三百五十年祭 3
どこからともなく華やかな音楽が流れる。見上げると、屋上テラスに管弦楽団がおり、上空から自慢の演奏を披露していた。どうやら管弦楽クラブも、張り切って活動しているようだ。
あちこちで、風船や魔法で作ったしゃぼん玉が浮いている。魔法に触れるのも初めてなのだろう、五つか六つに見える少年がふわふわ浮くしゃぼん玉をつんつん突き、そっと両手に包み込み、はしゃいだ声を上げて両親の元に駆けていった。
レティシアは同級生が売り子をしている屋台でジュースを買い、比較的人気のない廊下の手すりに身を預けた。道行く生徒たちは大半がカップルで、それ以外も友だち連れ。一人で寂しくぶらぶらしているのはレティシアくらい――かと思ったら。
(ん? あれは……)
廊下の先に意外な人物を見つけ、レティシアは唇からカップを離した。
レティシアと同じように手すりに両腕を預け、遠い眼差しで中庭を見下ろしているのは、銀髪の女性騎士タリス・マージュ。そこらの男性より身長のある彼女は人気のない廊下でひときわ目立ち、ストームグレーの目に憂いの色を浮かべている。
あちらは、廊下の反対側にいるレティシアに気付いていないようだ。レティシアはこっそり息を潜め、何となくタリスの視線の先を追ってみた。
色とりどりの屋台や、ガーデンパラソルが立つ中庭。売り子で奔走しているのだろう、小柄なノルテの黒髪もちょこちょこ見え隠れしており、レティシアはくすっと笑う。
木陰から、一組のカップルが出てくる。それを目にし、同時に廊下の向こうにいるタリスも目を細める。
カップルの女性の方は、淡い金髪の女性魔道士。手にはレティシアが持っているものと同じジュースのカップを持っており、隣の男性にひとつ手渡したところだった。
そして、その男性は――
(嘘……!)
ボーレ・クラウンだった。
彼は女性からジュースを受け取り、笑顔で何事か言うと二人してパラソルの下に入ってしまった。レティシアは息を呑んで、二人を隠したパラソルを見つめ、そして視線を横にずらし――
「君も覗きか?」
「ひいぃっ!」
いつの間にか真横にタリスがおり、レティシアは飛び上がった。何とか、手に持っているジュース入りのカップは落とさずに済んだ。
まさに今、タリスのことを考えていたのだ。以前ボーレが「彼女がいる」と言っており、レティシアはは漠然とタリスのことかと思っていたのだ。実行委員会は二人で回しているようなものだし、劇の練習でも二人はきちんと役割分担しており息もぴったりだと思うのだが。
(すみません……おっしゃる通り、覗きしてました)
何となくタリスに申し訳ないような気になって、目を反らす。タリスはそんなレティシアを見て、ふっと薄い唇を吊り上げて笑った。
「……どうした? さては、私がショックを受けているとでも思ったのか?」
この女性騎士はやけに人の心の機微に鋭く、しかもそれを遠慮することなくずばずば言ってくる。レティシアは素直に頷くことにした。なぜか、顔が熱い。自分は話題の当事者ではないというのに。
レティシアの反応を見たタリスは、満足げに頷いて中庭に視線を戻す。
「別にそう気に病むことはない。私はずっと、劇と鍛錬のみで生きてきた。美しくなろうなんて、とうの昔に諦めているさ」
悟りきったかのようにはきはきしたタリスの物言いに、レティシアは胸が苦しくなった。
タリスは、ボーレを認めている。認めて、全て受け入れている。
もし、レティシアがタリスの立場だったら、同じように受け入れられるだろうか。「彼」の隣にいるのが自分じゃなくても、ああやって笑うことができるだろうか。
ふと、タリスが視線をこちらに向ける。
「……レティシア?」
「……辛くないんですか」
「まさか。もう、辛いとか言えるような年じゃないさ」
カラカラと笑った後、タリスはひょこっと小鳥のように首を傾げた。
「して……君はどうなんだ?」
「え?」
「悔いのない恋はしているのか?」
言われたレティシアは、きょとんとした後――ボッと赤面する。そして早口に否定しようとして――思い直した。
すっと息を吸い、まっすぐタリスを見つめ返す。
「……しているつもりです」
「ほう、さてはクラートか」
やはりこの女性は直球ストレートを放ってくる。少しくらいオブラートにくるんで差し出してほしいものだ。
だが言葉とは裏腹に、彼女の顔にからかいの色はなく、むしろ純粋に気遣っているように目尻を垂らしている。
レティシアは視線を反らす。これ以上、タリスの真っ直ぐな目を見ていられなかった。彼女の側にいれば、卑屈で臆病な自分の姿が浮き彫りになってしまうように思われた。
「……誰にも言わないでください」
消え入りそうなレティシアの返事に、タリスは驚いたように目を丸くさせた後、ゆっくり頷いた。
夕方ごろ、日が落ちかけてからレティシアたち役者は劇の準備に向かう。大がかりな舞台は大広間に設置されており、既に気の早い観客がチケットの奪い合いをしているとか。
ちなみに売り子係に回ったノルテの話では、大広間一階で見られるのがS席、二階はA席、扉を開けた先の廊下がB席で、ここまでは有料。外から見る分はタダだが、相当見づらいし下手すれば役者の声も届かないため、皆最低でもB席のチケットは買おうと必死になっているという。
「そんでもって……じゃーん」
控え室に行く途中。売り子席からわざわざやってきたノルテは、自慢気にチケットを見せてきた。
「かわいいノルテさんがおねだりして、チケット手に入れちゃった。ほら、S席が五枚――わたしとセレナ、ミランダとカティア、おまけでレイド。後の男はまあ、外で見ればいいんじゃなくて? あ、ちなみにもちろんお金は払ってるからね!」
おそらくノルテがバルバラの王女だからというわけではなく、彼女の人なつっこさと甘えんぼな面をフルに活用させた結果なのだろう。レティシアは「最前列で見るからね!」と言うノルテに手を振って、控え室に向かった。
控え室は今まで練習してきた講堂で、いくつものパーテーションが立てられて役者たちは最後の確認や衣装替えに勤しんでいた。
「こんにちは、レティシア様」
「男子禁制」の立て札が掛かったパーテーションの向こう。窓際には、既にしっかり聖女用のドレスを着たティーシェが待機していた。
彼女自身はちょこんと椅子に座っており、年少の少女たちでティーシェの着付けを行っている。
(さすが貴族のお嬢様……仕度されるのには慣れてるんだ)
「待っておりましたわ。さ、こちらで着替えてくださいな」
「着替えると言っても……」
ちょいちょいと手招きしてくるティーシェだが、レティシアは係の少女から自分の衣装を受け取り、言葉に詰まってしまう。
ティーシェは「身分の高い聖女」役なので、シスターの衣装にしては豪華な造りになっている。純白のローブにはいくつも金糸やイミテーションの宝石が縫いつけられ、彼女の髪もティアラのようにきれいに編み込まれている。爪もしっかり磨いており、彼女が指先を動かすたびに、十枚の貝殻のように艶やかに輝いていた。
一方、レティシアの着替えはものの数分で終わった。レティシアの衣装は飾り気のないローブだけで、腰の所で切り替えになっているため他の人に帯を結んでもらう必要もない。髪は下ろし、手伝おうとする少女を丁重に断って自分でブラシを通した。
ティーシェは、パーテーションの奥から出てきたレティシアをしげしげと見る。
「レティシア様の髪はまっすぐで羨ましいですね」
「そう?」
どちらかというと巻き毛の女性の方が好まれる風習だったと思ったが、ティーシェは首を横に振る。
「カーマルでは、女性は直毛の方が好まれるのです。というのも、カーマルの皇女殿下が見事なストレートの髪をお持ちで。皇女殿下がそうですから、国中で直毛の女性が好まれるのですよ。中には自分の癖毛を矯正して真っ直ぐにさせようとしている貴族の女性もおり、カーマルでは直毛剤がとてもよく売れていますの」
「へえ……」
今まで自分の髪なんて気にしたことがなかった。ただ、直毛の方がまとめやすかったのでありがたかっただけだ。
レティシアと話しながら、ティーシェは立ち上がってマネキンのように両腕を真横に伸ばす。着付け役の少女たちが、ティーシェの注文に合わせて袖の長さをピンで調節したり、髪を結い上げるきつさを変えたりしている。まだ、時間が掛かりそうだ。
レティシアはティーシェたちに一言断り、パーテーションから出た。部屋の中央では準備完了した役者が待機しており、お互いの服装をチェックしたり褒め合ったりしている。だが、どの役者も立派なローブや真新しい鎧を着ており、ローブ一枚のレティシアは何となく浮いてしまう。
(仕方ないな、そういう役だし)
きれいなドレスはアバディーンの時に堪能したので、今はもう結構だ。地味なローブ姿こそが、自分が本当に着るべき服に思われてくる。
「お疲れ、レティシア」
陽気な声に振り返ると、きちっと正装したボーレがやって来るところだった。
「今日はよろしく頼むよ。期待しているから」
「はい、皆の足を引っぱらないように頑張ります」
「そう固くならないで」
あはは、とボーレが笑うと――
「ボーレ」
微かな声。見ると、日中ボーレと一緒に中庭にいた金髪の美少女が。どうやら劇の役者だったようだが、レティシアは少女の顔を正面から見て首を捻る。
役者になって比較的日の浅いレティシアだが、大方の仲間の顔は覚えた。名前と顔が一致する者は少ないが、あの少女は見覚えがない。
(あんな子、いたっけ……?)
だがボーレはレティシアに軽く挨拶して、少女の方へ行ってしまう。二人で顔を突き合わせて何事か相談するのを、少し離れたところから――非常に複雑そうな顔をしたタリスが見つめていた。
「レティシア」
背後から声を掛けられる。聞き慣れた少年――いや、青年の声。
ぽん、と右肩に乗る大きな手。
「お疲れ様。今日は頑張ろうね」
(暖かい、優しい声……)
ゆっくりと振り返った先に立っていたのは、ここ何日もまともに話ができなかった人。
見事な金髪はきちんと櫛を通して額に撫でつけ、肩章と紐状のマント留めの付いた古風な軍服を着ている。三百五十年前の人物ということで流行最先端とは言えない姿だが、それでも彼の内面からにじみ出すような清楚な美を損なうには至らなかった。
静かに微笑むクラートを見ていると、急に自分の格好が恥ずかしくなってくる。ぱりっと軍服を着こなすクラートと、布っきれ一枚の自分。化粧すらしていないことが、今になって悔やまれた。クラートがしげしげと自分を見つめるのが、嫌で堪らない。クラートに見られるのが嫌なのではない。彼に見られるだけの価値のない自分が嫌だった。
(いや、うじうじしているわけにはいかない……!)
「く、クラート様はよくお似合いですね!」
何か言われる前に先手必勝。舌が絡まりそうになりながら、レティシアは早口に言い募った。
「いつもの騎士団服も格好いいんですが、今日は、えーっと……そう、つまり何を着てもクラート様はお似合いですねっ! 衣装に着られていないというか」
話していることがごっちゃになっているのは分かっている。それでもあはは、と陽気に笑ってみせる。
「私なんてほら、ローブ一枚ですからっ! しかもセレナみたいな胸がないんで、ほら、ぺたーんこです!」
ぺらぺらと壊れたおもちゃのように、脈絡なく話し続けるレティシア。そんなレティシアを見るクラートの眼差しが険しくなるのも、ひたすら喋っているレティシアは気付かない。
「せめてティーシェぐらいあればなぁ……なーんて! でも仕方ないですよね、私は脇役なんですから、準主役のティーシェやクラート様みたいに着飾ることはできませんから!」
「……ねえ、レティシア……」
「あっははは……失礼しましたー!」
差し出された手からするりと逃げ、レティシアはばたばたと先ほどのパーテーションに逃げ込む。動きやすいローブ姿なのでこけることもなく、「男子禁制」の女性用着替えルームに転がり込む。
(何してるんだ、私……)
パーテーションに手を突いて、レティシアは今更になって自分の行動の恥ずかしさに身もだえした。
(これじゃあ、まるでやましいことでもしたみたいじゃない!)
分かっていても、これ以上クラートの前にはいられなかった。平静を装っていれば丸く収まったのに、自分で地雷を蒔いて自分で踏んでしまったようなものだ。
ちょうど口紅のノリを確かめていたらしいティーシェは、ぜいぜいと肩で息をして戻ってきたレティシアを見、紫の目を丸く見開いた。
「まあ、レティシア様ったら……汗だくじゃないですか」
「……いや」
「皆さん、わたくしの準備は終わったので、レティシア様の汗を拭いてあげてくださいな」
ティーシェに言われ、少女たちは頷いてタオルを水に浸し、椅子に座り込んだレティシアの頬や腕を拭いてくれる。その間、レティシアは無言だしティーシェは気にした様子もなく、フンフン鼻歌交じりで窓の外を見やっている。
(気まずい……これから本番だってのに)
少女たちに汗を拭かれながら、レティシアはぼんやりと目の前で鼻歌を歌うティーシェを見る。
本当に、女神は一人の人間に二物も三物も与えすぎだ、と心の中で呪いながら。




