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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
143/188

その想いの名は 2

 コンコンとドアをノックする。「はあい」と返事をし、内側からドアを開けたのは小柄な黒髪の少女。

 彼女はドアの外にいるレティシアを見て、どんぐり眼をさらに大きくした。


「レティ……よかった、元気になれた?」

「うん。おいしいものも食べたししっかり寝たから、だいぶよくなったよ」


 言い、レティシアは振り返った。封魔部屋からここまで着いてきてくれたユーディンと魔道士団長は、無言で頷く。道中、廊下で好奇の目にさらされるレティシアを二人が眼力で守ってくれたのだ。

 レティシアは二人を廊下に残して、ノルテに続いて部屋に入った。


 ここは、セフィア城男子棟、クラートの部屋。レティシア以外にも来客があったのだろう。居間では、オリオンとセレナがお茶出しの用意をしたり見張りをしたりしていた。

 ティーセットを出していたセレナは、レティシアを見るとはっと息を呑んで真っ直ぐ駆けてきた。


「レティシア! よかった……」


 そのまま抱きついてくる年上の親友。レティシアはその背を撫で、よしよしと髪を梳った。いつもとは逆の立場だ。


「ごめんね……セレナにも心配かけた」

「ばーか、おまえが謝る立場じゃないだろうが」


 こつん、とレティシアの旋毛付近に拳が落ちる。オリオンはニッと笑い、ドアを守るように壁に背を預けた。

 騒ぎを聞きつけたのか、居間から寝室に続くドアが開く。出てきたのは――


「ミランダ……」


 ドアを閉めたミランダは、視線を上げた。セレナの抱擁から解放されたレティシアを見、その目がすっと細くなる。アーモンドのような目に見つめられ、どきりとレティシアの胸が鳴る。


 ディレン隊で懇意にしていたメンバーのうち、レティシアの身分を明かしていないのはミランダだけだった。特に深い意味があって彼女を外したわけではないが、何となく気まずい。ひょっとしたらミランダも、自分にはレティシアが正体を明かさなかったことを気にしているかもしれない。

 きゅっと、セレナがレティシアの肩を抱く。レティシアは息をつき、一歩前に出た。


「……あの、ミランダ……」

「……クラート公子の様子を見に来たのでしょう」


 構えるレティシアを強引に遮り、あっけないほどあっさり言うミランダ。


「今は目も覚まして、レイドと話をしているわ。顔色もずっとよくなったし、話してみる?」


 皆まで言うな。ミランダの双眸はそう語っていた。レティシアは緊張の面持ちで頷き、セレナを残してミランダの脇を通った。

 余計なことを何も言わない。レティシアに余計なことを言わせない。それが、ミランダなりの優しさだったのだろう。

 通り過ぎるときも、ミランダは目を細めてレティシアを見送り、何も言わずソファに腰掛けてティーセットを手に取った。











 レティシアは、ノックして寝室のドアを開けた。さんさんと初夏の日差しが降り注ぐ中、ベッドサイドにいたレイドが真っ先に振り返る。


「……来たのか、レティシア」


 その言葉に、ベッドに上半身を起こす形で寝ていたクラートがぴくりと反応して振り向いた。ぱっと見たところ、目立った外傷はないのでレティシアはほっとして肩の力を幾分抜いた。


「ええ……クラート様のお見舞いに来たの」

「そうだと思った」


 ほら、と手に持っていた見舞いの品を目の高さに持ち上げるレティシア。レイドは腰を上げ、通り過ぎ様にレティシアの肩を叩いた。


「……おまえ次第だからな」


 低い声でそう言い残し、赤髪の隊長は部屋を出て行った。


 レティシアはレイドを見送り、先ほどレイドが座っていたベッドサイドの椅子に腰掛けた。クラートはそんなレティシアの一挙一動を見守り、悲しげにスカイブルーの目を細めてくる。


「……レティシア」

「お加減はいかがですか、クラート様」


 ミシェルの呪いに掛かったクラートは、レイドに殴られたため頬に大きなガーゼを当てている。また、床に打ち据えられた際に捻挫打撲もあったらしく、今はシャツに隠れているが体のあちこちに打ち身の痕があるという。体の節も痛く、数日は自室で安静にするようにと校医からも言い渡されたそうだ。

 気遣わしい声を掛けるレティシアを見、クラートは目を伏せた。


「……僕は全然平気だ。君こそ……」

「私は至って健康ですよ」


 クラートをやんわり遮るように言い、持ってきたバスケットからリンゴを出す。手拭きで手を拭ってからナイフも出し、器用にくるくると皮を剥いた。


「私が未熟ゆえ、クラート様にもご心労お掛けしました。ミシェル・ベルウッドのことはキサ様から聞いていたのに用心しきれなかった、私にも非があります」


(だから、あなたが謝らないでください)


 淡々と語るレティシアに押され、クラートは黙った。

 しばらく、レティシアがリンゴを剥く音だけが部屋に響く。レティシアの膝の上にくるくると螺旋状の赤い皮が積み上がっていく。


「剥けましたよ、どうぞ」


 そう言ってレティシアは、皮を剥いただけのリンゴを差し出した。芯が付いたままのリンゴを差し出され、クラートがきょとんとして見つめてくる中、手早く自分の分も剥いてがぶりと噛みつく。


「たまにはこうやって囓るのもいいですよ」


 しゃりしゃり頬張って言うと、クラートも硬い表情にわずかに笑みを浮かべ、レティシアと同じようにリンゴにかぶりついた。

 しばらく二人でそれぞれリンゴを囓った後――


「呪いとは……恐ろしいものだな」


 半分ほどリンゴを食べたクラートが、ぽつりと呟いた。レティシアは何も言わず、クラートの言葉を待つ。


「セレナの時にその恐ろしさを実感したつもりだったけれども、いざ自分の身になってみると――よく分かった。だめだと分かっているのに……そんなことしたくないと訴えるのに……体が言うことを聞かない。手は、脚は、君を殺そうと――勝手に動いていた」


 レティシアはゆっくり頷く。この呪いの恐ろしさは、アバディーンの時にも身に染みて実感した。


 あの時もレティシアは、呪いに掛かって殺戮人形となったセレナに襲われた。その時のセレナは無差別だったが、今回は術者がレティシアを恨むミシェルだったため、騎士もクラートも全員レティシアに集中攻撃してきた。クラートも、レイドの剣をかいくぐってまでしてレティシアを仕留めようとしてきたのだ。


「レイドに止められても……どうしようもなかった。本当なら、僕の方こそあの舞台で成敗されてもおかしくなかった」


 言い、頬に貼られたガーゼに触れる。ガーゼでも覆いきれなかった頬の皮膚が、青く腫れているのが見えた。

 レティシアしばらく考え、芯のみになったリンゴを皿に放って椅子を引き、クラートに近付いた。


「クラート様が気に負うのは間違いです。悪いのはミシェル――それに、ティーシェと入れ替わっていたことにも気付けず、彼女を止められなかった私です」

「違う! 君は……」

「クラート様が私の前に立ちふさがってくださらなかったら、私はその時点で別の騎士の人に斬り殺されていたでしょう」


 レティシアは静かに言う。驚きで目を瞠るクラートを、真っ直ぐ見据える。


「そうなったら、ミシェルの思うつぼ――それに、私を斬ってしまった騎士の方も、ずっと悔やむことでしょう。でも、クラート様が来てくださったからそうならずに済みました。レイドもキサも、みんな来てくれたから被害は最小限で済んだのです」


 元は、大司教の娘である自分が蒔いた種だ。レティシアさえセフィア城にいなかったら、三百五十年祭が狂乱に包まれることもなかった。ボーレが渾身の力で作り上げた劇を汚すこともなかったし、そもそもティーシェが編入することもなかった。


 クラートもレティシアの考えていることに辿り着いたのだろう。その表情がさっと変わり、そのままベッドの上で向きを変えてレティシアに向き直る。


「レティシア……ひょっとして、三百五十年祭が襲撃されたのは自分のせいだと思っている?」


(そうです、私のせいなんです)


 心の中だけで答える。クラートは沈黙を肯定と受け取り、緩く首を振った。


「……だとしたらそれは間違いだ。僕はずっと前から、ミシェルの脱獄を知っていた――加えて、ティーシェの正体も」


 レティシアははっとして顔を上げる。ふと、劇の練習中にクラートが舞台の袖で何か紙切れのようなものを読んでいた光景が思い出された。

 クラートは、スカイブルーの目に悲哀の色を乗せた。


「……ティーシェの正体は、ミシェル・ベルウッドの妹であるカテリナ・ベルウッド。伯爵である父と母が離婚して、父の祖国であるリデルを嫌っていたはずの彼女がセフィア城に来る時点でおかしいと思っていた。急ぎカーマルと連絡を取ると、グラスバーン男爵夫妻も、急に養女がセフィア城に行きたいと言ったため困惑していたそうだ。だから僕は、彼女をマークすることにした」


 えっ、と小さい声を上げるレティシア。


「クラート様は、ティーシェを警戒していた……?」

「そう。けれどティーシェは編入初日にレティシアに接触し、『聖槍伝説』の役者にまでなった。――このままでは彼女を監視しきれない。そのために」

「クラート様も、劇の役者になった……」

「……タリスとボーレに頼み込んで役に入れてもらった。それも、ティーシェ担う聖女の役と近しいものを」


 そしてクラートは口を閉ざし、やや躊躇いがちに続けた。


「……脅迫状を送ったのも、僕だ。とにかく彼女に目立つ行動をさせたくなくて送ったのだが――結果として、君とティーシェを近づけることになってしまった」

「……あれは、クラート様が出したんですか」


 レティシアは目を丸くした。今回の事件やユーディンの説明で、謎だったことが次々に解れていった。その中で、実行委員会に対して脅迫状を送った者の正体ははっきりしておらず、ミシェルが送ったのだろうかと勝手に推測していたが。

 まさか、クラートが作った物だったとは。


「その後もそれとなく突っ込んでみたが、彼女は決して口を割らなかった。何か思うことがあるならば相談に乗ると言っても、全てはぐらかされてきた」


 言い、クラートは目線を落とす。


「……君を守りたくて行動したのに、全て裏目に出てしまった。挙げ句、ミシェルに襲われる君を守り抜くこともできなかった」

「そんな……クラート様はそこまでしてくださったんです。これ以上の贅沢は言えませんよ」


 それに、とレティシアはクラートに詰め寄る。


「……私は確かに大司教の娘ですが、クラート様だってオルドラントの公子様。未来のオルドラントを担われるお方です。私は大司教候補に過ぎないのですから」

「違う」


 きっぱりと、否定の言葉が出てきてレティシアは目を瞠る。


(え、違うの?)


 てっきりレティシアは、自分が大司教の娘だからクラートが守ってくれるのかと思っていたのだが。


「そんなのは関係ない。身分とか、僕がオルドラントの公子だとか、勘定に入れたことはない。今までだって同じだ。僕は、君がクインエリアの跡継ぎ候補だから近付いたわけじゃないんだ」


 それは、知っている。二年前の秋の遠征実習で二人は知り合い、クラートの方から気さくに話しかけてくれたのだ。

 あの時のクラートの柔らかい笑顔を、今よりも少しだけ子どもっぽい笑みを、今でも鮮明に思い出すことができる。

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