紅い狼と癒しの魔女 3
レティシアたちが来た頃は、まだうっすらと夕日が残っていた。だがすぐに日は完全に暮れ、明かりをともしていないセレナの部屋はねっとりと濃い闇に包まれていた。
うとうとまどろんでいたセレナは、ドアがノックされる音を耳にしてはっと顔を上げた。
一回目が大きく、二回目は小さい、「あの」合図。
「……セレナ?」
優しい声。労るような恋人の声に、セレナは思わず声を上げてしまいそうになった。今すぐドアを開けてその胸に飛び込みたいという衝動に襲われるが、体は意識に追いつかない。脚も腰も重すぎた。
セレナが無言でいると、しばらくの後、コトリと小さな音がした。
「……また明日、話をしよう。今日はゆっくりと休め」
詰るわけでも叱るわけでもない、どこまでも優しいレイドの声。
「……おやすみ、セレナ」
――おやすみなさいませ、レイド様。
心の中だけで返事をすると、すぐにレイドの気配は遠のいていった。
数呼吸置いた後、セレナはゆっくりと体を起こして裸足でドアに歩み寄り、そっと扉を押し開けた。
かさり、と小さな音がして、ドアの角が何かにぶつかる感触がする。
ドアを少しだけ押し開いてみると、廊下の絨毯の上に小さな紙袋が落ちていた。セレナの両手の上に乗るくらいのそれは、手に持ってみるとほんのりと温かい。
部屋に戻って袋を開けると、ふわりと香ばしいパンの香りが鼻孔をくすぐった。薄暗がりの中では見て取れないが、中には夕食で出されたパンが入っているようだ。それも、匂った限りではセレナが好む種類のものばかりが。
食堂で、セレナの体調不良を聞いたレイドが黙々とパンを袋に詰める姿が容易に思い浮かんだ。彼は一体、どんな気持ちでこの袋を置いていったのだろう。
余計なことを言うことなく、優しい言葉と温かい夜食を残して立ち去った恋人。
セレナはパンの袋を胸に抱き、暗闇の中に立ちつくしていた。
朝が来た。
ドレッサーに向かって鏡を覗き込むと、寝起きで疲れきった顔の自分が鏡面に映っていた。それでも、昨夜部屋に戻ったときに見たのよりはずっと肌の色はよくなっている。
セレナは簡単に身支度し、部屋を出た。昨夜、レイドが持ってきてくれたパンを寝る前に食べたのだが、朝になるとさすがに腹が減ってきた。
昨日の非礼をレティシアたちに詫びることもあり、セレナは遅刻しないよう急いで食堂に降りた。のだが。
「いや、セレナが元気になって何よりだし、私たちはいいんだけど……」
既にテーブルに着いていたレティシアが、気まずそうに視線を反らした。隣にいたノルテも肩をすくめ、同席していたクラートも、困り顔で手元のパンを千切った。
彼らが何を言いたいのかは、この場を見れば分かる。
「……レイド様はいらっしゃらないのですか?」
「朝、声は掛けたんだけど生返事しか返ってこないし、諦めたんだ」
クラートは申し訳なさそうに小さく肩を落とした。
「すまない、セレナ。もうちょっと粘ってみるべきだったかもしれない……」
「いえ、クラート様のせいではありません」
答えつつも、セレナは胸の奥から湧き出た言い様のない不安に、表情を歪めた。
ひょっとして、昨夜のことが原因なのだろうか。
セレナに会いたくないのだろうか。
朝食の後、講堂へ向かうべく年下の魔道士たちが列を成して廊下を走っていく。途中、すれ違った魔道士団長に「廊下を走るな!」と叱咤され、全員が全力の早歩きですれ違ったのを見送り、セレナは男子棟へ続く渡り廊下を歩いた。
よく晴れた、春の日。吹き抜けの渡り廊下は風通しが良く、今日のような晴れ渡った日には遥か彼方まで見通すことができる。
暖かい空気を胸一杯に吸い、セレナは足を進めた。歩く度に、胸に抱えた紙袋がかさかさ音を立てる。
レイドの好きな、カットチーズとバジルを練り込んだパンと、練乳仕立てのクロワッサン。ヨーグルトソースが中に入ったクリームパンに、バターたっぷりのロールパン。
彼が好きなものばかりを詰め込んだ紙袋を、セレナはそっと抱きしめた。昨夜レイドがしてくれたことを、同じように返してあげたかったのだ。
チャイムが鳴る。一校時目が始まった城内はしんとしており、遠くのグラウンドで教官が声を張り上げるのが、風に乗って微かに届いてきていた。
男子棟内もしんとしており、ぽかぽかと温かな日差しが注がれ、開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込んでいた。
セレナは春風に長い髪を弄ばれながら、何度も通ったことのあるレイドの部屋の前まで来た。他の者たちはネームプレートなど、部屋の前に何らかの形で自分の部屋を表すようにしているが、レイドにはそういった意向はないらしい。よく言えばシンプル、悪く言えば殺風景な木製のドアの前で、セレナは一度、大きく深呼吸してからノックした。
「誰だ」
不機嫌極まりないレイドの声。
「おはようございます、レイド様。セレナです。お時間よろしいでしょうか」
セレナが言っている最中に、がたりと椅子の引かれる音がし、慌てた様子の足音が近付いてくる。すぐさま鍵が外され、驚きの表情のレイドが出てきた。
灰色のシャツに綿のズボンというラフな姿の彼はドアの前にちょこんと立っているセレナを見、意外そうに目を丸くさせた。
「セレナ……体調は良くなったか」
「はい、おかげさまで」
そして訝しげな眼差しをするレイドに、手に持っていた紙袋を差し出した。
「昨夜はご迷惑をお掛けしました。あと……差し入れありがとうございました」
「……別に、礼を言われるほどのことではない」
「でも、お腹も空いていましたし、ありがたかったです。それから……」
言って、戸惑いの表情のレイドに紙袋を押しつけた。
「レイド様、今朝の朝食に降りてこられなかったので……いくつか、私の方で見繕ってきました」
「おまえが……」
レイドの表情がふっと和らぐ。レイドは素直に紙袋を受け取り、ドアを大きく開けた。
「……入れ。茶でも淹れよう」
相変わらず殺風景な、レイドの部屋。
必要最低限の家具しかなく、用途のよく分からない書類や紙の束がまとめて、部屋の隅に据えられた木箱に乱雑に放り込まれている。
その手には無頓着なのか、本や洗った衣服なども全て、面倒くさそうにチェストに放り投げられている。その一方で、普段皆で会合するときに使う茶器はきれいに食器棚に収まっているし、数年前の冬にセレナが贈った手編みのセーターはきちんと手入れされてハンガーに吊されている。型崩れ対策のためか、糸が伸びないようにセーターの下部は緩く折り畳み、真下の小型クローゼットの上に垂らしていた。
まさに、レイドの性格が現れた部屋。
茶を淹れる手伝いをしようとしたが、やんわりと断られてセレナはソファに座り、レイドが慣れた仕草で二人分の茶を淹れる姿をぼんやりと眺めていた。
ふわりと漂う、オレンジの香り。
部屋を見回していたセレナはふと、部屋の隅にあるデスク上のものに注目した。
古びたオーク材のデスクの上には、基本的に物はない。机の上はきれいにしたいというのがレイドのモットーだと、聞いたことがあったのだが。
セレナはゆっくりと立ちあがり、デスクに歩み寄った。そして、その机上に置かれた紙の束に視線を注ぐ。
誰かからの手紙らしい、丸められた紙。その端から見える、可愛らしい丸文字。側に置かれた真新しい紙には、殴り書きのようなレイドの字がいくつか並んでいた。
「……悪い。片付けていなかった」
背後からレイドの声がする。セレナはゆっくりと振り返り、カップに紅茶を注ぐレイドの元まで戻って大人しくソファに座った。
オレンジの紅茶は、とろりと甘く、後味に残る酸味が舌先を擽った。ふうふう息を吹きかけながら紅茶を飲んでいると、向かいに座っていたレイドが緩く眼差しを垂らした。
「……うまいか? それ、おまえのためにと思って購入したのだが」
「私のためですか?」
セレナはカップから顔を上げた。確かに、果実系の紅茶が好きだと言ったことはあったが、レイドが自分のために見繕って買ってくれたのだとは。
胸の奥がほっこりと暖かくなったのは、何も熱い紅茶を飲んだせいだけではないだろう。
セレナはふうっと息をつき、レイドを見つめた。レイドはしばらくじっとセレナを見つめ返していたが、徐に口を開いた。
「……単刀直入に聞こう」
その声には、緊張が混じっていた。
「おまえは……昨日、マージ・ブリギッタに会ったのだな」
セレナは目を瞬かせ、レイドの灰色の目を見つめた。何かに怯えているような、恐れているかのような色が、その隻眼に浮かんでいる。
こっくり、セレナは頷く。
「はい……確か、お付きの人にマージお嬢様と呼ばれている方でした」
「……おおまかな次第は、別の奴に聞いた。それに……本人からも」
レイドが目線だけ動かし、デスク上に無造作に広げられた手紙を見やる。
きっとあの愛らしい手紙はマージ・ブリギッタから送られてきたのだろう。ある程度予想は付いていたことなので、セレナはゆっくり頷いた。
「レイド様にもご迷惑お掛けしました。私ももう少し、上手く対応できれば……」
「おまえが気負う必要は一切ない」
ぴしゃりと言い返すレイド。
「あいつがおまえのことを聞きつけて、勝手に暴走しただけのこと。周りの奴らも事細かく教えてくれた」
――おまえ、ちょっと両目が離れすぎじゃなくって?
――おまえみたいな不器量、いずれ飽きられるに決まってる。
耳の奥で、昨日マージ・ブリギッタが吐いた暴言の数々が再生される。ばっちり化粧を施した顔を歪めて、容赦なく言葉のナイフを投げつけてくる女性。何も言い返せず、呆然とするしかできなかった自分。
カップを持つ手が震える。セレナは勢いよくカップをソーサーに戻し、精一杯の「笑顔」をレイドに向けた。
「そうでしょうとも……でも、本当にお気になさらないでください」
「セレナ」
「あれしきのこと……本当に、何でもないので」
そう、本当に何でもない。
顔のことなんて、ずっと前に諦めているし悟りきっている。生まれ持った容姿なんてそうそう変えられないし、たとえ変える術があったとしても、それに縋り付こうとは思わなかった。
そんな必要、なかったから。セレナの容姿がどうだろうと、包むような愛情を与えてくれる恋人が、ここにいるのだから。
それでも。
――レイドの初めては、全てわたくしが頂いているのよ。
マージ・ブリギッタの、勝ち誇った嘲笑。
セレナはぐっと唇を噛み、膝の上で拳を固めた。過去なんてどうだっていい。レイドだって、昔のことを気負っているのだから。自分が気にするなんて、お門違いなのに。
「……私は……」
気付いてしまうと、抑えることはできなくて。
「……レイド様の、初めてにはなれないのですか……?」
蚊の鳴くような、ため息の合間に漏れたような、微かな言葉。だが、レイドの耳はきちんとセレナの心の叫びを捉えてしまった。
レイドの左目が驚愕で見開かれる。だがそれも一瞬のことで、目はアーモンド型に吊り上がり、眉間に深い皺が刻まれていく。
「……あの女、おまえに何を言いやがった……」
「レイド様……」
「……合点がいった。おまえがこれほど憔悴しているのは、あの女に……その手のことを言われたからだったのだな」
レイドの過去を掘り出すこと。セレナでも癒しきれない、レイドの奥深くに刻まれた傷跡を抉るように暴露したこと。
レイドが負っている過去は、セレナも心を痛める点であった。
レイドはしばし苛立たしげに歯ぎしりしていたが、ふと表情を消し、静かにソファから立ち上がった。
セレナがぼんやりと見つめていると、レイドはテーブルを回ってセレナの隣に座り、その右手を手に取った。
「……こうなったら、隠す必要もないだろう」
聞いてくれ。レイドはまっすぐ、セレナを見つめた。
「……俺にとっても不名誉なことだが、マージ・ブリギッタの言ったことはあながち大嘘ではないんだ……」




