差し伸べられた手 1
「少しよろしいでしょうか、レティシア・ルフト」
遠征が終了した数日後。
聞き慣れたはきはきした声で名を呼ばれ、レティシアは腕いっぱいに教科書を抱えたまま後ろを振り返った。首だけ捻るのは無礼だと礼儀作法の授業で習ったので、きちんと正対して相手のブルーの目を見つめる。
「はい。なんでしょうか、カウマー様」
「まずは。先日の遠征、ご苦労様でした」
ロザリンド・カウマーは付箋や折り目の付いたレティシアの教科書を見、いつもの事務的口調で淡々と言う。窓の外の枯れた秋景色にも劣らぬ、乾いた声色だった。
「レイド・ディレンたちから話を伺いましたが、あなたの遠征の勤務態度は上々。派手さはないが着実に責務をこなそうとする姿が評価に値すると、好意的に捉えていただけたようです。単位認定不認定はまだ先の話になりますが、あなたは魔道はともかく、生活能力や協調性、上司を敬う態度には優れているようで安心しました。今後とも精進なさい」
「あ、はい……!」
あのレイド隊長やロザリンドに褒められた、と思うと胸の奥がくすぐったい。
レティシアは大人しく行動したため、遠征中もレイドに怒鳴り散らされた回数は他の魔道士見習よりもずっと少なかった。少なくとも「不可」は食らわないだろうと予測はしていたが、思わぬ高評価に自然とレティシアの頬が緩む。
そしてロザリンドの前と思い出し、すぐに表情を引き締めた。
「ありがとうございます。これからも頑張ります」
「……その『これから』についてですが」
ここからが本題なのだろう。
もう一度、ロザリンドはレティシアが抱える教科書を見、元々細く吊り気味の目をさらにきつく引き締めた。
「先日申し上げましたね。あなたには個別指導が必要だと」
そこで、とロザリンドは胸の前で組んだ腕をとんとん指で叩きながら言う。
「幸運にも、あなたを指導してくれるという魔道士が現れました。魔道や礼儀作法を彼女に教わり、侍従魔道士としての心得を身につけてもらいます」
レティシアは目を瞠る。
確かにそんなことを言われた気もするが、まさか本当に検討されており、適任者が見つかったとは。
「……え、と……あの、カウマー様。それはつまり、家庭教師を付けるということですか?」
「少し違いますね。彼女には先輩として、あなたの勉強全てを教え直させるつもりです。魔道も作法もダンスも。ぽかんと口を開いていますが、これは決定事項です。いいですね」
ロザリンドの言う「いいですね」は決して、「これでもいいですか?」ではなく、「分かりましたか?」の意味。レティシアに拒否権は与えられない。
レティシアはこくこくと頷きながら、既に背を向けたロザリンドに声を掛ける。
「あの! その、魔道士の方っていうのは……」
「実際に会ってみなさい」
振り返ることなく、ロザリンドは手短に答える。
「女子棟二階の奥から三番目が彼女の部屋です。今、部屋の前で待たせているので至急迎えに行くこと」
先輩魔道士、と言われて思いつくのは遠征で一緒だった年上の侍従魔道士見習たち。最初から悪印象を持った挙げ句、遠征中も無視され続けていた。ロザリンドはなかなか意地の悪い課題ばかりレティシアに押しつけるが、まさかあのような女性に教えを請わなければならないのだろうか。
(気を遣うのって本当に疲れる……一体誰が担当なんだろう……)
窓から覗く晴れ渡る秋の空と対照的に、どんより曇り空を背負うレティシアは手すりに掴まりながら階段を降り、踊り場の曲がり角に到達する度に深い深いため息をつく。
――女子棟の二階は、それほど身分の高くない女性騎士や魔道士が寝泊まりしている。だが、それが意味する内容が理解できるほど、現在のレティシアの脳みそは回転していなかった。
廊下の角を曲がり――まず、目に入ったのは赤銅色の布きれ。開け放たれた窓から吹き込む風にひらりひらりと靡くマント。
中途半端な位置で立ち尽くすレティシアに気付いたのか、その人物は豊かな髪を揺らして振り返る。
「……まあ、来てくれたのね。レティシア」
遠征の間に聞き慣れた声。
ミシェルらのようなキンキンと耳障りな高い声ではなく、おっとりした低めの声。
彼女は、赤い絨毯を踏みしめてこちらへ歩み寄る。緩いウェーブを描くミルクココア色の髪に、優しく細められた目。その女性は。
「セレナ……さん?」
「そうよ。数日ぶりね」
セレナ・フィリーはにこにこと手を振り、呆然とするレティシアの両手を取った。
「あのね。遠征の後に私、レイド様やカウマー様に申し出たの。レティシアの勉強のお手伝いをさせてくださいって。あなたの魔道の腕が伸びないようだと、カウマー様も悩まれていたようだから」
「あの鬼バ……カウマー様が?」
レティシアは素っ頓狂な声を上げる。
あの無表情魔道士団長がそこまで気を遣ってくれていたとは、驚きを越えて疑心さえ生まれてしまう。ひょっとしたらこの後、とてつもなく凶悪な罠が待ち構えているのではなかろうか。
「そうよ。レイド様もレティシアのことは高く評価されていたから。おまえが付いているならあいつも少しは気が楽になるだろう、って」
そう言われ、はっとレティシアは息をのんだ。
セレナやレイドの気遣い。それは何も、レティシアの勉強のためだけではないのだ。
セレナはレティシアの体にいじめの痕があったことを知っているし、レイドも遠征中にそれとなく見習内の人間関係を察していたのだろう。平民ではあるもののブロンズマージであり、レイドからの信頼も厚いセレナが一緒にいれば、面と向かって嫌がらせを受けることもない。
セレナに教えを請うというのは、レティシアがいじめられなくするための手段でもあるのだ。
「あの、私、まさかセレナさんだとは思ってなくて……」
「まあ……そうかもね。私が提案したとき、カウマー様も驚かれていたから。『あなたが落ち零れを指導するとは思いませんでした』ってね」
くすくすと笑い、セレナは可愛らしく小首を傾げてみせた。
「カウマー様はあなたに有無を言わせないっておっしゃったけど――ねえ、私が指導役になっていい? 迷惑じゃないかしら?」
「とんでもない!」
声を張り上げ、レティシアはふるふると勢いよく首を横に振った。
「私、セレナさんが教えてくれるんならすごく嬉しい! セレナさんなら、その……仲よくなれそうだし……」
「本当? ありがとう、ほっとしちゃった」
年上とは思えない幼い笑みを浮かべ、セレナは笑う。元々丸い顔立ちなので破顔するといっそう、愛嬌のある表情になった。
「それじゃあ立ち話もなんだし、中にどうぞ。今日はこれで授業は終わりだと魔道士団長から聞いているわ。お茶でも飲みながらお話ししましょう」




