それぞれの想いを胸に 5
一番にアバディーンを発つことになったのは、オルドラントに戻るクラートとレイド。フォルトゥナがいつ行動を起こすか読めないため、夜が明けるとすぐに出立するという。夜明け時はアバディーン城下町の門は通常閉まっており、特例の時のみ国王の許可を得て開門できる。滅多にない例なので、見送りなども禁止されていた。
――夜。
レティシアはそっと、寝室を覗き込んだ。豪華な客間に女三人で相部屋になったのだが、あいにく就寝しているのは一人だけ。この寒い時期だが据え付けの魔道暖炉をフル活用しているため、寝室はぽかぽかと暖かい。そんな中、上掛けも掛けず大の字になって眠るノルテの寝息のみが、響いていた。
レティシアはノルテが熟睡しているのを確認し、そっと寝室のドアを閉じた。そしてクローゼットから厚手のガウンを取り出して、寝間着の上に羽織って前ボタンもしっかり留める。
セレナが部屋にいないのは知っていた。数刻前に彼女は仕度をして出ていったのだ。「明け方には戻る」と言い残して。
レティシアは荷物を漁り、きれいにラッピングした袋を出してガウンのポケットにそっと入れた。それから、ドアをノックして外に控えている兵士に外出許可をもらう。
魔道ランプが明るく廊下を照らし、レティシアと、護衛に付いてきた兵士たちの足元に濃い影を残した。廊下を移動中も、彼らは一切無駄口を利かずきょろきょろ辺りに注意を払っている。重要人物であるレティシアは本来、ふらふらと立ち歩くべきではない。だが今夜限りでクラートたちと一旦お別れになるのだからと、国王にも頼み込んだのだ。
兵士に案内されたのは、「黒翼館」の四階にある客間。レティシアたち女部屋のほぼ前上の部屋で、この階にもずらりと夜勤の兵士たちが控えていた。
「レティシア・ルフト様がおいでです」
兵士がドアの前で声を掛けると、間もなくドアが内側から開かれた。深夜前ではあるが、隙のない出で立ちのクラートだ。まだ書類整理をしていたのか、ちらと覗くデスクに書類が積もっているのが見えた。
「レティシア……来てくれたのか」
「はい、夜遅くにすみません」
「かまわないよ。……君たち、しばらく下がっていてくれ」
「し、しかし……」
クラートに命じられて、兵士たちは一瞬不服そうにしたが、彼らの上司らしき兵士が若い者たちに一声、何か囁いた。
すると彼らは一様に目を丸くし、そしてコホンと咳払いすると一歩、二歩とレティシアたちから距離を取った。
「し、失礼しました。レティシア様、クラート様、どうぞごゆっくり」
(……何か勘違いされてるけど、まあいいか)
人払いできるなら何であろうとありがたい。レティシアは彼らにねぎらいの言葉を掛け、クラートの手を取って部屋に入った。
クラートの部屋はレティシアたちの客間よりもさらに広く、天井のかなり高い位置にシャンデリアがある。据え置きの魔道暖炉も、これまでレティシアが見てきたどの暖炉よりも大きくて立派だ。内部に設置されている魔石も人の頭大あり、これでもかというくらい真っ赤な光を迸らせている。
レティシアは、部屋を見回した。クラートは彼女の視線に気付いたのか、積み上げられた書類を見て頭を掻いた。
「……ごめん、片づけできていなかったね」
「そんなことありません。……ただ」
いつもならここにいる人がいないな、と思っただけです。
言葉途中で口を閉ざしたレティシアを見、クラートは気付いたのだろう。その薄い唇が穏やかな笑みを形作る。
「レイドなら知っての通り、いないよ。数刻前に追い出した」
「追い出したって……」
「決戦前の夜くらい、セレナと過ごさせてあげようと思ってね」
僕からのプレゼントだよ、とクラートは笑う。
「……そのプレゼントをもらって、レイドは嬉しそうでしたか?」
「まずは頭を叩かれた。ガキが色気づくな、だってさ。でも、結局は文句言わずに出ていったよ。帰ってくるのは出発直前になるだろうからね」
言い、クラートはカップボードに近付いた。茶の準備をしようとしているのだと気づき、レティシアは駆け寄る。
「私が淹れますよ、クラート様」
「いいんだ、僕に淹れさせてくれ」
クラートは差し出したレティシアの手をやんわりと押し返し、危なっかしい手つきでポットを取る。
「……いつも、君やセレナたちにお茶を淹れてもらっていたからね。一度くらい、僕がレティシアにお茶を淹れたかったんだ」
そう言って、優しい瞳で見つめてくる。
労るような、甘い眼差しに不覚にもレティシアの胸が鳴る。
「そ、そ、そういうことなら……お願いします」
「任せてくれ」
クラートは微笑み、レティシアに背を向けて茶の準備に取りかかった。「茶葉ってどれだ?」「湯の沸かし方は……」と悪戦苦闘するクラートを見つつ、レティシアは近くのソファに腰を下ろす。勢いよく尻を下ろしてしまったので、高級なクッションがふわりと弾力性をもって尻を押し返してきて、思わず変な声を上げてしまった。
レティシアがそろりとクッションを退けて隣のソファに重ねていると、クラートの方も仕度が終わったようだ。
「お待たせ」
クラートは慣れない手つきでカップを置き、そろそろとポットを傾けた。
「お茶の準備って、こんなに大変なんだね。いつも任せっきりだから気付かなかったよ」
「多分、慣れなんだと思いますけどね」
「なるほど」
レティシアは自分のカップを持ち上げ、すん、と紅茶の香りを嗅いだ。悪くない。
正面では、クラートが期待の眼差しでレティシアの一挙一動を見守っている。彼の頭部にふさふさした三角耳が現れ、尻尾がぱたぱたしているようにさえ見えた。
一口、飲んでみる。
「あぢぃっ!」
「ご、ごめんレティシア!」
「い、いえ……大丈夫です……」
言いつつも、レティシアはそれこそ犬のように舌を出して痛みに涙した。舌先がざらざらする。
「これくらひ、すくに治りまふから……」
「す、すまない……次までにはちゃんと練習しておくから!」
魔法で近くのコップに入っていた水を凍らせて舌を冷やしていたレティシアは、クラートの言葉にぴくっと体を震わせた。
ゆっくり視線を動かすと、ごく真面目な顔でレティシアを見つめるクラートの顔が。
「……そうだよ、次までには、だよ。僕もレティシアも、また必ず再会するんだ。僕はオルドラントへ、君はクインエリアへ行くけれど、必ずまた会うんだ」
レティシアは氷を吐き出し、クラートの青い目を見返した。いつの間にか舌の傷みは引いている。
ゆっくり、ガウンのポケットに手を伸ばす。指先に当たるのは、かさりとした袋の感触と、滑らかな絹のリボン。
それを掴み、ポケットから出す。レティシアの挙動を見守るクラートの目が、丸くなる。
「クラート様」
レティシアは袋を差し出した。狭いポケットに入れていたせいで少しだけ形は崩れているが、中身は固いものなので問題はないだろう。
「これを、私から……どうか、オルドラントでもこれを持っていてください」
「……僕に?」
クラートはゆるりと破顔し、袋を受け取った。そして開封の許可を得てから、ラッピングのリボンを解く。
クラートの指先を、レティシアは必要以上に凝視していた。クラートのことだから、滅多なことは言わないだろう。
それでも、彼の反応が気になった。胸に手を当てずとも、心臓が早鐘のように脈打っていることが分かった。
「……これは」
クラートのすんなりとした指が、中身を取り出す。かちゃり、と魔石が触れあう音が部屋に響く。クラートが何か言う前にと、レティシアは急ぎ口を切った。
「そ、それは私が作った魔石のアクセサリーで――いろいろな魔力を込めたんです。あんまり出来はよくないけれど、きっとクラート様を守ります!」
言いながら、レティシアはどうしようもなく恥ずかしくなった。完成当初は会心の出来に満足したのだが、こうしていざクラートが持ってみると、その色合いのちぐはぐさに落胆してしまう。
青を好むクラートは私服も青や、髪に合う黄色系をよく選んでいる。だがこのアクセサリーは赤やら紫やら緑やらと、とにかく色合いに節操がない。邪魔にならないよう、腕に付けられるように設計したのだが、このブレスレットはあまりにもクラートのカラーリングに合っていなかった。
(欲張らず、色を統一すればよかった……!)
内心頭を抱えるレティシアの前で、クラートは無言でブレスレットを眺め、そして躊躇いもなく自分の左腕に通した。
「うあっ……あの、クラート様!」
「素敵なブレスレットだね。ありがとう、レティシア」
「いえいえどうも……じゃなくって! ごめんなさい、それ、すっごく趣味の悪い色で……」
「そうか?」
クラートは心底不思議そうに首を傾げ、自分の左手首を飾るブレスレットを目の高さに持ち上げた。
「色彩豊かでいいじゃないか。僕はどうしても地味な服装になりがちだけど、ここだけ春が来たように華やかでいいと思うよ」
春の到来以前に、作成者の頭がお花畑になっている様子がバレバレだった。
なおも躊躇うレティシアに、クラートは小さく微笑みかけてきた。
「それに、ほら。いろいろな色があって、皆が集まっているようじゃないか。真っ赤なのはレイドで、緑はオリオン。明るいブルーはノルテの目の色だし、落ち着いたブラウンはセレナの色――このオレンジ色の魔石は、君の髪の色だろう? 仲間たちが見守ってくれているようで、すごく心強いじゃないか」
クラートの言葉に、レティシアははっとした。クラートは愛おしむようにブレスレットを手の平で撫で、そして顔を上げた。
「レティシア、僕たちはどこにいても、いつでも心は一緒だ。必ず皆で再会するんだ。それぞれがすべきことを成し遂げ、皆で再び、この空の下に集まろう」
「心は一緒……」
呟くレティシアにクラートは頷きかけ、そしてそっとレティシアの手を取った。ときん、と甘く胸が疼き、レティシアは泣きたいような気持ちになる。
「……レティシア」
「……また、会えますよね」
喉の奥がツンと痛んで、目尻が熱くなる。
「これが最後なんて、言いませんよね?」
「もちろん」
手を引かれ、体が前のめりに倒れる。反射神経には自信のあるレティシアだが、腕を引く力に抗うことなく、そのままぽすりとクラートの腕の中に倒れ込んだ。
温かい、クラートの腕の中。レティシアは腕を伸ばし、ぎゅっとその背中に抱きついた。
「……クラート様」
「うん」
「……死なないでください」
「うん。僕は死なないよ」
顔を上げると、こつん、と額にクラートの額がぶつかる。スカイブルーの目は優しく細められ、目尻に涙の粒を浮かばせるレティシアを、限りない深い愛情を込めて見つめ返してくれる。
「約束だよ」
「本当です。約束してください、この場で」
「うん」
顎先にクラートの指先が触れ、そのまま上方へ掬い上げるように上向かされる。目線の先には、穏やかながらも熱い炎を瞳に浮かべたクラートの顔が。
その時。一瞬だけ、レティシアの視界が暗くなった。ぼんやりと浮かんでくるのは、薄闇に包まれた夜の庭園。押し倒されてわずかな抵抗しかできないレティシアを残虐な眼差しで見下ろす、男の目。
レティシアは瞬きした。忌まわしい記憶は一瞬でかき消え、視界一杯を包み込むのは恋い慕う青年の顔だけ。
同じ姿勢、同じ場面だというのに。
心はこれ以上ないほど満たされている。これから先に与えられる行為を、心から待ち望んでいる。
「クラート様――」
「僕から言わせてくれ、レティシア」
吐息が互いの唇を震わせる。
「好きだ、レティシア。心から……君のことを……」
「クラート様……」
ふわり、と胸が温かくなる。と同時にキュッと胃の当たりが苦しくなり、どうしようもなく涙が溢れてきた。
「クラート様……私も、私もあなたのことが……」
――好きです。
言葉は最後まで発されることは許されず、そのまま柔らかな唇に封じられた。
朝焼けの中、一台の馬車が城門をくぐった。オルドラント公国オルドラント大公家の家紋入りの旗を付けたそれは、騎乗した騎士たちを連れて南へと走り去っていった。
そして昼前には、王城のテラスから大柄なドラゴンが数匹、飛び立った。その後を追うように、リデル諸侯の印を付けた騎士たちも騎乗して王都を発つ。彼らが向かうのは東。リデル公爵領に入った後北上して、バルバラ王国との国境付近へ向かう。
そして昼過ぎ。豪華な馬車が護衛を引き連れて最後に城門をくぐった。彼らはあまたの野次馬を蹴散らしながら城下町を抜け、東へ向かう。荒涼としたクインエリアを目指して。
若者たちはそれぞれの想いを胸に、旅立った。
必ずこの空の下、再会することを誓い合って。




