紅い狼と癒しの魔女 2
「本当に、劇の練習って大変よね」
あくる日。
劇の練習に使われている講堂前を通った際に友人が呟き、セレナは顔を上げた。
「三百五十年祭企画『聖槍伝説』劇練習中!」との札の掛かったドアは固く閉ざされており、実行委員会副委員長のタリスが発するキレのよい声が廊下にまで響いていた。
「本当にね……私の仲間も参加しているけれど、毎日くたくたになるまで特訓してるわ」
「そうなのよ。遅くまでこの部屋の灯りが点いているしね」
腕を組んでうんうん頷く友人は、黒い巻き毛を持った女性魔道士である。セレナと同い年で、彼女も一般市民出身。セレナが十三歳の時に入学したときからの付き合いであった。
お互いがそれぞれ騎士団に入るまではいつも一緒に行動し、共に精進しようと約束し合った親友であり、良きライバルでもあった。
騎士団に入ると必然的に会う時間は減っていったが、定期的にお茶はしていたし、こうして同じブロンズマージの授業があるときには一緒に教室に行っていた。
セレナがコツコツ積み上げる派であることに対して、彼女は先天的な才能を持った天才肌である。お互い得意分野や不得意分野があり、教え合えることも大きな刺激になっていた。
今日も、礼儀作法の授業を隣同士で受けたところだった。
「クリスの所は隊長が役者になったから、しばらく活動停止なのよね」
「そう。それはそれで寂しいけれど……」
でも! と友人――クリスティン・メイリーはさっと顔を上げ、キラキラと目を輝かせた。
「オーウェン様の晴れ舞台だもの! 私、劇の時には最前列を取ってかぶりつきで見るのよ!」
「やっぱり恋人の勇士は間近で見たいわよね」
「あら」
歩いていたクリスティンはふと立ち止まり、セレナをじっと見て微笑んだ。
「セレナ、彼氏ができてから言うようになったじゃん」
「……そう?」
「そうよ! お互い、自分の騎士団の隊長とお付き合いできるなんて、本当に幸せよねぇ!」
頬に手を当てて笑顔を浮かべるクリスティンを、セレナはほほえましく見つめていた。
セレナよりも先に恋人を捕まえたクリスティンだが、セレナがレイドと付き合うようになったと報告すると手放しで喜んでくれた。
「ただ……ねぇ」
クリスティンはふいに表情を歪め、肩を落とした。
「……役者の中にも多いらしいのよ。オーウェン様狙いの子。私という彼女がいてもお構いなしで、あれこれオーウェン様にまとわりついてくるそうよ」
「でも、オーウェン様はお断りしているんでしょう?」
「もちろんよ! 毎晩、恋人はクリスだけだ、って言ってくださるの。それでも……」
――不安で。
クリスティンの最後の一言は、セレナの胸を穿った。まさに、ここ数日セレナを悩ませている種。
愛されていると分かっていながらも、不満を感じてしまう。行く先に不安を抱いてしまう。
クリスティンと自分の悩みは若干違うだろう。それでも、恋人との間柄に思い悩むという点では何ら変わりはない。
ふとセレナは、以前クリスティンが口にした言葉を思い返した。
『オーウェン様はすごくお優しいのよ。でも……ほら、オーウェン様はハッドライン商家のご子息でしょう? でも私は地方都市の一般市民。不釣り合いだ、身をわきまえろ、って取り巻きから言われることもあって』
そう語るクリスティンの横顔はひどく悲しく、そして儚かった。
互いに想い合いながらも、「好き」なだけでは叶わない恋。互いを愛しながらも認めてくれない世間。
草原の戦闘民族出身であるレイドと、辺境の町出身の自分とでは身分に大差はない。だが、誰もが認め、見とれる美男子であるレイドと、至って平凡、もしかしたら不美人の部類に入るかもしれない自分とでは、それこそ「釣り合っていない」と言われても文句は言えない。
レイドはセレナを褒め称え、全てを受け入れてくれるが、それでもどうしても、周りの目が気になって仕方がなかった。
「……恋するのも大変よね」
セレナのつぶやきを聞いたクリスティンは目を丸くし、そして愛らしい顔をくしゃりと綻ばせた。
「うん……お互い頑張ろうね、セレナ」
「もちろんよ、クリス」
二人の恋する女性は、互いに切ない笑顔でほほえみ合った。
次の講義の準備をするというクリスティンと図書館の前で別れ、セレナはぐるぐると肩を大きく回した。今日の授業は全て終わった。騎士団の仕事も特には入っていないので、自由時間だ。
今晩もレイドが来てくれるだろうから、何か焼き菓子でも用意して待っておこうか。いつもの優しい笑顔を見せてくれるだろうか。ほくほくと期待を胸に、セレナは踵を返した。
「お待ちなさい、そこの小娘」
焼き菓子に練り込む茶葉は何がいいだろうか、と考えながら歩いていたセレナは、背後からやかましく響く声が自分に向けられているのだと気付かなかった。それも当然。セレナは「小娘」という名ではないのだから。
「お待ちと言っているでしょう!」
後ろから急に肩を掴まれて漸くセレナははっと我に返り、ぎゅうぎゅうと肩を掴んでくる爪の痛さに顔をしかめた。
「いっつ……!」
「おまえ、セレナ・フィリーとかいう小娘ね」
ぐいとばかりに肩を掴んで引かれ、セレナは無理矢理後ろを向かされた。
フラフラしつつ振り返ると、そこには見慣れない出で立ちの女性が立っていた。セフィア城の制服とは全く違う、胸元がぱっくり開いた重厚なドレス。スカートはウエスト切り替えでドレープが掛かり、幾重にも襞を作り出しながら床まで垂れている。
いかにも高級そうなドレスに、化粧ばっちりな顔。そのまま微笑めば相当の美女なのだろうが、セレナに掴みかかる彼女の顔は憤怒で歪んでおり、それを目の当たりにしたセレナはゾッと背筋を凍らせた。
廊下を歩く生徒たちが何事かと注目する中、女性はセレナの姿を上から下までじろじろと不躾なくらい眺め、フンと嘲笑うように鼻を鳴らせた。
「んまあ……噂には聞いていたけれど、本当に不細工な小娘ね。おまえ、ちょっと両目が離れすぎじゃなくって?」
どこか哀れみさえ含まれた女性の言葉に、さっとセレナの肝が冷えた。
自分の顔立ちが十人並み――いや、平均以下程度であることは自覚していた。顔のパーツについても、美人とは言えないことだって幼い頃から分かっていた。
だが、今まで一度もそれを面と向かって言われたことはなかった。だからこそ今まで耐えられていたのに。
体が冷たくなったのは一瞬で、すぐに全身が熱を持って手に嫌な汗が流れる。それでも相手は、どう見てもセレナより年上のどこぞの令嬢。
すっと息を吸い、セレナは真正面から女性に向き直った。
「失礼しました。何か私にご用でしょうか」
「そうよね、失礼よね。……おまえの存在自体が」
吐き捨てるような台詞。声自体は潤いを持った魅惑的な声色だが、その端々に込められた言い様のない怒りと憎しみが、彼女の声さえねじ曲げていた。
女性はネイルアートの施された爪を閃かせ、不躾なほどじろじろとセレナの体を上から下まで眺めた。
「おまえ、レイドと付き合っているんでしょう? レイドも物好きよねぇ。こんな胸ばかり大きいブスで満足するなんて。将来、娼婦にでもなるつもり?」
周りで野次馬になっていた者たちは、はっとしてセレナから顔を背けた。
だがセレナは女性から顔を背けることもできず、ぐっと唇を噛んで彼女のチクチク刺さるような暴言を受けるしかできなかった。
「でもね、残念だけれどおまえだっていずれ棄てられるわ。その胸でレイドを誘惑したのだろうけれど、おまえみたいな不器量、いずれ飽きられるに決まってる。それに……」
セレナの肩が自由になる。だがセレナが女性から距離を置くより速く、女性はもう片方の手に持っていた扇子でびしっとセレナを指した。
「レイドの初めては、全てわたくしが頂いているのよ。おまえなんて、レイドが付き合った女の一人に過ぎないわ」
どくん、と心臓が一拍大きく鳴る。
レイドの初めて。それが分からないほど、セレナは幼くない。
顔色を青から赤に染めるセレナを、女性は心から嫌そうに眺めた後、ずいと一歩セレナに歩み寄ると――
「……さっさとレイドから手を引きなさい! この泥棒猫!」
頬に一発、強烈な扇子の一撃を見舞った。
不意打ちをかわすこともできず、セレナの体が傾ぎ、抱えていた教科書がバラバラと床に落ちる。
ギャラリーが驚き戦く中、女性は苛立たしげに扇子を打って背後を振り返った。
「帰るわよ。さっさと馬車の準備をおし」
「お嬢様、ご用はお済みでしょうか」
どこからか声がする。きっと「お嬢様」と呼ばれたこの女性のお付きなのだろう。
「ええ。ひとまずはね。お父様のご用事も終わったことですし、さっさとこんな薄汚い城から出るわよ」
「はい、マージお嬢様」
女性が歩くと、集っていた者たちは慌てて道を譲る。花道のように廊下に通路が開かれ、そこをさも当然そうに女性が歩いていく。
嵐のようなひとときが過ぎ、廊下には廊下にへたり込んで項垂れるセレナと、どうしていいか分からない群集が取り残された。
「……なあ、さっきの女って誰?」
「見たことある気がするけど……」
「俺、知ってる。ちょっと前に卒業した魔道士だよ。どっかの街の商人の娘とかで、まー嫌な奴だったよ」
「でも、レイド・ディレンの彼女だったんだろ?」
「らしいな……といっても結構昔だったろ」
あれこれと噂話に興じる者たち。セレナはどうすることもできず、ヒリヒリ痛む頬に手を当てていた。
と。
「レイド様、こっちです!」
遠くから響く少年の声。はっとして顔を上げれば、群集の頭の間から見え隠れする赤い髪が。きっと、野次馬の誰かがセレナの危険を察してレイドを呼んだのだろう。
それまでの消沈が嘘のように、セレナは素早く立つと踵を返し、だっと廊下を駆けだした。驚いた野次馬たちが慌てて道を譲る。
背後から恋人の声がする。
セレナは唇を噛み、廊下の角を曲がると大理石の円柱の影に身を滑らせ、しゃがみ込んで震える息をついた。
ばくばくと鳴る胸に手を当て、静かに目を閉じる。間もなくセレナの体から淡い黄色の光が溢れ、その光の粒子はセレナの体を包み――ふわり、と霧がかき消えるように、セレナの姿が消え去った。
城内でむやみに魔法を使ってはならない。その規則は重々承知しているが、今は校則に従っている暇ではないし、そんな心のゆとりもなかった。
セレナが柱の影で息を潜めていると、廊下の角からレイドが姿を現した。
全力疾走したのだろう。息が上がっており、髪はぐしゃぐしゃに乱れている。走ったためか、マントの端が片腕に絡まっていた。
それほどまで必死になって追いかけてくれた恋人を騙すのは、気が引けた。それでもセレナは結界を解くことなく、息を殺してじっと、レイドを見つめていた。
魔力に鈍感なレイドは案の定、柱の影で姿を消しているセレナに気付くことはなかった。彼はきょろきょろ辺りを見回した後、眉をぎゅっと寄せてセレナの前を通り過ぎ、駆けていった。
セレナの名を呼びながら。
彼の声が完全に消え去ってから、セレナは魔法を解いた。授業開始のチャイムが鳴った後で、廊下は既にしんと静まりかえっている。
重い腰を上げ、今にも折れそうになる脚に鞭打ち、セレナはとぼとぼと来た道を戻った。
胸の奥が重い。頭がズキズキ痛む。
壁に手を伝わせながら廊下を戻り、先ほど女性に絡まれた場所まで来る。既に人は全員はけているが、親切な者がいたらしい。先ほどまで床にぶちまけられていたセレナの本は全て、廊下の窓際にあった花瓶用テーブルに重ねて置かれていた。
セレナはそれを持ち――その重さに顔をしかめた後、足を引きずるようにして自室へと戻っていった。
分かっていた。
レイドにとって自分が「初めての女」でないことくらい。
セレナは自室のベッドに仰向けになり、熊のぬいぐるみをぎゅっと胸に抱いた。実家から持ってきたぬいぐるみだが、当時は付けていなかった真っ赤なリボンが、その首に巻かれている。
数年前のセレナの誕生日に、レイドが花束を贈ってくれた。その時のリボンを、セレナは愛用のぬいぐるみに付けておいたのだ。
レイドがかつて、酷い女遊びをしていたことを、セレナは知っていた。
セフィア城に来て間もなくのレイドは何も――本当に何も知らず、年上の女性のおもちゃになっていたこと。都合のいいように使われ、自分のためだけにレイドを弄び、そして飽きたなら壊れた道具のように彼を棄てたことも。
その後、感覚の麻痺した彼が女遊びに染まり、教師陣から「素行不良・要注意」と言われるまで壊れ続けていたこと。そんな彼を見かねたオリオンやミランダによって、ようやっと更正できたこと。
レイドはそんな自分の苦い過去を、包み隠さず話してくれた。それでもセレナはレイドのことが好きだったし、彼を愛しいと思う気持ちが揺らぐことはなかった。
だが、今日その「過去の女」に会ってしまった。おそらく、幼いレイドを壊す原因になっただろう女性と。
――コンコンと、セレナの思考を遮るかのようにドアがノックされる。
「セレナ、いる?」
「そろそろ晩ご飯だけど、調子はどんな?」
レティシアとノルテの声だ。彼女らが食事に呼びに来ることはよくある話だが、その声にいつものような快活さはない。伺うような、気遣うような遠慮がちの声だった。
レティシアたちの耳にも、夕方のことが届いたのだろう。そのことで落ち込んだセレナが自室に籠もっていることも。
セレナはベッドから上半身を起こし――すぐにまた、ぽすりとベッドに沈み込んだ。
とてもではないが、夕食に出られそうにない。腹は減っていなかったし、何よりレイドと会って笑顔を浮かべられる自信がなかった。
心の中でレティシアとノルテに謝りつつ、ぎゅっと目を閉ざしてうずくまっていると、うーん、とドアの外でノルテが唸った。
「まだ体調悪いかな?」
「セレナ、私たちはご飯に行ってるから、ゆっくり休んでね」
「しっかり寝ないとお肌にも悪いからねー!」
そうして、ぱたぱたと二人分の足音が遠ざかっていった。息を詰めて二人がいなくなるのを待ち、セレナはきつく唇を噛んだ。親友二人への申し訳なさと自分の不甲斐なさで胸が苦しく、目尻が熱くなる。
勢いよく枕に頭を突っ込み、くぐもった嗚咽を漏らす。
自分が情けなくて、どうしようもなかった。




