ディレン隊解散 3
二人で男子棟の廊下を歩く。クラートが進む方向に合わせて半歩後ろを着いていくと、クラートは男子棟の上階へ上がっていくようだ。確か、クラートの私室はオルドラントの使者が片づけをしているはずだが。彼はどこに行くつもりなのだろう。
クラートが最上階の角を曲がり、レティシアあっと声を上げる。男子棟最上階東側廊下角。そこは袋小路になっており、休憩用のくたびれたソファが据えられている。
「思い出した?」
クラートが振り返って微笑む。
「一年くらい前……僕のとっておきを見せてあげたよね」
「はい!」
レティシアの頬も自然と緩まる。
二人は、ソファに向かう。そして何も言わずとも、去年の冬と同じように、ソファに膝を乗せて袋小路の窓辺に腕を乗せる。以前のようにクラートがレティシアの肩を抱いて引き寄せてくるのを、レティシアは素直に受け入れた。
晴れた夜中は闇色に染まった神秘的な夜景を眺められるこの位置から、今は秋の風に吹かれるセフィア城周辺の風景が臨めた。灰色の城壁の向こうには、広大な草原が広がっている。天気のいい今日は、地平の彼方まで続く草原と馬車道を一望できる。
「……あの草原の彼方に」
すっと、クラートの腕が伸びる。彼の示す方角は、南。
「君の育った村がある。父上の遺してくださった国がある」
オルドラント公国。広大な草原を有し、温暖な気候と肥沃な大地に恵まれ、心優しい大公によって守られる平和な国。
これから、クラートが治めてゆく国。
「……小さい頃、父上と母上がいらっしゃるのが当たり前だった。オルドラントを治めるのは父上で、僕にはまだ遠い話だと、ずっと思っていた」
でも、とクラートは窓の外を見つめたまま言う。
「母上が病で亡くなってから、気付いたんだ。人の死に。いずれ父上も亡くなる。そうなったら、僕がこの国を守っていかなければならない。父上が必死で治めている国を、僕が……」
ふっと息をつき、クラートは昔を懐かしむような遠い眼差しになった。
「怖かった。偉大な父が支えていた国を、僕が背負うことが。それが、重くて、怖くて――レイドに泣き付いたこともある。大公になんて、なりたくないって」
「クラート様……」
オルドラント公国を背負う重さは、幼いクラートの心を苦しめた。そして、人間がいずれ死ぬという、当たり前のことも。
「レイドは、僕が泣きやむまで黙って話を聞いてくれた。それから……」
「それから?」
「壁際に吹っ飛ぶくらい、張り倒された」
「えっ」
「昔からレイドは体育会系だったからね、我が儘を言って殴り飛ばされたのは、昨日今日になってのことじゃない」
当時を思い出しているのか、殴り飛ばされたというのにクラートは笑顔だ。
「僕を殴った後、レイドは言ったんだよ。そんなに俺が信用できないのか! って」
そこでクラートは口をつぐんで、城の外に視線を注ぐ。定期行商人だろうか、地平の彼方から小振りの馬車がやってきて、セフィア城の城門をくぐってきた。レティシアは豆粒のような馬車を一瞥し、クラートに視線を戻した。
「あと、こんなことも言われたっけ。おまえ一人で国を治めていくつもりだったのか、この阿呆が! ってね」
幼少期から変わらないレイドの口の悪さに辟易したのは一瞬のこと。レティシアはすぐに、笑顔になった。
「……側にいてくれる人がいたのですね」
「ああ。レイドだけじゃない。オルドラントにはたくさんの騎士が、使用人がいた。父上だって、彼らの手を借りていたんだ。僕は、独りぼっちじゃないんだ」
クラートは、レティシアに向き直る。
きれいなスカイブルーの目。まるで、今日の秋晴れの空を切り取ったかのよう。
とくんとくんと忙しなく鳴る胸に手を当て、レティシアも彼を見つめ返す。
「……もちろん、故郷に帰ればたくさんの人がいる。皆、僕を助けてくれるだろう。でもそれ以上に、セフィア城にはレティシアたちがいる。僕を信じてくれた人たちがいるってことに、やっと気付けた」
突然の父の死に打ちひしがれ、何の覚悟もないまま大公就任の義を行ったクラート。彼の立場をレティシアに置き換えるならば、いきなり大司教である母が死んで、大司教になるべくクインエリアに引き出されるようなもの。
未熟な十代の青少年が負うにはあまりにも重すぎる、地位という名の鎖。
ゆっくり、クラートの体が傾ぐ。レティシアはぎょっとして、気合いの鼻息と共にクラートの体を抱きとめてしまう。そしてすぐに間違いに気付き、体をもぞもぞさせて向きを変え、クラートの額を自分の肩口に乗せ、彼の背中に両手を宛う。
「……僕は、とても恵まれていたんだな。叱咤してくれる人も、教え導いてくれる人も、こうやって僕を支えて――温もりを分けてくれる人もいるんだな」
「……はい」
レティシアは、クラートの背中を撫でる。
二年前の秋、初めて会ったときはとても華奢な印象の少年だったのに、いつの間にこれほど体が大きくなり、がっしりしたのだろう。
眼差しの優しさは、あの頃から変わっていないというのに。
「……レイドにまた、殴られるな」
「え? どうしてですか」
「……あいつはオルドラントの情勢を理解して、その上でセレナをセフィア城に残すことを決めたんだ。オルドラントに連れて行きたいという気持ちより、セレナの安全を願った」
レイドらしい、と聞いていたレティシアも微笑む。仏頂面で言い切るレイドの顔が、容易に想像できる。
「でも……僕はだめだな。君の優しさが、温かさが――強さが、どうしても手放しがたい」
レティシアは、そっと目を伏せる。クラートがどんな気持ちでそう言うのか、なんとなく分かるのが逆に辛い。私も同じ気持ちです、と言えないのがもどかしい。
分かっている。
自分がクラートの側にいて、利益よりも不利益の方が大きくなることぐらい。
諸国は、大司教の娘でありながら後継者に名乗り上げるわけでもなく、セフィア城に留まっているレティシアの扱いに悩んでいるのだと、魔道士団長に呼び出されて告げられた。大司教夫妻の嫡子であり、魔道士としての才能もそこそこあるレティシアは、聖都を継ぐ資格は十分にある。もしレティシアが次期大司教に名乗りを上げ、正当に認められたならば誰も文句は言わないだろう。
だがレティシアが今の状態――よく言えば勉強中、悪く言えば御家事情から逃亡中であるならば、レティシアがどう転ぶか誰にも読めたものではない。クインエリアは今でこそ最盛期のような輝きはないが、大司教の持つ権力はリデル国王やカーマル皇帝と並び立つほどだ。
高貴な血筋の姫君を誰もが欲するだろうし、手に入れられないと分かれば――他国の手に渡るよりはと、始末しに来る可能性だってあり得る。
つまり、レティシアの存在は誰にとっても毒にも薬にもなる。今のレティシアはセフィア城に所属している。セフィア城の生徒である間はリデル王の絶対的な庇護下に置かれるため、起爆剤になることはない。
だが、レティシアが迂闊に他国――オルドラントやバルバラに肩入れするようであれば、他国は黙ってはいない。今のレティシアが存在していても安全なのは、セフィア城と王都アバディーン、そして生まれ故郷の聖都クインエリアくらいしかないのだ。
レティシアは、クラートを支える腕に力を入れる。こうやってクラートを支えられるのは、セフィア城の中だけ。クラートについていかない方が、クラートのためになる。
「……私は、このセフィア城に残ります。残って、今まで通り勉強を続けます」
クラートが顔を上げる。クラートの目に、真剣な眼差しの自分の顔が映り込んでいる。
「クインエリアのことも……いずれ、どうにかしないといけないでしょう。だからそれまで、私は自分にできることをします」
いつか、クラートの横に堂々と立てるまで。
皆の前でクラートの手を握られる日を迎えるために。
「その時は、私をオルドラントに連れて行って――いえ、連れて帰ってください」
「レティシア……」
「私は見たいのです。クラート様が治める国を」
むせ返るような緑の香りに包まれた、愛おしい故郷。
もう一度、あの地に立ちたい。
願わくば、クラートの隣で。
クラートはレティシアの目を見つめて、ふっと微笑んだ。
「君は……やっぱり強いな」
「それ、前にも言われてましたね」
「そうかな」
目尻を親指で拭い、クラートはレティシアの抱擁から離れると、ソファから降りて床に跪いた。
「クラート様? 服が汚れますよ」
クラートは緩く微笑み、きょとんとするレティシアの右手を取った。
「いつか必ず、君をオルドラントに連れて帰るよ」
そう言って、レティシアの手の甲に唇を寄せた。
思ったよりも柔らかい感触に、レティシアぎょっとする。
顔が熱い。手の甲の口付けなんて貴族界ではよくあることだ。
分かっているけれど……。
クラートは、上目遣いで見てくる。
(いや、そんな目で見ないでくださいっ!)
クラートは、返事を待っている。
(何か……何か言わないと……!)
「わっ……」
「わ?」
「わ、私、待ちます! 待ちますけど、でもいつか、ってのが長すぎたら私、さすがにじゅくじゅくに熟れちゃいますから!」
あっはっは、と照れ隠しに笑う。わりと最近も、こうやって照れ隠しに暴走したことがあるような。
「そりゃ、私は気が長い方じゃないですけど、クラート様なら待ちます! でも、ただ待つのは嫌なんで私も頑張ります! 頑張って、クラート様の隣に立つにふさわしい魔道士になります!」
言いながら、すっと心の中が冷えてくる。
そうだ、やっと目標が見えた。
今の今まで、セフィア城で学びながらも明確な目標がなかった。その時その時で、「課題をこなす」だとか「生きてセフィア城に帰る」だとか「劇を成功させる」だとか、目の前の目標は立てていた。だが、長い目で見た人生目標は、宙ぶらりんのままだった。
レティシアの願いは、クラートの隣で彼を支えられるような魔道士になること。そのために、セフィア城に残る。クインエリアの問題が降ってきたら、返り討ちにしてやる。
レティシアの目に輝きが灯ったのに気付いたのだろう、クラートは唇を引いて笑い、ゆっくりとその場に立ち上がった。
「……君の願い、しかと聞き届けたよ」
ゆっくり手を引かれて立ち上がる。クラートの顔は、いつの間にかかなり首を傾けないといけない位置にあった。
「では僕は、君を側に置くにふさわしい騎士に――大公になろう」
「はい」
そっと、指先を絡み合わせる。
レティシアは、目を閉じる。
とても暖かい。ふわふわしていて、心地よい。
クラートと思いを通わせ、二人だけの約束を結べるこそばゆさと嬉しさ。
胸の奥がきゅうっと苦しくなるような、愛おしさ。
ふいに、きゅっと指が固く握られる。あれっ、と思って瞼を開けると――
目の前に、クラートの端正な顔があった。深いブルーに染まる双眸が、レティシアを見つめていた。あっと思う暇もなく――額に、唇が触れる。
「……お?」
おっさん臭い呟きの後、クラートの唇が離れる。呆け顔のレティシアと違い、彼の顔はなぜかすっきりとしている。
「……満足した」
「はぃ?」
「本当はもっと下にしたかったけど」
「……舌に、舌?」
「これはおまじないだよ。僕がいなくなっても、害虫が寄ってこないように」
私はレタスかキャベツですか。との突っ込みは、言わなくて正解だったらしい。
何事もなかったかのように手を取るクラート。レティシアも彼にされるがまま、その手を取る。
「そろそろ片付けも終わるだろうから、皆でお茶にしようか」
最後のお茶会。はっとして、レティシア勢いよく挙手する。
「あ、はいっ! じゃあ私、とびっきりのお茶淹れますからね!」
「ああ、期待してるよ」
二人は、ほほえみ合った。
翌朝早く。
クラートとレイドの乗った馬車は、ゆっくりとセフィア城の城門をくぐっていった。
「やっぱり寂しいものねぇ」
アンドロメダに寄り掛かったノルテが呟く。彼女は朝早くてだるいと言いつつも、きっちり着替えて出てきた。艶やかな黒髪にも櫛が通っているので、文句を言いながらもちゃんと仕度をしてきたのだろう。
「なんだ、おまえのことだから、レイドのお小言がなくなってラッキーとか言うと思ってた」
「うっさい。今では、あのお説教も懐かしいくらいですよーだ」
べーっと舌を出すノルテと、彼女に適当に構ってやるオリオン。
レティシアは、賑やかな二人の数歩前でじっと佇むセレナに近寄る。
「セレナ」
セレナが振り返る。朝靄の中、風で乱れた髪を掻き上げる彼女は、本当に様になっている。
セレナはレイドと付き合うようになってから、本当にきれいになった。ノルテの見立てでは、「ちょっと前から雰囲気変わったくない?」とのことだ。この秋で二十歳になったセレナは落ち着いた大人の女性で、仕草や話し方にも磨きが掛かったようだ。
先ほどレイドと別れる際も多くを語ることはなく、ただじっと互いに見つめ合っていた。その時の彼女の眼差しは、隣で見ているレティシアの方がドキッとするような甘さを持っていた。
「……平気?」
聞いてから、言葉足らずだったと反省する。だがセレナは気にした様子もなく、ふふっと笑う。
「ええ。レイド様は約束してくださったもの」
「……何を?」
「秘密」
くすっと笑い、セレナはふと、真面目な顔になってレティシアを見つめる。
「……レティシア、あなた……」
「何?」
「……何でもない」
「ちょっ、今日のセレナ意地悪!」
「あら、ひょとしてレイド様に似たのかしら」
「それ、レイドのこと意地悪って言ってるようなもんじゃ」
「そう、あの方はとっても意地悪よ」
でも、そこがいいの。
どちらからともなく微笑み、二人馬車の消えた方を見る。
二人がそれぞれ愛おしく思う男性を乗せて、馬車は草原の彼方へ走り去っていった。




