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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
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三百五十年祭 1

 三百五十年祭に向けた劇の練習は、着々と進んでいた。


「マーガレット! そこはもっと腕を大きく振る! そんな見えるか見えないかの身振りでは、観客席の後ろまで見えないぞ!」

「レックス! なぜそこで台詞をとちる! おまえは滑舌が悪いのだから、練習しろと言っただろう!」

「そこはおまえが前に出るのだろう、フィオナ!」


 タリス・マージュ副実行委員長の叱責の声は、何日経っても止むことはない。

 そしてもちろん――


「レティシア! もっと腰を低くしろ! おまえはティーシェより背が高いのだから、常に膝を折っていろ!」

「は、はい!」


 脳天を貫通しそうなタリスの声に、レティシアは慌てて言われた通りに膝を折った。常時空気椅子状態で踏ん張るレティシアを、目の前のティーシェは若干申し訳なさそうな顔で見てくる。


 どうやらレティシアの前任の少女魔道士はティーシェよりさらに小柄だったらしく問題なかったが、レティシアはティーシェよりも背が若干高い。急な役者変更は仕方ないにしろ、タリスの拘りがあるらしく、レティシアはティーシェよりも常に目線を低くしなければならないとお達しがあった。幸い、レティシアは今も本番でもふっくらとしたロングスカートを穿くので、不格好な姿勢に関しては問題ない。

 足腰はそこらの少女より丈夫な自信があるが、さすがに農作業で、膝を常に九十度に曲げながら歩くことはなかった。おまけに膝を折ると前傾姿勢になりがちで、体を後ろに倒すように心がけなければ、観客からは常に背が曲がったように見えてしまうそうだ。


(これでも、昨日一晩空気椅子練習したんだけど……!)


 ここで負けてなるものか。昨晩、薄暗い自室で一人、空気椅子特訓した努力を花散らせたくない。両脚ブルブル脂汗ダラダラで必死で空気椅子する自分の姿を、誰かに見られたら自害ものだったろう。

 レティシアが舞台に呼ばれてまだ数分だが、既に脹ら脛と腿が悲鳴を上げており、額に汗が浮かんだ。


「聖女様、どうかお逃げを!」


 ここ十数日で鍛えられた、悲痛な声を上げるレティシア。声を張り上げ、なおかつこのアンバランスな姿勢を保つのはなかなか骨が折れる。


「ここはわたくしが阻止いたします。聖女様はどうか、どうか騎士様と共にお行きください!」

「そんな……あなたは、わたくしの大切な仲間です!」


 レティシアよりずっと慣れた感じでティーシェが嘆く。偽物といえ、彼女の頬には涙が浮かんでいる。さすが女優だ。


「あなたを置いていくなんて、わたくしには……」

「これ以上おっしゃらないでくださいませ、ほら、騎士様がお迎えに……」


 そう言ってレティシアは振り返って後方の舞台袖を手で示した。のだが――


 観客席側の床にあぐらを掻いていたタリスの眉間に皺が寄る。副実行委員長の不機嫌オーラに、レティシアはひいっと小さく息を呑んだ。


(お、怒ってる……まずい、いつになく怒ってるよ、タリス様……!)


 ここでレティシアが示した方から「騎士様」役のクラートが登場するはずだが、当の本人は舞台の脇で俯いて立っている。よく見ると、手元にある何かを見ているようだが――


「……クラート・オード!」


 タリスの怒声が天井を震わせる。タリスのすぐ前にいたレティシアやティーシェのみならず、部屋の隅で個人練習していた者たちも飛び上がる。

 当の本人クラートは名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げた。そして今更自分の置かれた状況に気付いたように、きょろきょろ辺りを見回す。


「……え? あ、ひょっとして……」

「ひょっとして、ではない! おまえ、練習中になに現を抜かしている!」


 ツカツカと歩み寄るタリス。対するクラートは――


(……ん? 今、何か隠した?)


 鬼の形相で迫ってくるタリスを前にしても動じた様子もなく、彼は手を後ろに回して素早く、手に持っていた物を上着の袖口に突っ込んだ。そのまま、目の前に仁王立ちするタリスに向かって深く頭を下げる。


「……申し訳ありません」

「次に役を抜かしたら、つまみ出すぞ!」


 長身のタリスが睨みを利かせて怒鳴り、クラートは黙って頷いた。周りの者たちは、説教されたクラートに同情の視線を向けた後、すぐに自分たちの練習に戻った。第二のクラートになってはたまらない、とばかりに一生懸命台本を読み込んでいる。


 舞台に上がるクラートは、つい十数秒にタリスに説教されたとは思えないほど、落ち着いた表情である。元々彼は落ち込みやすい質ではないはずだが、それにしても彼の切り替えの速さにレティシアは意外な気持ちになった。

 その気持ちはすぐに、不信感に変わる。


(さっきクラート様は、何を見ていたんだろう)


 クラートがティーシェと対話し、レティシアはティーシェの数歩後ろに跪いて二人の逢瀬を見守る。タリスに叱られないよう気を付けつつ、レティシアは前髪の奥からクラートを窺った。

 迫真の演技で「聖女」への愛を綴るクラート。例の物体はかなり奥まで押し込んだらしく、彼の上着の袖口を見ても、何も見あたらない。


(……ひょっとしてクラート様、何か問題があったんだろうか)


 先ほど舞台袖に立っていたときのクラートは、ひどく真剣な眼差しをしていた。スカイブルーの目を細めているような眼差しで、手の平に乗せた物体を凝視していたのだ。

 レティシアの役が終わり、そのまま舞台から下がる。退出しつつ、レティシアは心の中で拳を固めた。


(この後で聞いてみよう……もしかしたら、悩み事かもしれない)










 そろそろ役者たちが、体力的にも精神的にもへとへとになった頃。


「お疲れさん。本番まであと三日だ。素晴らしい劇にできるよう、皆で頑張ろう!」


 床に倒れ込む役者たち。まるで戦死者のように伸びる彼らの中から颯爽と立ち上がって終了宣言する実行委員長。その隣ではタリスが「まだ消灯まで時間があるだろう」と不満げに唇を尖らせている。


(ボーレ様……輝いて見える……)


 くたくたで座り込んでいたレティシア以下役者たちには、不満顔のタリスをなだめるボーレがまるで女神のように見えた。男だけれども。

 ちなみにこの実行委員長、劇の練習中は部屋の隅でお茶を飲んで一部始終を見守るだけなのだが、影では相当働いているらしい。近隣の町への売り込みや、劇以外の催し物の準備、会計など、他の役者たちが授業や騎士団の仕事に出ている日中にあちこち走り回っているという。


 ふと、見慣れた金色の髪を見つけてレティシアは小さく息を呑んだ。


(クラート様……)


 クラートはよろよろしつつも立ちあがり、壁際に置いていた荷物を取った。

 ――その刹那、上着の右袖から何か小さな物を出して、鞄の中に突っ込んだのを、レティシアの目は見逃さなかった。


(やっぱり、何か隠してらっしゃるんだ)


 レティシアは立ちあがり、自分の水筒を持ってごくりと唾を呑んだ。

 クラートはオルドラントの公子であり、レティシアたちには明かせないような秘密も知り得ていることだろう。だから、レティシアが声を掛けたとしてもクラートが話してくれるとは限らない――いや、隠し通す確率の方が高い。


(それでも、何か力になれたら……)


 手に持つ水筒をぎゅっと握る。


(きっと、クラート様は喉が渇いてらっしゃるから、水を勧めよう)


 クラートは最近、自分の水筒を壊して困っていたそうだ。クラートのために、今日は水を持ってきた。水筒を口実に、話を切り出せばいい。


 だが。

 はたと、レティシアは足を止めた。以前は何の気兼ねもなくクラートと話をしていたのに、今は水筒という「口実」がないと、うまく話ができない。そもそも、クラートと話をする時間が減っているように思われる。


『さてはレティ、気になる人がいるんじゃないの?』


 いつぞやノルテが言った言葉が、脳裏に蘇る。


 気になる人。

 レティシアは、講堂の隅にいるクラートを見た。鞄を持った彼は立ちあがり、近くにいる生徒たちと挨拶しながらこちらへ来る。

 思わず、水筒を握る手に力がこもり、爪で表面を引っ掻いて不快な音が立つ。


(クラート様……)


 声を掛けよう。お疲れ様、と笑顔で言おう。

 それだけ、それだけだ。今までにも、何度も同じことをしてきたじゃないか。


「っ、クラートさ……」


 レティシアは決死の覚悟で出したのは、あまりにも小さな声。

 クラートは周りの者より背の低いレティシアの姿に気付かなかったのか、あさっての方向を向いたまま通り過ぎてしまう。そして、誰かを捜すように辺りを見回して――


(あっ……)


 レティシアがいる方向とは別の方に向かって、手招きする。彼に誘われてその隣に並んだのは、ふわふわした金髪の少女。

 空中に差し出した腕を、力なく降ろす。レティシアが見ている間に、二人はその他大勢と一緒に部屋を出て行ってしまう。

 講堂のど真ん中で立ち尽くすレティシアを取り残して。











 数分後。廊下にて。


「……ちっくしょーめーっ!」


 テラスで優雅に夜のお茶会をしていた少女たちは、どこからともなく響いてきた怒声に、びくっと身を震わせた。


 テラスの真下、開放廊下では、オレンジ色の髪の少女がドスドスと足音荒く闊歩しているところだった。床がタイルではなく、柔らかい土だったら間違いなく靴型の穴が空いていることだろう。

 一歩一歩、ブーツをめり込ませるように歩く彼女に気圧され、周りの者もどこか怯えた眼差しで少女のお通りを見送る。


(腹立つ……ああ、腹立つ!)


 こんなことで腹を立てる自分に、腹が立つ。


 レティシアはふと立ち止まり、ぐるりと首を捻って中庭を見やった。そして九十度方向転換し、中庭に向き合う形で回廊端の石段にどすんと腰を下ろした。

 眼差しは虚ろ。顔は上気して頬が赤い。ローブ姿だというのに開脚状態で石段に尻を乗せる姿は、ルフト村にもいる飲んだくれのオヤジと大差ない。その手に持っているのは酒瓶ではなく真鍮の水筒だが、廊下を歩く生徒たちは哀愁漂うその背中を見ても何も声を掛けることができずに、そそくさと通り過ぎていった。


 春の風に髪を靡かせながら、レティシアは思う。

 別に、クラートが誰と一緒にいようと彼の勝手だ。レティシアがそれを咎めたり怒ったりするのはお門違い。むしろ、クラートとティーシェが並ぶ姿は、金髪の美男美女で本当にお似合い――


 レティシアはクラートに渡すつもりだった水筒の口を捻って開け、煽るように水を飲んだ。気管に水が入ってグフグフ悶えつつも、一気に中身を飲み干して荒く口元を拭う。


(……そうだ、私があれこれ言う権利はないんだ)


 口の端から垂れる水をぐいっと拭い、じわじわ熱を持ち始める目を隠すように、腕の中に顔を突っ込む。


(私はクラート様の友だちなんだから、ティーシェと仲よくするんだったら応援しないと)


 自分とクラートは友だち。年の近い、異性の友人。

 今までずっとそうだったではないか。なぜ、この期に及んでこれほどショックを受けるのだろうか。


『……あなたに、二人の恋愛場面を見る勇気があるかってことよ』


(そうだよね、ミランダ)


 ミランダの厳しい顔が瞼の裏に浮かぶ。


(私はやっぱり子どもなんだ。役者になったのに、クラート様とティーシェが仲よくするシーンが、見られない……)


 廊下の端で項垂れるレティシアを、梟の鳴き声が包み込んでいた。











 夜のセフィア城を震わせるような絶叫を上げ、勇ましく座り込んだかと思うと飲んだくれオヤジのように水筒の中身を煽るレティシア。

 そんな彼女を、上階の渡り廊下から見つめる少年の姿があった。


「レティシア様のことが気になるのですね」


 いつもと同じ愛らしい声で囁かれ、クラートは眉をひそめる。訝しげな眼差しを向けられても怯むことなくティーシェは微笑み、クラートの隣に立って渡り廊下の手すりに身を預けた。


「でもその気持ち、分かりますわ。レティシア様は本当に明るくて、素敵な方ですもの」


 クラートは黙ったまま、視線を動かそうともしない。ティーシェもクラートの隣でレティシアを見つめていたが、レティシアがふらりと立ちあがり、危なっかしい足取りで立ち去っていくのを見届けるとそっとクラートを見つめた。


「……それで? 今日こんな時間にわたくしをここへ誘ったのはなぜですか?」


 クラートは、ゆっくりとティーシェを見つめ返した。いつもは快活な光を放つスカイブルーの目が、今はティーシェと同じ、アメジストのような深い色合いになっている。


「ひょっとして、劇のことですか?」


 あどけなく聞くティーシェだが、その眼差しは凛と澄んでいる。愛らしい声の中に、ひっそりと隠れている鋭い棘。その棘は、ティーシェの身を守るためのものなのか、それとも自分の敵を攻撃するためのものなのか。


 クラートは、深いブルーの目でティーシェを見つめる。ティーシェの紫の目も、まっすぐクラートを見返す。


「君は……」


 クラートの唇が動く。

 二人の間を、夜の風が吹き抜ける。


「……何が目的だ?」


 ティーシはひとつ、瞬きした。

 長い睫毛に縁取られた目が伏せられ、その真っ赤な唇が、夜空に浮かぶ三日月のように歪められた――

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