのは北の山岳側ではなく、見通しのよい荒地側。背後からの奇襲も避けられる位置に、この砦は設計されているのだ。
また、ノルテは元大公が登場する方法に、もう一種類懸念していた――
ぱちぱりと暖炉の薪が爆ぜる。赤々とした炎は踊るように舞い上がり、ノルテの顔を赤く染めていた。
「……まだ起きていたのか」
背後から声が掛かる。こうも毎日接していると、わざわざ首を捻って応答するのも億劫になってきた。
「まあ、寝付けなくて」
「外にはちゃんと見張りもいるんだ。寝付けなくても、せめて安心して横にはなっておけよ」
言いながら、どかっと隣に腰を下ろすオリオン。彼の体重はノルテの二倍以上あるので、重量を受けてノルテの体が一瞬浮き上がった。
温かに揺れる暖炉に照らされているのは、天井の低い部屋。ランプの明かりも落とされており、床には騎士たちが雑魚寝で転がっていた。見張り以外は全員この部屋で就寝することになっていた。王女であるノルテを守るためでもあるし、ただ単に薪がもったいないという理由でもあった。
ごがーごがーと筋肉青年たちが太平楽でいびきを掻き、竜騎士の男性は部屋の隅で静かに寝息を立てている。竜騎士の女性は最初こそ寝付けなかったようだが、今はお互い身を寄せ合い、部屋の奥の方で丸くなって眠っていた。
初日の夜は皆で寝ずの番をすると言っていたのだが、ノルテの方が却下した。見張りはきちんと立てているのだから、全員起きておく必要はない。むしろ、日中の元大公の襲来に備えて、長い夜のうちにしっかり体を休めてほしかったのだ。
そういうわけで、竜騎士も筋肉も関係なく、部屋に毛布を重ねて身を寄せ合って眠っているのだった。
ノルテは黙って、踊る炎を見つめていた。ぱきん、とひときわ大きな音を立てて太い枝が折れて弾ける。
「……なんかさぁ」
「うん?」
「……こういうのも、いいなって思うの」
ゆっくりオリオンが振り返ったのが、気配で分かった。それでもノルテは振り向かず、近くに積んでいた手頃なサイズの薪を手にとって、暖炉の組み木の隙間に放り込んだ。
「状況はアレだけど、こうやって……気さくな仲間たちと一緒に毎日過ごして、一緒の部屋で寝て、訓練して……」
ノルテの話を聞き、ああ、とオリオンも太い声を出す。
「まるで、ディレン隊にいた頃みたいだな」
「そう。わたしもそう思ってた」
先ほどノルテがくべた薪が、あっという間に炎に飲まれる。「もっとくれ」とばかりに身を捩る炎にもう一本、細めの枝を差し入れてからノルテは息をつく。
「……そりゃあ、楽しいなんて言える立場でも身分でも時でもないって、分かってるよ。でも――嵐の前の静けさって言うのかな。ずっとこんな日が続いてほしい、って思ってしまうの」
王女失格だね、とノルテは小さく笑う。
「王国じゃあ、国民が元大公に騙されているかもしれないのに……王城では、皆が大公の支配下で怯えているだろうに、期待の王女様がこんなんだものね。ガッカリだよ、本当に」
「……いいんじゃないか」
ノルテは顔を上げた。そしてようやっと、隣に座るオリオンの顔を見る。
オリオンは何かに憑かれたかのように、じっと暖炉の炎を見ている。色濃く焼けた彼の肌が、若草のような髪が、炎の光を受けて赤っぽく輝いていた。
「おまえはそれでいいよ。十分苦しい思いをしたんだし、それは俺だって、ここに転がってる奴らだって、みんな分かってる。バルバラの王女がただのポンポコリンじゃないってことくらい、分かってるさ」
「ポンポコリン言うな」
「いいだろ、それがおまえらしさだ。こんな辛い旅でも厳しい環境でも、おまえはずっと笑っていた。笑って、部下たちを励ましていたんだろ? リーダーであるおまえが落ち込んでたらだめだから、無理してたんだろ」
オリオンの静かな言葉は、さくっとノルテの胸に刺さった。ぐりぐり突っ込むわけでも、ちくちく痛めるのでもない。
彼の言葉は確実に、ノルテの心に染みいってきた。
「……別に、わたしはそこまで聖人君主じゃないから」
赤らんだ顔を隠そうとぷいっとそっぽを向くと、オリオンの小さな笑い声が響いた。
「じゃあ、そういうことにしておいてやるよ。ただ……」
真横から視線を感じる。オリオンの、熱くて真っ直ぐな視線を。
「……前にも言ったけど、泣きたいときは泣けよ」
「……前にも言ったけど、わたしは嬉し涙以外は流さない主義なの」
即座に言い返し、ノルテは首を横に捻ったまま淡々と続ける。
「あんたが言った通り、わたしはポンポコリンであっぱらぱーな王女なの。もうそれが浸透しているし、それがタニア王女の姿なのよ。馬鹿みたいに脳天気で、何を考えているか分からない王女――いつもへらへらしていて楽しそうな王女――それでいいんだよ。悲しくて泣くなんて、そんなのわたしの柄じゃない」
きびきびと言い返すノルテに、オリオンも反論を止めたのだろう。ふうっと息をついて暖炉に視線を戻す。刺すような視線を逃れたノルテも、同じように暖炉の炎を見つめる。
「……分かった。それがおまえの揺るがない主義なら、そうしろ」
「そりゃどーも」
「……でも、俺は俺の力が及ぶ限り、おまえに嬉し涙以外を流させないようにする」
確固とした強い意志を持つ言葉に、ぴくっとノルテの肩が揺れる。
「それから――もし、もしもおまえが泣きたくなったら、体くらい貸してやるから。人前で泣きそうになったら俺を呼べ。おまえはちっこいから、俺の体で皆から隠してやるよ」
ノルテは呆けたようにオリオンを見、そしてくふくふと笑いだした。
「……そうだね、じゃあその時は遠慮なく使わせてもらうよ」
「おう、任せておけ」
「ちなみにわたし、泣くときは鼻水もダラダラだからシャツを汚しちゃうだろうけど、その辺は勘弁してよ」
「……はいはい」
ぱきん、と火が爆ぜる。オリオンはノルテに火の粉が掛からないように、大きな手の平で火の粉を振り払う。
ノルテはそんなオリオンの厚い肩に、こてんと頭を預けた。
「……オリオン」
「うん?」
「……ありがと」
「おう」
静かに寄り添う二人の背後では、いつの間にかいびきを止めていた騎士たちが互いに顔を見合わせ、ゆっくり頷いていた。




