茜色の空の下で
「……やはり、君との約束は破れない」
淡い夕日が、白亜の神殿を明るく照らす。
そろそろ夕餉の時間であるため、ふわふわとシチューの香りが漂ってくる。
「彼」は、神殿前の石段に腰を下ろしていた。彼が纏うローブには、助祭の地位を表す紋章が縫いつけられていた。
「君に頼まれたら、どうしても断れない。……ひょっとして、私の気持ちを分かっていて、ああ言ったのか?」
「さあ、どうかしら」
ふふっと含み笑いをして首を傾げるのは、彼の隣に腰掛ける女性。彼が羽織るローブと似てはいるが、彼女のそれは夜空で染めたかのような漆黒。ローブと同じ黒髪を風に弄ばせている。
彼は、隣の彼女を見る。自分とはひとつしか年が違わないのに、ここ数日の苦労が彼女を疲れさせていた。数年前は艶やかな黒髪だったのに、今は所々白いものを混じらせている。
「どちらにしろ、私はあなたを信じてるってことよ」
どう? と尋ねられ、彼は頭を掻いた。彼は昔から、彼女の言葉には弱かった。いくら彼女の言うことが無茶でも、最終的には彼女に従ってしまうのだ。
そう、例えそれが、どれほど彼女を苦しめ、彼を苦悩させる選択だったとしても。
「――来年からフェリシア様はセフィア城に入学される。フェリシア様は私がお守りするわ。だから、あなたはアデリーヌと一緒に、マリーシャ様を守って、支えて差し上げて」
どこまでも穏やかな彼女の言葉に、彼はぐっと唇を噛んだ。
分かっている。彼らには、選択肢がない。こうするしかないのだ。
偉大なる大司教ティルヴァン亡き今、残された彼らが取るべき道は、ひとつしかなかった。
つい、と彼女が顎を上げる。日の傾きかけた西の彼方からやって来るのは、彼女が呼んでいた馬車。長距離の旅用に設備を備えた特別仕様車である。
これから、彼女は神殿を去る。彼の元から居なくなる。
彼女は静かに立ち、神殿前に止められた馬車に手際よく自分の荷物を載せる。といっても、彼女の私物はトランクひとつ分のみ。彼が手伝う必要もなく、彼女の旅立ちの準備は終わった。
「 」
彼は、馬車のタラップに上がった彼女に呼びかける。彼女は、座席に座って馬車の窓を上げる。
「何?」
「……君はずっと、ティルヴァン様を想っているんだな」
血を吐くような思いで問うたのは、彼がずっと前から考えていたこと。
幼い頃から一緒で、セフィア城に上がってからも変わらぬ友情を続けていた彼が、ずっと聞きたいと思っていたこと。
何度、諦めろと言ったことだろう。何度、忘れろと言ったことだろう。
その度に彼女は笑顔で首を振るのだ。見ている方が苦しくなるような、貼り付けたような笑顔で。
「私、こう見えて一途だから」
馬車が動きだす。彼女はすっと前を向き、彼の視線から逃れるように顔を背けた。
土埃を上げながら馬車が走る。残された彼は、彼女を乗せた馬車が地平の彼方へ走り去っていくのを、黙って見送るしかなかった。
分かっていた。ずっと前から分かっていた。
それでも、許せなかった。
彼女をここまで傷つけた人物が、許せなかった。
「 」
彼は、もう一度呼びかけた。
彼の心の中で微笑み続ける、永遠に愛する女性の名を。




