三百五十年祭 5
第二幕を終えた控え室は、異様な熱気であふれかえっていた。
レティシアは劇の途中から舞台袖で見るだけだったのだが、何度も練習風景を見ているはずのレティシアでさえ、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
「素晴らしい演技っぷりだった!」
タリスも戻ってきた役者たちを激励し、舞台袖に集まった仲間の顔を順に見回す。
「残るは『聖槍伝説』一番の山場、第三幕だ!」
第三幕は、世界各地を旅して仲間を集めたルーシ王女が、祖国の敵である帝国の皇帝に戦いを挑むところから始まる。
父王の手を逃れて亡命の度を続けた彼女は、決着を付けるべく祖国に戻る。そこで、セディン皇帝の言いなりになっていた父王を討ち、同じく敵対することになっていた幼なじみの王子の首も取る。王女は全ての元凶であるセディン皇帝を討つべく、仲間と共に帝国へ向かった――
幾多の血を流し、幾多の犠牲を出しながらも王女は皇帝の首を討ち取り、皇帝の息子たちの皇位継承を宣言する。これによって永きに渡る戦いが終結するのだ。
第三幕の後半からレティシアも舞台に上がる。といっても駆け落ちするティーシェとクラートを逃がし、二人の結婚式を執り行うという脇役っぷりだがこれも、立派な役目だ。
舞台袖では、皇帝役の青年騎士とルーシ王女役の少女アネットが最終打ち合わせをしている。作り物の髭を蓄え、尊大な眼差しで少女を見下ろす皇帝の青年と、鎧を着込んで精一杯背伸びする少女。まさに、魔王と可憐な騎士姫の構図だが――
「だから、あなたは私の槍を受ける振りをして避ければいいのよ」
少女はいらいらしたように青年に詰め寄る。手に持った白銀の槍を、今にも突き出さんばかりの勢いだ。
「練習でも何遍もやったじゃない。それなのにどうして、この期に及んで穂先のない槍にしろって言うの!」
「だって……当たったら痛いじゃないか」
対する青年は、鼓膜がビリビリ震えるようなバリトンボイスで言う。ただしその口調と言っている内容は、聞いている方ががっくりするほど情けない。
「ほら、一昨日のリハーサルでも君、僕の腹にぐっさりやっただろう」
「あなた、きちんと防刃チョッキ着てるでしょ。それに、一昨日のは私は的確に突きだしたのを、あなたが驚いて体を動かすから刺さっちゃったのよ」
「でも……」
レティシアは二人の不毛な言い合いから視線を反らし、木箱の上に座るクラートを見つけて駆け寄った。
「お疲れ様です、クラート様」
すとんと隣に座ると、クラートは顔を上げて柔らかく微笑む。先ほどからひっきりなしに出番があるが、彼の顔に疲れは見あたらない。額に流れる汗を拭う仕草でさえ、様になる。
(いやいや、見とれてる場合じゃなくって……)
「お疲れは出ていませんか」
「レティシア。僕は大丈夫だよ。……次でいよいよ第三幕だね」
「はい。久方ぶりに私の出番もあります」
控え室では挙動不審な行動を取ってしまったが、今は非常に話しやすい。
レティシアは持っていた飲み物のカップを差し出した。
「景気付けにどうぞ。クラート様はジンジャーがお好きでしたよね」
「知っていたのかい?」
「朝食の時とかに、よくドリンクバーで取ってらっしゃいますから」
えっへんと胸を張るレティシア。ディレン隊のメンバーの好きな飲み物については、把握しているつもりだ。
クラートはそんなレティシアをじっと見た後、笑顔でカップを受け取った。
「そういうことなら……ありがたくもらうよ」
「どうぞ」
クラートがジンジャー入り紅茶を飲むのを、レティシアは横から見つめていた。
やはり、レティシアはこの時間が好きだ。クラートの隣にいられる、優しい時間が。
だからこそ、たとえ舞台上の振りとはいえ、クラートとティーシェが結婚式を挙げるシーンに立つのは勇気が要る。練習やリハーサルでも、思わず目を反らしてしまってタリスから手厳しいお言葉を頂いたものだ。
ちくん、と痛む胸を押さえ、レティシアは顔を上げる。
「あ、そ、そういえティーシェはどこでしょうか」
「ティーシェ?」
「はい、ティーシェ用の飲み物も買ってきたので」
ほら、とフルーツドリンクのカップを見せると、なぜかクラートは不満そうな顔になった。
「……僕用だけじゃなかったのか」
「何ですか?」
「いや……」
クラートは飲み物を飲み干し、辺りを見回す。
「ティーシェは第二幕が終わってすぐ、控え室に戻ったそうだよ」
「衣装直しでしょうか」
「いや……ただ、少しばかり体調が悪そうだった。第二幕の途中からも、顔色が悪かったように見えた」
そうか、とレティシアは急にティーシェのことが心配になる。たおやかな見た目に反してなかなかタフなティーシェだが、心労余って気分が悪くなったのかもしれない。
(きっと、かなり気を張らせていたんだろうな……プレッシャーもあったよね)
「見に行きましょうか」
「いや、大丈夫だろう……ほら、来たよ」
立ちあがりかけたレティシアを制し、クラートは舞台袖の奥を手で示した。
クラートの示す方を見ると、確かに聖女の格好をしたティーシェが舞台袖に入ってきたところだった。足取りはしっかりしているが、伏し目がちの紫の目に覇気はない。声を掛けてくる役者たちにも生返事らしく、レティシアたちの方を見ることもなく、舞台脇に行ってしまった。
「……行っちゃいましたね」
ジュースを渡しそびれてしまい、レティシアはがっくり肩を落とす。
レティシアがぬるくなってしまったジュースのカップを脇に置いた直後、カーン、と鐘が鳴る。第三幕の始まりだ。
「あっ、これ、捨てておきますね」
レティシアは立ち上がったクラートの手から、空の容器を受け取る。クラートはそんなレティシアを見下ろした後、わずかに目を瞬かせた。
何か、彼のスカイブルーの目に動揺が走っているように思え、レティシアはぴたと動きを止めてクラートの目を見つめ返した。
「――レティシア」
彼の声は、ひどく神妙な響きを持っている。
「……気を付けて」
「え?」
(気を付ける……? 誰に、何に?)
そう問うより早く、クラートは舞台脇に行ってしまう。そこでルーシ役の少女と一言二言言葉を交わし、すぐに舞台に上がっていった。とたんに割れんばかりの歓声が上がり、朗々としたクラートの声が広間に響く。
空の容器二つを持ったレティシアは、ぼんやりとクラートの背中を見つめるしかできなかった。
(クラート様は、一体何に気を付けろとおっしゃったの……?)
考えられるのは――現在逃走中の、ミシェル・ベルウッド。一国の公子なのだから、クラートが事情を知っているのはおかしなことではない。クラートも、この三百五十年祭にミシェルが紛れ込んでいると思っているのだろうか。
レティシアは、ふんと気合いの鼻息をついた。何にしても、劇は成功させなければならない。魔道士団長も言っていたように、レティシア一人のために劇を中断させるわけにはいかないのだ。
(私ができることなら、私の中で解決させないと……!)
ボーレやタリス、ユーディンや劇を見に来てくれた仲間たち、特に――散々迷惑を駆けたレイドたちへの最大のお返しは、全力で劇を成功させることだ。劇を中止させて皆を侍らせ、ミシェルの来襲に震えることではない。
レティシアはゴミを捨て、舞台脇から劇の様子を見た。ちょうど、ルーシ王女率いる連合軍が帝国の包囲網を突破し、王女が細身の装飾槍を掲げて皇帝の前に立ちはだかるシーンだったった。
「よくぞ来たな、トローネの生き残り!」
先ほどの舞台裏でのいざこざはどこへやら、皇帝役の青年はまさに悪の魔帝の笑みで地の震えるような声を出す。ルーシ王女は仲間たちに鼓舞の声を掛け、そして果敢に皇帝に打ち掛かってゆく。
「いやあ、いい感じだね」
はしゃいだ声。見ると、同じように舞台を見ていたボーレが。彼は暗幕にしがみつき、恍惚の笑みで舞台に見入っている。
「嬉しそうですね、ボーレ様」
「そりゃあ、僕たちが作り上げた劇だからね。感動もひとしおさ」
しみじみ言うボーレ。舞台をよく見ると、ボーレの恋人の女性も魔道士の格好で戦っている。魔法の火花や爆発を織り交ぜての戦闘シーンは、なかなか見応えがある。
「ボーレ様もやっぱり気がかりでしょうね。恋人が舞台に立っていると」
何気なく言うと、ボーレは振り返って、きょとんとした眼差しになる。
「恋人って……誰のこと?」
「え?」
「僕の彼女、舞台に上がってないけど」
(……はい?)
思っていない反撃に、レティシアは混乱する。そして、確認をと思って勢いよく舞台の方を振り返り見る。
今、舞台で勇ましく戦ってる女性は間違いなく、ボーレと一緒にいた金髪の美女だった。タリスだって、二人のことを複雑な目で見つめていたではないか。
(まさか、二股? 舞台にいるのはよく似た第二彼女で――いやひょっとして、双子の姉妹を侍らせているとか!)
何というハーレム! 何という魔王!
勝手に一人で失礼な妄想を繰り広げては、あわあわするレティシア。そんな彼女をよそに、観客から歓声が上がる。
皇帝役の青年は上手くルーシ王女の槍を「避けた」ようだ。彼はその場に崩れ落ち、ルーシ王女は槍を高く掲げる。
「皇帝の首は私が討ち取った! 我々の勝利だ!」
その声で歓声を上げるルーシ王女の仲間たち。中には床に倒れたまま動かない役者がいるあたり、なかなか生々しい。勝利宣言に沸き返る連合軍の中には、遺体役に縋り付いてさめざめと泣く女性魔道士も。
そのまま新皇帝の戴冠式になり、ルーシ王女の仲間たちはそれぞれの故郷に帰ることになる。順にルーシ王女と新皇帝たちに挨拶し、各々の出立の場面に切り替わる。
そして舞台には、床にへたり込むティーシェのみが残された。
「出番だ、レティシア」
後ろからタリスに背を押され、レティシアは頷いて舞台に上がった。もちろん、膝を折ることを忘れずに。
「聖女様、どうかお逃げを!」
レティシアは、無理矢理望まぬ結婚をされそうになる聖女に取りすがる。
「ここはわたくしが阻止いたします。聖女様はどうか、どうか騎士様と共にお行きください!」
「そんな……あなたはわたくしの大切な仲間です! あなたを置いていくなんて、わたくしには……」
(……ん?)
レティシアは内心首を傾げた。今までのティーシェよりも少しだけ調子が良くないような――だがきっと、体調が悪いのを無理して立っているためだろう。
「これ以上おっしゃらないでくださいませ、ほら、騎士様がお迎えにいらっしゃいました」
レティシアが手で示すと、舞台袖からクラートがやってくる。そのまま彼はティーシェに駆け寄り、その手の甲に唇を落とす。目を反らさなかっただけ自分は偉いと、レティシアは自分を褒めた。
「そこまでだ、逆賊め!」
愛の言葉を紡ぎ合う二人を追いかけて、足音荒く聖女の家の者がやってくる。全員武装しており、聖女を無理矢理連れ戻すつもりなのだ。
レティシアは立ちあがり、二人を庇うように立ちふさがった。ここでレティシアは迫り来る追っ手から二人を逃がし、生死不明のままフェードアウト、となるのだ。
魔法の加減はセレナたちから徹底的に教わり、既にマスターしている。レティシアは追っ手役の騎士たちに向かって、魔法の構えをした。
(……ん?)
ふと、レティシアの耳を微かな囁き声が擽る。直後、レティシアの耳の横をわずかな風が通りすぎる。
だが、異様な気配を不審に思ったのは一瞬。劇に集中しなくては。
レティシアは追っ手たちに向き直って魔法を放った。わざと標的をずらした風刃が舞台上に巻き起こり、追っ手の一人が倒れる。
魔法の構えをするレティシアに向かって駆けてくる、追っ手。彼はなかなかの腕前で、リハーサルでもレティシアが惚れ惚れするような剣技で、レティシアを傷つけないように剣を振るってくれるのだ。
そんな彼が剣を振りかぶる。レティシアは彼が動きやすいよう、わずかに身を固くした。
だが――
(……え?)
ガン! と音を立てて刃が舞台にめり込む。
瞬時に静まりかえる大広間。
追っ手役の騎士が振り上げた剣は、ついさっきまでレティシアの首があった位置を薙ぎ、勢い余って舞台の床を貫通した。身の危険を感じたレティシアはほぼ反射的に刃を避けたが、予定外の展開にひやりと、汗を流した。
(……どういうこと……?)
間一髪で真っ二つにされずに済んだレティシアは、呆然として前を見る。今し方レティシアに襲いかかった大柄な騎士が床に刺さった剣を抜き、ゆらりと立ち上がる。背後にいる二人の騎士は、台本にない仲間の行動に驚き戸惑うばかりだ。
再び騎士の刃が迫ってくる。レティシアは立ちあがり、持ち前の反射神経で後ろに跳んで剣戟を避けるが、避けた拍子に尻餅をついてしまう。
さすがに異常な事態に気付き、我に返った背後の二人の騎士が暴走する仲間を羽交い締めにした。
「くっ、おい、リック!」
「何やってんだ、おまえ……」
再び、風が吹く。
ぞわりとした冷気を伴う邪悪な風に、レティシアは身震いした。
(まただ……ひょっとして、これは……)
きらきらした光の粉が、仲間を羽交い締めにしていた二人の騎士にまとわりつく。二人ははっと目を見開くとだらんと両腕を下ろし、目を白黒させた。怪しげにくるくると眼球が回転する。
その様に、レティシアの背筋がゾッとする。
(これ……セレナと同じ……)
アバディーンで呪術の罠に掛かり、レティシアたち仲間に襲いかかってきたセレナと同じ症状。
考える間もなく、三人の騎士が一斉に刃を構え、レティシアはへたり込んだまま舞台上を後退する。
「レティシア!」
背後のクラートが叫び、剣を抜く。観客のざわめきも大きくなり、客席にいた何人かの騎士たちが舞台に跳び上がってくる。
レティシアは這い上がって、舞台脇にいたティーシェの手を掴んだ。このままでは乱戦状態になりかねない。
(ティーシェを、逃がさないと……)
「ティーシェ、脇に逃げ……」
言いかけて、レティシアは言葉を失った。
ゆらり、と意志を持った霧のように揺らめくベールの間から覗くのは、アメジストのような紫の目。だが、いつも見慣れたティーシェの目ではない。同じなのに、何か違う。
ふいに、ティーシェの手が翻りレティシアの手首を締め上げた。付け爪の施された指先に絞るように手首を掴まれ、レティシアは苦悶の声を上げる。
「……やっと会えたわね、小娘……」
その声は、ティーシェとよく似ている。よく似ているのだが、違う。
紅の引かれた唇が残虐な微笑みを象り、紫の双眸が冷たい光を湛える。まるで、研ぎ澄まされた刃のように――
舞台の端で固まる二人をよそに、舞台上では暴れ出した騎士たちを抑えるべく、男たちが押さえつけていた。体が半分以上緞帳に隠れたレティシアとティーシェに気を配る者は、いない。
「本当はわたくしが仕留めたいけれど……あなたを苦しめたい……死ぬほどの絶望を味わわせたいのよ」
ベールを放り出して、露わになった顔。ふふっと笑う、その顔は――
「ミシェル・ベルウッド……!」
声が震える。体中が冷えきり、指先が冷たい。
姉フェリシアとロザリンドの敵。アバディーンの牢から脱走した殺人者。ユーディンたちも忠告してくれたが、まさか本当にセフィア城に侵入し、舞台にまで上がってくるとは――
絶望はすぐに怒りに変わり、ふつふつと胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。レティシアは手首の痛みに気を配ることなく、まっすぐにミシェルを睨んだ。
「……ティーシェはどうしたの?」
「ティーシェ? ……ああ、あの役立たずな妹のことね。それよりもあなた、自分の心配をしたら?」
えっ、とレティシアは息を呑む。
(……今、何て……?)
だがレティシアに考える暇を与えず、ミシェルは指先を閃かせる。ふっと、先ほどと全く同じ澱んだ風がレティシアの横を通り過ぎ――
ギン!
耳のすぐ後ろで響く鋼の音。
恐る恐る振り返ると、レティシアを庇うように立つ赤髪の青年が――
「レイド!」
レイドが対峙する人物。その姿を見て、レティシアの胸がぎゅっと苦しくなった。
(そんな……)
レイドに打ち掛かるのは、金髪の青年。スカイブルーの目を狂気に光らせ、レイドに斬りかかろうとしているのは――
「クラート様……」
鋭い風が巻き起こる。ミシェルはレティシアの手を離すとふわりと跳び上がり、風刃は標的を逸れて舞台脇に突き刺さる。バキバキと音を立てて舞台が破れ木屑が飛ぶ中、舞台に躍り出たのは長身の女性魔道士。
「レティシア様、どうか護身を!」
キサは動きにくいローブ姿でレティシアの前に立ちはだかり、ミシェルの放った衝撃波を防護壁で弾き返した。
あちこちで魔法の火花が飛び交い、暴走した騎士と彼らを止めようと必死になって剣を振るう者たち。絶叫に呑まれる大広間。飛んでくる火の粉や風刃を、魔道士団長を始めとした魔道士たちが弾き飛ばし、観客を広間の外に出している。
クラートがレイドの猛攻をかいくぐり、装飾剣を振りかぶる。ミシェルと火花を散らす戦いをしていたキサの脇を通り抜け、クラートは、レティシアに刃を向ける。
その目に、普段の温かさや優しさは、ない。
(クラート様……)
足が、動かない。
アバディーンで同じ呪いに掛かったセレナの時にはきちんと動けたのに、両脚に力が入らない。我を失って斬りかかってくるクラートを、見つめるしかできなかった。
クラートに斬られる。そう把握した直後。
「……この……馬鹿が!」
事態を察し、剣を放り出したレイドがクラートの横っ面を張る。レイドよりずっと小柄なクラートの体が吹っ飛び、なおも飛び起きて暴れようとするのをオリオンが押さえつける。他の騎士たちも床に押さえつけられ、ミランダを始めとした熟練魔道士たちによって無理矢理眠らされていた。
ごうっと火花が上がり、緞帳が炎上する。見ると、ミシェルが狂ったような笑顔を浮かべて両手から炎を吹き出していた。青白い炎から顔を庇おうとキサがよろめいた隙に、ミシェルは床に落ちていたクラートの剣を拾い、レティシアに向かって突き出してきた。
「死ねぇ! クインエリアの小娘!」
ミシェルの狂った笑顔。
ミシェルの手に掛かって命を落とした、姉フェリシアとロザリンド。
レティシアはなんとか左手で体を支え、必死で衝撃波を放った。だがミシェルは自分の腹部を狙った波動をあっさりかわし、くるりと舞台上で跳び上がると再び突進してきた。
(悔しい……!)
悔しい。何もできない自分が、憎い。
ロザリンドを殺したミシェルを殺せない自分が、憎い。
ミシェルの狂気に染まった顔が間近まで迫り、銀刃の装飾剣がレティシアの首を狙った、瞬間――
ひゅん、と風を切る音。
観客席側から飛び出した細い光の矢が、金色の光の軌跡を描きながらまっすぐ、ミシェルの胸を貫いた。
確実に心臓を貫かれ、がくん、とミシェルの体が震える。紫の目が驚愕で見開かれ、手から剣が滑り落ちる。何度か、踏みとどまるように脚をガクガク震わせた後、ごぼっと血を吐き、まろぶようにその場に崩れ落ちるミシェル。それと同時に、苦しそうに呻いていた騎士やクラートたちがすっと表情を楽にし、穏やかな顔で眠りに落ちた。
(何……?)
レティシアは、その場にへたり込んで目を瞠った。ミシェルは床に突っ伏し、一度二度痙攣した後、動かなくなった。胸から溢れる鮮血が舞台の床を塗らし、赤黒く染め上げてゆく。
「――レティシア」
すっと、目の前が布で覆われる。ふわりと漂うのは、アイスティーの香り。
「場所を移動しよう」
耳朶を震わせる、男性の声。膝の裏にがっしりした腕が回され、マントに包まれたまま抱きかかえられた。
視界は隠されるが、外界の様子は感じ取れる。ぶすぶすとくすぶる木の匂いや、人々のざわめき、かすかな血の香り。
「死んだ」
「舞台で死んだ」
漣のようにわき起こる声。そして――
「クインエリアって……どういうこと?」
微かな声は、消えゆく意識の中でわずかに響いてきた。




