揺れ動く大陸 2
「……リデル王国はどうにかしてくださらないの?」
掠れた声でレティシアが言うと、オリオンがゆっくり首を振った。
「確かに、リデル諸侯が起こした問題ならばエドモンド陛下も厳重に処罰されるだろう。だが、リデル三大諸侯は別格なんだ」
リデル三大諸侯――公の名を持つ、四つの公家。すなわち、リデル王族傍系のリデル公爵家、オルドラント大公家、フォルトゥナ大公家、そして――ドメティ大公家。
国王の兄弟が公爵位を継ぐことの多いリデル公爵家はともかく、他の三諸侯はリデル王国に付随しており、リデルへの反乱は御法度だがそれ以外の侵略行為や同盟提携は広く許容されていた。だからこそ、オルドラント大公と他の二大公は犬猿の仲であるし、ドメティ大公がバルバラに擦り寄っても問題はない。
「おまけにうちは、中立国家宣言を立てている。この手紙を見ても、姉さんはバルバラの慣習に則ることを決めたんだ。だから他国の協力を求めることはできない」
少なくとも、姉さんが女王であるうちはね。ノルテは冷静に付け加えた。
つまり、どう動くこともできないのだ。ノルテが援軍を求められるのは、彼女が王位に就いてから。それはつまり、人質状態のティカ女王が死ぬことが前提となっているのだ。
かといって、女王存命中に妹王女がノコノコと国に向かうのは自殺行為だ。大公はそれを一番に狙っているのだから。
ノルテは、姉を見捨てることしかできない。冷たく凍える城に姉を残し、来るべき時まで、唇を噛んで堪えなければならない。
レティシアは嫌な汗を掻く手を握りしめ、ノルテを見た。ノルテは真っ直ぐ前を見つめているが、つまるところ姉の死を覚悟しているようなものなのだ。しかもその後、自分が祖国を率いていく決意も固めている。
小さな手と、小さな背。レティシアより幼くて小柄な少女なのに、その眼差しの強さは大の男をも怯ませるような熾烈さを湛えていた。
「……といっても、皆にしてもらうことはないんだけどね」
急に突き放すように言い、ノルテは黒くなった手紙をくしゃくしゃに丸め、手紙原本も回収して封筒に入れた。
「お察しの通り、姉さんは大公の一番の策が折れることを願っている。つまり、わたしは何があろうと姉さんを見捨てなければならない」
三人に背を向けてデスクの引き出しに手紙を保管するノルテ。ひょこひょこ動く後頭部からは、彼女の意図は読み取れない。
「わたしはこれからも、ここに残る。大公がブチ切れて短気を起こさない限りはね」
「じゃあどうして、おまえは今日ここに俺たちを呼んだ」
ばしっと叩きつけるようなオリオンの言葉。
レティシアとセレナはぎょっとして、オリオンを凝視する。
オリオンはノルテの背中を睨むように見つめている。
「おまえは姉の手紙の暗号を自力で読めた。俺たちにしてもらうことはないと言う――じゃあ、なぜ俺たちにそんな物騒なことを言ったんだ。国家機密だろうし、ドメティ大公にばれたら俺たちの首が飛ぶかもしれないって、分かってるのか? バルバラ王国には無関係なセレナやレティシアが捕らえられて始末されても、おまえはしらを切り通すのか」
「ちょっと、オリオン!」
あんまりだ。そう思ってレティシアは席を立ったが、ぐいっと横からローブの袖を引かれる。
レティシアを引っぱるセレナはゆっくりと首を横に振り、静かな眼差しでオリオンとノルテを見つめていた。
「……分かってるよ」
ノルテの小さな背中が答える。
「分かってる……こんなこと言ったって、みんなに心配かけるだけだし、むしろ危険に放り込むことになるって分かってる」
「ノルテ……」
「でも……聞いてほしかったの」
震える声でようやく発されたのは、彼女の本音。
ずっと頑丈な殻に隠していた、叫びたかった言葉。
「わたしの我が儘だって分かってる。でも――知ってほしかったの。信頼できる人に暴露して、少しでも楽になりたかった。わたしがこれから、何をするのか……どういう目に遭うのか……聞いて、ほしかった……の……」
小さな肩が震えている。セレナが腰を浮かしたが、それよりもオリオンの方が早かった。
ぎしりとソファを軋ませて立ちあがり、大股二歩でノルテの背後に立つ。中途半端な姿勢のまま固まるセレナ。同じく目を瞠るしかできないレティシア。
「……それだよ、それ。俺たちはそれを聞きたかったの」
「……え?」
ノルテが振り返ったとたん、その体がすいっと上方に垂直移動する。いつぞやのように猫の子のように掴まれたノルテはそのまま、きょとんとした顔のまま空中移動し、とん、とソファに戻される。
オリオンは人形のようにノルテをソファに据えた後、彼女の前に膝を突いてその顔を見上げた。
「あのな、おまえは無理しすぎだっての。こんだけちっこくて軽いのに、どんだけ背負ってきてるんだよ」
ノルテは俯く。ぼそぼそと「ちっこいって言うな」と返すが、いつものような威勢はない。
「嫌なことや辛いことがあるなら、吐いちまえ。俺が嫌ならレティシアたちでもいいから、とにかく出すもんは出せ。話したいことがあるなら、思う存分話せ。そのために俺たちがいるんだろう?」
ノルテのブルーの目が見開かれる。ひとつ、瞬きしてノルテは膝の上で指先をすり合わせた。いつもは真っ直ぐ前を見つめるその双眸は、躊躇うように揺れていた。
「……迷惑じゃないの?」
「バーカ。おまえ、今までどれだけ俺たちに迷惑掛けたと思ってるんだ? 無断欠勤に遅刻、文句にサボり。何遍レイドに怒られたことやら」
今更だろう、とオリオンはニッと笑った。
「……言いたいことがあるなら言え。泣きたいなら泣けよ」
「ノルテ」
セレナがそっと、ノルテの肩を撫でる。レティシアも立ち上がって、ノルテの隣に腰を下ろした。
「オリオンの言う通りだよ。今までノルテは私たちの相談にも乗ってくれた。私たちの危機にも飛んで駆けつけてくれたじゃない」
言って、膝の上のノルテの両手を包み込んでやる。本当に小さくて細い手だ。
こんなに小さな手が剣を取り、ドラゴンを操って北の大国を治めなければならないのだ。
「今度は私たちがノルテを助ける番だよ。……あー、でも具体的に動くのは無理だから、ほら、話は聞くから」
「レティ……」
ノルテは目を瞠って俯く。
しばらくの後、顔を上げたノルテの頬に涙の跡はない。
「……ありがと。うん、わたし大切なものを忘れてたね」
そう言って、にっこりと笑う。
「そうさせてもらうよ。……ただ、これはわたしのポリシーだけど、わたしは悲しくても泣かないの。泣くのは、嬉しいときだけ」
「そんな……」
「いいんだ。これがわたしの自己表現なんだよ」
悲愴な声を上げるセレナにも微笑みかけるノルテ。
「姉さんとの約束だから。ずっと笑顔でいること。泣くのは、もうちょっと後にしておくよ」
「……ノルテがそう言うのなら」
セレナも静かに頷いた。
「……みんあなりがとう。わたし、ここに来てよかった」
そう言って、本心からの笑顔をノルテは浮かべた。




