急転
「劇? あー、そんなこともあったっけ。それがどうしたの?」
後日。「実行委員会」のプレートが外されたボーレの部屋を訪問すると、ボーレはあっけないほどあっさり言った。
「そりゃ、誰にだって非常事態はあるって。それに、あの場で一番大変な目に遭ったのは君でしょ、レティシア」
「……そうかもしれませんけど、ボーレ様渾身の劇をぶちこわしてしまったようで……」
項垂れて言うと、ぴしっと額に痛みが走る。
「つべこべ言うな。終わったことをいつまで嘆いている」
レティシアにデコピンしたタリスが言い、三人分の紅茶をテーブルに置く。
「劇自体に落ち度はなかった。私やボーレにすれば、あの劇は百点満点だ」
「そういうこと」
鷹揚に頷き、ボーレは「お茶菓子どこだっけー」と言いながらキッチンの方へ向かっていった。
レティシアはヒリヒリ痛む額をさすり、何となく気まずくなってタリスを見た。タリスもばっちりレティと視線を合わせ、ニッと笑った。
(……この笑顔には、勝てないな)
自分の未熟さを目の当たりにし、レティシアは手前のカップを手に取った。夏用に冷ましたアップルティーは、すっとレティシアの喉を冷やしてくれる。
タリスは組んだ手の上に顎を乗せてレティシアを観察していたが、徐に口を開いた。
「……そういえば、最近オルドラントの公子とお仲がよろしいようだな」
「ぶっ!」
噴霧器のように紅茶を吹き出し、ごほごほ噎せるレティシア。
「な、んのことですか!」
「いや、とうとう本懐を遂げたのかと思ってね」
いやぁ、若いっていいね。
そう微笑んで、布巾でテーブルに飛び散った紅茶を拭うタリス。
「まあ、これで君とは遠慮なく恋愛談義に花を咲かせられるということだね」
「いや、まだ付き合っているとは……って」
あれ? と首を捻るレティシア。
「……恋愛談義って……」
「お互い恋人ができたのだから、構わないだろう」
「だからまだ恋人じゃなくて……いやいや、そこじゃなくって!」
レティシアは差し出された紙ナプキンで口元を拭い、テーブルの反対側にいるタリスに詰め寄った。
今、聞き捨てならない言葉を聞いてしまった。
「タリス様、ボーレ様のことが好きだったんでしょう!」
「今でも好きだが」
「で、でも恋人が……」
「ボーレのことだぞ」
(はい?)
訳が分からない。レティシアは、呆然としてタリスと、扉の向こうで菓子を探しているであろうボーレを見やる。
「でも……! ボーレ様は金髪の美人魔道士と……」
「あれ、男だぞ」
もう、考えるのも億劫になった。
「三百五十年祭の日に中庭にいた奴だろ? あれは正真正銘男。劇でも、役が足りないから仕方なく女装して出てもらったんだ」
(何……ですと! あの超絶美人が、男?)
艶やかに微笑んでボーレにジュースを渡し、舞台上で愛らしくも勇ましく演技する美女――いや、女装の男。
何か、レティシアの内部で積み上げてきた物がガラガラと音を立てて崩れ去っていったようだ。
「でも……タリス、嫉妬してたんじゃ……」
「するに決まっているだろう。アンドルーの奴、男のくせに私より美人なんだ。舞台で慣れるためにボーレと歩行訓練しているとはいえ、私より美人の女装男を連れていたらそれは、腹が立つに決まっている」
もはや反論の言葉も出ず、レティシアは絶句する。タリスを気遣っていた自分が、馬鹿みたいだ。
「……じゃあ、ボーレ様が言ってた彼女ってのは、最初っからタリス様のことなんですね」
「あいつ、そんなこと言っていたのか」
照れるな。といつも通り真顔で言うタリス。がっくり肩を落とすレティシア。
(すごく、疲れた……)
「やっほう、女性諸君。戸棚の奥からクッキー発見したよ」
空気を読んだのか読まないのか、意気揚々と戻ってくるボーレは、いつ買ったのか分からない萎びたクッキーを持ってきた。タリスはそんな恋人を冷めた目で見、そしてレティシアに微笑みかけた。
「……君の正体が何であろうと、レティシアはレティシアだ。今後もよろしく頼む」
裏表のなさが美点の、タリス。レティシアははっとして――緩く笑う。
「はい、よろしくお願いします」
「いつか必ず、恋愛談義をさせてくれ」
「……い、いつかですからねっ!」
「えっ、楽しそうー。ねえ、タリス。僕も混ぜてよ」
「野郎は黙ってろ」
レティシアがクインエリア大司教の娘だと、セフィア城内だけでなくリデル王国中に広まってきた。とはいえ、新聞記者は魔道士団長たちが門前払いしてくれるし、セフィア城内の野次馬生徒はディレン隊の仲間たちが蹴散らしてくれた。
そんな時の人になったレティシアに、ノルテたちがいい対処法を教えてくれた。
その名も、「だから何ですか?」作戦。
何か聞かれても、飄々と返す。「だから何ですか?」とあっさり認めつつもと惚けてやる。野次馬たちも、「本当に大司教の娘なのか?」と問いつめて、「そうだけど?」とあっさり答えるレティシアに毒気を抜かれたようで、数日後には表立ってひそひそ話をする者もいなくなってきた。
そういうわけで、ディレン隊会合の場であるレイドの部屋は今日も平和だ。
「おい野郎共、茶ぁ出せ茶」
いつも通り、偉そうに命令するノルテ。ソファに深く座り、細っこい脚を組んでブーツの先をゆらゆらとリズムを刻むように揺らす。
「あと菓子も忘れるなよ。ノルテさんを待たせたらどうなるか、分かってるだろうね」
「いちいちうっせぇおガキ様だ」
ぶつぶつ言いつつも、オリオンは菓子を用意する。向こうでは、その他のディレン隊の男性もそそくさとノルテお嬢様の命令に従っている。
「分かってるでしょうけどぉ、お茶を出す順番はお姉様方が先よ」
「おまえじゃないのか」
「わたしだって序列くらい分かってるわよ、この筋肉頭」
ぶうぶう言いつつも、言われた通り男たちはまずミランダに茶と菓子を出し、続いてカティアたちディレン隊の古参魔道士たち、そしてセレナ、レティシアと続いてノルテに菓子を出す。女性陣が一言詫びて紅茶や菓子を受け取る一方、ノルテはフンと鼻で笑って大儀とばかりに手を振るのみだ。
「……まるで、おまえがこの部屋の主のようだな」
そう呟くレイドはさすがに一番先に茶を出されており、うろんな眼差しで部屋を見回している。ちなみに彼は一番立派なソファに座っているが、その隣にはもはや定位置となったセレナがちょこんと座っている。ノルテたちにぶつぶつ文句言いつつ、レイドの腕はセレナの肩に回ってその髪を撫でつけている。やはりセレナはレイドの癒し担当になっているようだ。
「そろそろおまえたちも座れ。ノルテにこき使われてご苦労だった」
「なによー、この色男」
うりうりとノルテに小突かれるが、レイドはちっとも嬉しそうな顔をせずむしろ迷惑そうに、ノルテと距離を取ってセレナににじり寄った。
レティシアは紅茶を飲みつつ、いつも通り賑やかな辺りを見回す。珍しく、ディレン隊が勢揃いだ。
「レティシア」
隣から掛かる、優しい声。振り向いたレティシアをじっと見つめる、スカイブルーの双眸。
「……お茶のお代わりもらってもいいかな」
彼は言う。レティシアの大好きな声で。
差し出されたカップを受け取る。ほんの少しだけ触れあった指先が熱い。
ずっと、こんな穏やかな日が続けばいいのに。
自分の生まれも運命も、全てを優しく包み込んでくれるクラートの側に、ずっといられたらいいのに。
(このまま、何も起こらずずっと……)
カップを手に黙り込んでしまったレティシアを気遣ってか、「レティシア?」と彼は声を掛けてくる。
「……はい、クラート様。只今」
ずっと、こうやって皆で笑いあえていればいいのに。
――同時刻。
「……条件は整った」
ことん、とチェスの駒が動かされる。テーブルいっぱいに広がる東大陸の地図に、点々とチェスの駒が乗っていた。
「障害となるのは」
男の声を受け、周囲にいた者の一人が手を伸ばし、白いクイーンの駒を取る。
「バルバラ王国のティカ女王」
別の者が、クイーンとは離れた位置にある黒のナイトを指先で持ち上げる。
「オルドラント公国のギルバート大公」
「そして」
男は、自分に一番近い場所にあった、白のビショップを持ち上げて――
「クインエリアのマリーシャ」
ぴん、と指先で弾いた。
白のビショップはくるくると回転しながら宙を舞い、埃っぽい床に落下した。彼に倣い、白のクイーンと黒のナイトを持っていた者たちも、それぞれの駒を宙に放る。
「そして欠かしてはならぬのが、彼らと同じ血を持つ者たち」
そして、地図上の駒が不在になった箇所に、それぞれ新しい駒を置く。元あった駒と同じ種類だが、どれもサイズが一回り小さい。
「彼らがどう動くか……それこそが要。我々は彼らが『正しく』動くよう、手配せねばならない」
皆、一様に頷く。
真昼だというのに薄闇に包まれた部屋には、張りつめた緊張の糸が巡らされていた。
男は、目線を下げる。彼の足元には、先ほど自分が放り投げた白のビショップの駒が転がっていた。床に放られた衝撃で駒の一部が破損し、聖者の腕がぽっきり折れている。
彼は壊れたビショップの駒を見――残酷な笑みを浮かべた。
セフィア城の窓の外では、晴れ渡った空が静かに、雷雲に覆われつつあった。
もうすぐ、嵐が来る――




